周りを気にしないこと、背伸びをしないこと、無理をし過ぎないことに幸せがある。

周りの価値観を気にすると不幸な気持ちに意識が行きかねない。

色んなことを制限されているようにも思える。

暗黙に禁止されていることが多いように思える。

周りを気にせず、心の奥底から湧いてくる感情に寄り添えば、行き着くところは愛しかない。

憎しみも、束縛も、支配も、嫉妬も、攻撃的なところも、表面的な考え方から生じてくる。

無形の存在から生まれ、ほんの一瞬過ごせるだけの地上世界で愛に目覚めず、カネに翻弄されるようでは、もったいないことである。

一度、愛の感情に目覚めれば、いつでも愛の世界に帰って来ることができる。

今まで愛と勘違いしてきたものは何か。

感情を満たすことが仰々しくも愛と勘違いしてきた。

偽善であることも愛と勘違いしてきた。

与えることが愛であると勘違いしてきた。

愛の感情に目覚めれば、与えること、与えられることに関わらず、生きることそのものが愛であることに気づく。

いつでもそこに在るものが愛であった。

宗教も道徳も感情も超えたところに在るものが愛であった。

存在していることを喜ぶことが愛であった。

なくしたときに初めて気づくこと。

あるものには意識が行かなくなり、存在を忘れているのに、なくしたと思うと急に意識が行くようになる。

人はあるものには無頓着であるのに、ないものには執着する。

なぜそのようにできているのか。

大事なものであると思っていても、意識が行かなくなっていることで、ないものと同じになっている。

その状態は悪い状態ではなく、心地よいはずの状態である。

だが、心地よさを感じないのはなぜか。

いつも目的や目標だけを、あるいは前向きであることだけを大事にしているからではないだろうか。

良い意味での上昇志向である。

だが、上昇志向も行き過ぎては、すでにあることを否定し、さらにあることだけをひたすら求める渇望症になるのではないか。

意識は、あることよりもないことに向けられる。

そのことは、人に本来必要な意識に気づかせるためにあるのではないか。

ないことを意識することによって意識が開かれ、気づくことも多くなる。

ないことの意識は、意識の上昇を意味する。

カネよりも愛を選択する意識を上昇させる。

独占、支配することよりも、分配、自由にすることの意識を上昇させる。

このような意識の上昇を、地球は願っている。

一人ひとりが、ないことの重要性に気づき、愛の意識を上昇させる。

あることよりも、ないことが大事だということの意味に気づくだろうか。



支配から逃れることができるか。

 
200年以上の歴史を背景に、世界を牛耳って来た勢力の支配から。
 
急速にデジタル全体主義への準備が進められていく。
 
もはや、自由社会に生きていたという幻想を思い出にして、反抗することもなく大きなうねりに飲み込まれていくところだ。
 
社会がどのように進んだとしても、心の中にあるものまで変えることはできない。
 
落胆や恐怖よりも愛の感情を深めていくことが生きる目標である。
 
怒りや愚痴よりも笑いや願いに愛がある。
 
見えないところで戦い続けてくれる力がある。
 
そちらの方に焦点を合わせる方が健全だ。
 
しかし、戦っているように見えて、実は目標とすることは同じであるかもしれない。
 
それが権力を維持するためであるのか、大衆に権力を解放するためであるのかの違いは大きいと思えるが。
 
ワ○チ○を接種しないと行動が制限されるかは大きな問題のように思える。
 
接種を拒否して行動が制限されたならば、制限された中で笑いや願いを維持できることを探していけばよいのだろう。
 
大きなうねりが来ている。
 
このような経験ができることは滅多にない。


世の中には、2種類の人種が存在する。

 

カネによって動かされる人種と、愛によって動かされる人種とがある。

 

もちろん、両者は明確に割り切れるものではない。

 

しかし、問題の根本は、ほとんどがここに行き着く。

 

時には、カネとカネが対立することがあれば、愛と愛が対立することもあるだろう。

 

カネを最優先に考えるか、愛を最優先に考えるか。

 

ビジネスはカネである。

 

プライベートは愛である。

 

多くの人がこのような切り分けをするだろう。

 

しかし、現実は、ビジネスが愛であったり、プライベートがカネであったりするわけだ。

 

カネを最優先する場合には、人を操作したり、手段を選ばなかったり、人を支配しようとする。

 

愛を最優先する場合には、人に共感したり、最小限の手段を選んだり、人を自由にさせようとする。

 

2つのことが対立する場合には、ほとんどがカネと愛の対立になっているか、カネとカネの対立になっているわけだ。

 

地位、財産、名誉などの既得権益を有する者は、カネを最優先する傾向にある。

 

愛のために既得権益を捨てようとはしない。

 

苦労が少なくなると、愛も少なくなる傾向にある。

 

既得権益を有しない者は、愛を最優先する傾向にある。

 

愛のために何でも捨てる覚悟がある。

 

苦労が多いと、愛も多くなる傾向にある。

 

対立する立場の距離は狭まらない。

 

今見ている現実が、どう作られているか。

 
今見ている現実は、人の想念が作り出した仮想的なものかもしれない。
 
マスクをしなければ店にも入れず、電車にも乗れない。
 
人と会話をするときもマスクを着けなければいけない。
 
花粉症でなくてもマスクを着けなければいけない。
 
国とメディアが一丸となって、ウイルスの危険性を煽り、マスクの着用を強要する。
 
世界が計画的に作り変えられるために、国とメディアが操られている。
 
明らかに分かるような計画に従うように、人類は方向付けられていく。
 
この世界は、実は相当前から仮想的世界に入っていた。
 
大衆の心を操っていくことは、実はそれほど難しくなかった訳だ。
 
今生きている現実をよく考えてみると良い。
 
大きな仮想的な力に引っ張られている。
 
人は憎しみ合う生き物なのか、それとも愛し合う生き物なのか。
 
言葉は巧みに使い分けられる。
 
綺麗な言葉の中身が綺麗であるとは限らず、汚い言葉の中身が汚いとは限らない。
 
この仮想的世界では、言葉の中身まで見ることが難しい。
 
中身は綺麗でもなく汚くもない。
 
中身はそのどちらでもある。
 
だからこそこの世界で生きること自体が、成長するために貴重な経験となる。
 
実際に起こることだけにとらわれず、起こらないことに目を向ける必要もある。
 
次に計画されていることが分かったとしても、仮想的世界に巻き込まれずに成長する道は残されている。
 
 

ほとんどのメディアが正しくないことが見えてしまった。

 

これほど短い期間に、色んなことに明るみになるとは驚きである。

 

正しさは誤りになり、誤りは正しさになる。

 

人道的なことは非人道的であるかのように扱われ、非人道的なことは人道的であるかのように扱われる。

 

善対悪の戦いを見抜ける力がなければ、大きな間違いを起こす。

 

宗教、信じることが悪として扱われ、無宗教、信じないことが善として扱われる。

 

そのような恐ろしいことが広がれば、人は人であることの地位を失ってしまう。

 

信じる者には、先がどのように展開されるかを信じ続けることができる。

 

誤った報道に惑わされる必要はない。

 

信じる者には、正しい報道が送られる。

 

信じる者は、最後にどうなるかを見通すことができる。

 

今はあきらめる時ではなく、信じて耐える時である。

 

人にとって一番大切なことは、信心と愛である。

 

信心をなくすから、あきらめて、自らを陥れてしまう。

 

時代は、混乱の後に必ず好転する。

 

信心と愛があればよい。


アメリカ大統領選挙において、私たちは、大人のいじめを見ているのだろうか。

 

大統領は、正義感が強く、悪を暴こうと必死である。

 

これに対して、悪の側は、大統領が悪であるとしようとして必死である。

 

未だかつて、ここまで正義感のある大統領を見たことがあるだろうか。

 

どこまで叩かれても、いじめられても、決して屈しない。

 

心の内に悪がある者は、悪は他人にあると押し付けようとする。

 

心の内に悪がない者などいないかもしれないが、自分の心の内に悪があることを認識する者は、他人に悪を押し付けたりはしない。

 

人の心はいかようにでも変化する。

 

脅しを受けて誰かを守ろうとすれば、善が悪に変化することもある。

 

自分の身を守ろうとすることだけが悪でもない。

 

悪を他人に押し付けようとして、いじめを行う。

 

悪の組織の中枢には、根深い人間の欲望がある。

 

善であるだけでも生きられないのが人間である。

 

人間に生まれて学ぶべきことの中には、悪もある。

 

いかに人間が凶悪になり、悪を暴かれないために他人をいじめることがあるかを。

 

私たちは、いじめの現場を傍観するだけの者なのだろうか。

 

悪に共に立ち向かう勇気はないのだろうか。

 

学ぶ機会があるにもかかわらず、そのことにさえ気づかない人間は愚かである。

 

また、気づいていながら傍観するだけの人間も愚かである。

 

アメリカの大統領選挙は、決して心休まるものではないが、人間というものはどういうものかということを教えてくれている。

 

悪ではなく、正義に勝って欲しい。

 

非人道的な主義ではなく、人道的な主義に勝って欲しい。

 

カネ、権力ではなく、愛に勝って欲しい。

 

救われるべき者は、一部の特権階級の者ではなく、一般市民であって欲しい。

 

これらの当たり前のことを普通の人間は望むから、互いに相手を非難する。

 

正義は互いにあるのだろう。

 

人道的な主義は互いにあるのだろう。

 

愛は互いにあるのだろう。

 

互いに救われたい者であるのだろう。

 

汚い手を使う者には負けて欲しい。

 

暴力を使う者には負けて欲しい。

 

思いやりのない者には負けて欲しい。

 

そんな善良な一般市民が立ち上がるから、善が悪として取り沙汰されて、報道される。

 

人間の想いのスパイラルに陥る。

 

人間はどうあればよいのか。

 

どう生きてどう死んでいけばよいのか。

 

それぞれの中にある想いに問いかける時が来ている。


かすかな光が差してきた。

 

この世界では、このまま観音の光は消えていくようにも見えていた。

 

まだ落胆するだけでもない。

 

たとえこちらの世界で見捨てられたように見えても、あちらの世界では観音の光は顕在している。

 

まだこちらの世界をあきらめることもない。

 

破壊的に見える状況は、成長を遂げるための、人類に課せられた試練である。

 

一喜一憂することがあっても、成長するためには、足を止めるわけにはいかない。

 

どのような試練であっても、想像することの自由まで奪い去ることはできない。

 

自由な未来のために祈る。

 

長くブログを更新してこなかった。書くことの休息期間であった。

 

パンデミックの発生後、考えてもいなかった多くの世間の闇に興味を惹かれ、多くの気づきもあった。

 

この気づきは、明るいものではなかった。

 

しかし、この気づきは、この世間から見れば、人の営みによって生じる当たり前の現象に過ぎない。

 

人がこの世で生きる以上、自らを守り、自らの利益になり、争いに勝てるようにすることは、当たり前のことである。

 

あちらの世界からわざわざこちらの世界にやってきて、学ぶべきことは多い。

 

気づきを得られるのも、こちらの世界に居られる間だけだろう。

 

この世の僅かな旅の間に気づくことも少なく、あの世に去っていくことは、いかにももったいない。

 

多くのことを知れば、その分、混乱も多くなる。

 

混乱のまま旅を続けることもある。

 

どこにたどり着くかは分からない旅をすることになる。

 

しかし、混乱しないままの旅では得られるものは限られる。

 

闇に引き寄せられるのであれば、闇を知らない方がよいとも思える。

 

しかし、知らないままの旅には、愛は存在しない。

 

愛は心地の良いものだけではないからだ。

 

死に直面した時にも、愛は生き続けている。

 

愛は、この世だけにあらず、あの世から繋がっているものだからだ。

 

愛が死ぬことはない。