支配から逃れることができるか。
世の中には、2種類の人種が存在する。
カネによって動かされる人種と、愛によって動かされる人種とがある。
もちろん、両者は明確に割り切れるものではない。
しかし、問題の根本は、ほとんどがここに行き着く。
時には、カネとカネが対立することがあれば、愛と愛が対立することもあるだろう。
カネを最優先に考えるか、愛を最優先に考えるか。
ビジネスはカネである。
プライベートは愛である。
多くの人がこのような切り分けをするだろう。
しかし、現実は、ビジネスが愛であったり、プライベートがカネであったりするわけだ。
カネを最優先する場合には、人を操作したり、手段を選ばなかったり、人を支配しようとする。
愛を最優先する場合には、人に共感したり、最小限の手段を選んだり、人を自由にさせようとする。
2つのことが対立する場合には、ほとんどがカネと愛の対立になっているか、カネとカネの対立になっているわけだ。
地位、財産、名誉などの既得権益を有する者は、カネを最優先する傾向にある。
愛のために既得権益を捨てようとはしない。
苦労が少なくなると、愛も少なくなる傾向にある。
既得権益を有しない者は、愛を最優先する傾向にある。
愛のために何でも捨てる覚悟がある。
苦労が多いと、愛も多くなる傾向にある。
対立する立場の距離は狭まらない。

今見ている現実が、どう作られているか。
ほとんどのメディアが正しくないことが見えてしまった。
これほど短い期間に、色んなことに明るみになるとは驚きである。
正しさは誤りになり、誤りは正しさになる。
人道的なことは非人道的であるかのように扱われ、非人道的なことは人道的であるかのように扱われる。
善対悪の戦いを見抜ける力がなければ、大きな間違いを起こす。
宗教、信じることが悪として扱われ、無宗教、信じないことが善として扱われる。
そのような恐ろしいことが広がれば、人は人であることの地位を失ってしまう。
信じる者には、先がどのように展開されるかを信じ続けることができる。
誤った報道に惑わされる必要はない。
信じる者には、正しい報道が送られる。
信じる者は、最後にどうなるかを見通すことができる。
今はあきらめる時ではなく、信じて耐える時である。
人にとって一番大切なことは、信心と愛である。
信心をなくすから、あきらめて、自らを陥れてしまう。
時代は、混乱の後に必ず好転する。
信心と愛があればよい。
アメリカ大統領選挙において、私たちは、大人のいじめを見ているのだろうか。
大統領は、正義感が強く、悪を暴こうと必死である。
これに対して、悪の側は、大統領が悪であるとしようとして必死である。
未だかつて、ここまで正義感のある大統領を見たことがあるだろうか。
どこまで叩かれても、いじめられても、決して屈しない。
心の内に悪がある者は、悪は他人にあると押し付けようとする。
心の内に悪がない者などいないかもしれないが、自分の心の内に悪があることを認識する者は、他人に悪を押し付けたりはしない。
人の心はいかようにでも変化する。
脅しを受けて誰かを守ろうとすれば、善が悪に変化することもある。
自分の身を守ろうとすることだけが悪でもない。
悪を他人に押し付けようとして、いじめを行う。
悪の組織の中枢には、根深い人間の欲望がある。
善であるだけでも生きられないのが人間である。
人間に生まれて学ぶべきことの中には、悪もある。
いかに人間が凶悪になり、悪を暴かれないために他人をいじめることがあるかを。
私たちは、いじめの現場を傍観するだけの者なのだろうか。
悪に共に立ち向かう勇気はないのだろうか。
学ぶ機会があるにもかかわらず、そのことにさえ気づかない人間は愚かである。
また、気づいていながら傍観するだけの人間も愚かである。
アメリカの大統領選挙は、決して心休まるものではないが、人間というものはどういうものかということを教えてくれている。
悪ではなく、正義に勝って欲しい。
非人道的な主義ではなく、人道的な主義に勝って欲しい。
カネ、権力ではなく、愛に勝って欲しい。
救われるべき者は、一部の特権階級の者ではなく、一般市民であって欲しい。
これらの当たり前のことを普通の人間は望むから、互いに相手を非難する。
正義は互いにあるのだろう。
人道的な主義は互いにあるのだろう。
愛は互いにあるのだろう。
互いに救われたい者であるのだろう。
汚い手を使う者には負けて欲しい。
暴力を使う者には負けて欲しい。
思いやりのない者には負けて欲しい。
そんな善良な一般市民が立ち上がるから、善が悪として取り沙汰されて、報道される。
人間の想いのスパイラルに陥る。
人間はどうあればよいのか。
どう生きてどう死んでいけばよいのか。
それぞれの中にある想いに問いかける時が来ている。
かすかな光が差してきた。
この世界では、このまま観音の光は消えていくようにも見えていた。
まだ落胆するだけでもない。
たとえこちらの世界で見捨てられたように見えても、あちらの世界では観音の光は顕在している。
まだこちらの世界をあきらめることもない。
破壊的に見える状況は、成長を遂げるための、人類に課せられた試練である。
一喜一憂することがあっても、成長するためには、足を止めるわけにはいかない。
どのような試練であっても、想像することの自由まで奪い去ることはできない。
自由な未来のために祈る。
長くブログを更新してこなかった。書くことの休息期間であった。
パンデミックの発生後、考えてもいなかった多くの世間の闇に興味を惹かれ、多くの気づきもあった。
この気づきは、明るいものではなかった。
しかし、この気づきは、この世間から見れば、人の営みによって生じる当たり前の現象に過ぎない。
人がこの世で生きる以上、自らを守り、自らの利益になり、争いに勝てるようにすることは、当たり前のことである。
あちらの世界からわざわざこちらの世界にやってきて、学ぶべきことは多い。
気づきを得られるのも、こちらの世界に居られる間だけだろう。
この世の僅かな旅の間に気づくことも少なく、あの世に去っていくことは、いかにももったいない。
多くのことを知れば、その分、混乱も多くなる。
混乱のまま旅を続けることもある。
どこにたどり着くかは分からない旅をすることになる。
しかし、混乱しないままの旅では得られるものは限られる。
闇に引き寄せられるのであれば、闇を知らない方がよいとも思える。
しかし、知らないままの旅には、愛は存在しない。
愛は心地の良いものだけではないからだ。
死に直面した時にも、愛は生き続けている。
愛は、この世だけにあらず、あの世から繋がっているものだからだ。
愛が死ぬことはない。








