この世界は、働くためにあるように思えるから、働くことだけ考えていたらそれだけで人生は終わってゆく。

働くことは稼ぐことだから、結局お金のことだけ考えて、人生の意味など考えることもない。

どこから来てどこへ帰るのか、どんなことをしてどんな風に思ったか、足りなかったことは何か、自分のことばかり優先していなかったか。

お金に基づくことは脆く、裏切られやすく、落胆しやすい。

お金に関係ないこと、お金を気にしないことは、強く、裏切られることもなく、落胆することもない。

人の心を捉えられるのはお金ではなく、お金に関係ないことである。

しかし、現実問題として、お金を気にしないことでも、お金が必要になる。

お金をなくさないために、仕事をなくさないために、働くことが優先される。

ほとんど働くことなしに生活ができる人はこの世では成功者と呼べるかもしれないが、この世を去れば失敗したことに気づくことが多い。

この世でやるべきことを忘れて、あの世に去ると、未練が残る。

不思議だ。

この世に生きる意味も。

あの世に去るための準備だったとは。

人は自分と他人を明確に分けたがる。

自分のことには大金を使っても、他人のことには大金を使いたくない。

他人が悪くなっても自分とは違うと思い、無頓着になる。

関わらないことが最善のように思う。

確かに、関わることによって恨まれることもある。

触らぬ神に祟りなし、ということだろう。

しかし、人には避けて通れない試練が課される。

試練は、他人のためにあるように見せかけて、自分のためにある。

他人のために家族を犠牲にしても良いかという問題がある。

犠牲の程度によるのだろうか。

シルバーバーチの霊訓によれば、他人のために家族も犠牲にしなければならないときもある、ということだろう。

一体どんな犠牲を払ったと言えるか。

生死に関わるような犠牲だろうか。

大抵、そのような重い試練を課されることはない。

人は、ちょっと損することを、莫大な損をすることのように思っている。

それだけ自分のことには時間もお金も掛けられても、他人のことには時間もお金も掛けられない。

得することだけ選びたいのが人である。

しかし、最後に得をするのは誰か。

シルバーバーチの霊訓によれば、他人のために時間もお金も掛けた自分ではないか。

情けは人の為ならずで、巡り巡って自分の為になる、ということわざが示している。

一時の喪失感を一生の喪失感と、勘違いしていないか。

損することには過敏に反応するのが人である。

得をしたことはあっという間に忘れる。

損することを恐れない。

人に課される試練である。


年を取ると情けなさが増える。

若きも年寄りも心配するのはお金のことばかりだ。

人として生まれていながら、何とも情けないことだ。

人として生まれたから、情けないことばかりなのかもしれない。

若者よりも年寄りの方が強欲になり、自己主張や被害妄想が当たり前になる。

年を取るほど強欲になるのが人なのだろうか。

結局は人は、自分さえよければ他の人がどうなっても大して気にもしない。

それが人として生まれた定めだとでも言うのか。

人としてのプライドを持っていれば、お金に苦しむことがあってもお金に潰されるようなことはない。

人としてのプライドに、後からでもお金は着いてくる。



束の間の短い一生であるのに、人は怒ってばかりである。

自分の常識、社会の常識のことを考え、誰かの言った言葉、思い込み等であることに気づかず、人に怒りは付き物である。

束の間の短い一生であると思うのであれば、自分の周りにだけでも、怒りのない楽園を創るようにしたい。

それが社会の常識から外れたものであっても、楽園は人を苦しませるようなことはしない。

大人も子供も幼いときには楽園を見るのに、常識を身につけるごとに楽園をなくしていく。

人に課された課題は単純である。

人を受け入れ、人にどんな贈り物をすることができるのか。

たったそれだけである。

すべてのことはそのことを実現するためにあるに過ぎない。

地獄と思えるような冷たさの中にも、楽園を創ることはできる。

観音さまの愛は永遠に消えない。

愛の中に生きて、愛の中に消えていく。

そんな願望が頭を過る。

願望なのか欲望なのか、生きていく上で欲は絶えない。

生理的、物質的な欲が満たされたら、最終的には愛の欲に惹かれていく。

それでも金銭的な欲はいつも絶えない。

仕事がなくなれば、愛の欲を持つこともできなくなる。

人には、他人に奉仕して得られるお金が必要である。

生理的、物質的、社会的に成り立つために、必要なお金がある。

愛の欲に浸されているときには幸せを感じる。

仕事をする場合でも同じである。

金の欲に浸されるときには幸せかどうかは関係がなくなる。

仕事をする場合でも同じである。

基盤にするのは愛の欲であることがよく分かる。

幸せになるための欲は愛の欲しかないように思う。

凡夫としての欲は絶えず、凡夫としての人生を送る。


何もない朝に思う。

これが一番幸せであると。

何もなく、先のことも後のことも考えていないから、今ここに存在していることになる。

太陽の光が明るいことを実感する。

生きていくために色んな言葉を選んできたが、本当に生きることに言葉を選ぶ必要はない。

生きていくことには難しいことが付き物だが、真剣になるほど難しくなる。

人生には9割の冗談と1割の誠実があれば十分であるようだ。

冗談には、どんなときにも弱音や愚痴を吐かず前向きに居られる、隠れた効用があるようだ。

自分の欲望や怒りや愚かさをあっさり認めて、冗談が前面に出てくるようにすればよい。

なぜ人がちっぽけなのかは、自分に拘っているからに違いない。

いかにして人に施すかは、冗談のように思えて冗談から生じてくるものである。

もちろん計算された冗談ではない。

自分のことを笑い飛ばせてしまえるような執着のなさからくる冗談のことである。

この人生も冗談に過ぎないのか爆笑

観音の立場からすれば、人のために苦労することなど何の苦労もないだろう。

観音にとってみれば、愛による人の救済が役目だから、苦労は喜びであるだろう。

観音は肉体を持たないので、見えないところで人を救済する。

観音とは違い、人は肉体を持つので、苦労には肉体の疲労が付きまとう。

人は疲れたときには休まないと愛も継続しない。

人の想いは肉体とは別のところにあるが、肉体あっての想いである。

人による人の救済は、特別な意味を持つ。

身を削っての働きがその人を成長させる。

疲れたときには観音に願うことである。

見えないところで力を貸してくれる。

人を救済することが、観音の遣いであることを自覚するための助けとなる。

この世で、すべてを愛のために捧げることができたら、何の悔いも残らないだろう。

しかし、現実は、お金の問題であったり、時間の問題であったり、体力の問題であったり、気持ちの問題であったり・・・、と凡夫を止められない。

夢の世界であったり、音楽の世界であったり、祈りの世界であったり・・・、想像の世界においては愛の中に存在することができる。

この世から想像の世界をなくしてしまうと、同時に愛の世界もなくすことになるだろう。

ただ、愛の世界に拘ると、菩薩の心境から離れることになる。

愛とは逆の、憎しみの世界であったり、欲の世界であったり、怒りの世界であったり・・・、見たくない世界に在ってこそ初めて愛の世界が生かされる。

観音菩薩は愛に拘って人を救済するわけではない。

愛とは逆の怨みを聴いて、人を救済するのかもしれない。

相対的な愛ではなく、絶対的な愛に気づいているから、救済する者を選ばない。

条件を付けたり、選択することはない。

存在することにも拘らないから、絶対的であり、いつも満たされている。

凡夫からは見えない存在である。

地獄とは何か。

鬼に毎日苦しめられる世界。

痛みと憎しみと苦しみと悲しみなどしかない世界。

望むものが手に入らず、消えていく世界。

生命を維持するために欠かせない水や食事もない世界。

しかし、地獄では肉体はすでになくなっているので、あるのは感情や意識だけである。

感情や意識が地獄の世界を作り出す。

地獄では、肉体や脳がすでに消滅していることに気づかず、この世と同じように存在していると思っているから、痛みも憎しみも苦しみも悲しみも消えない。

地獄は、その人の心の現れである。

心が変わらない限り、地獄から抜け出すことはできない。

それと同じで極楽浄土も、その人の心の現れである。

心が穏やかであれば、自然と極楽浄土の方へ向かっていく。

心のあり方次第で極楽浄土へ行くか地獄へ行くかが変わる。

それでも地獄の方へ引っ張られるのは、この世がいかに平静を保つのに難しくなっているのかを示している。


真宗門徒ならば、死んだら極楽浄土に行きたいと願う。

南無阿弥陀仏による救済を受けようというものだ。

そのために自分の行いを反省する「ざんぎ」がある。

生きているうちに苦労していると思っているから、せめて死んでからは楽がしたいと願う。

しかし、その楽は何を意味するかによって違ってくる。

苦労を感じる元は自分で作り出しているに違いない。

思考によって苦労していると決めつけているだけである。

思考次第では、この世に苦労はなくなる。

他人から何か言われることに惑わされてはいけない。

生きていくためには、人の力を借りる必要があるが、人に魂を貸す必要はない。

思考は自分だけのものである。

苦労は間違った思考からやってくる。

極楽浄土を願うならば、菩薩の心境に近づくことが有効だ。

菩薩は楽しみにも苦しみにも執着しない。

菩薩も、仏、他の菩薩の遣いとして動いているに違いない。

我らのような凡夫が自分の思考に拘るから、苦労はなくならない。

思考は自分だけのものであるように思えて、自分だけのものでない。

一人で生きているように思えて、一人で生きている訳ではない。

後ろに在る力に気づいていないだけである。

自分の思考に拘らないのであれば、行き先は極楽浄土でも地獄でもどちらでもよいはずだ。

行き先は自分で決められることではない。

仏、菩薩の遣いであることを思い浮かべればよい。

菩薩は極楽浄土を願っている訳ではない。

極楽浄土を願うのは凡夫である。

しかし、この世に生きて、凡夫を卒業することはできない。

凡夫であると同時に、背後にある菩薩と共に生きる。

菩薩は極楽浄土に行くために、人を救済するのではない。

地獄行きも覚悟しての救済である。

菩薩のその心境が極楽浄土なのである。