この世の人生が今日で終わるとしたら。

今日やりたかったことが変わっただろうか。

どうであっても、今日一日を生きられたことに感謝し満足する。

人は明日のことを考えるから不安になる。

仕事がなくなる、体が持たなくなる、老後の資金が足りなくなる、・・・といった心配がすべてになる。

不安はどこまでも拡大していく。

不安を断ち切るには、お金や体の心配を止めて、今日生きていることが、普遍的に続く暖かい感情の連鎖の一部であることを思い出せばよい。

感情、言い換えると霊的な深層世界から見れば、お金や体は、この世限りの流動的な価値しかなく、消えてなくなるものである。

頭で分かっていても、心に浸透していないと、また不安になって堂々巡りする。

頭で理解しても無駄のようである。

すぐに忘れてしまう。

実感を持たなければ意味はない。

実感も一時のことで消えていく。

大事なことは、何度も何度も繰り返し思い出すようにする。

今日一日は、暖かい感情の連鎖の一部であることを。

この人生は一度きりだとしても、霊体として続いていく人生が残っている。

体は消耗品であるから、時がくれば使えなくなる。

人が生きることにどれだけの価値があるのか。

人は知能が少ない動物に比べて多くのことを知って生きているように思えるが、人工的に作られたことを知るようにしているだけである。

生きるということが何であるかは動物の方が分かっているのかもしれない。

人は、生きることに必要なことと、必要でないことを人工的に入れ替えて、都合が良いと思える方向に社会を変えていく。

動物が本能的に分かっている必要なことは、普遍的なことで、人が人工的に変えてきたことである。

それでも人をやめることはできない。

自ら設けたルールに縛られて生きていく。

本能的に必要だと思うことは変わらない。

どんなにボロボロになっても、どんなに汚くなっても、持っていたいものがある。

どんなに反対されても、どんなに拒まれても、やらなければならないことがある。

自分のことを捨てたとしても、やり遂げなければならないプライドがある。

人が生きる上で失ってはならない愛がある。

できるところから少しずつやるだけでいい。

見放してしまえばそれで終わりである。

すべての人が見殺しにしてしまってはいけない。

ここというところで力を借りよう。

必ず良くなる日が来る。

人が生きていくことは楽ではない。

体が不自由になれば尚更である。

ゴミ屋敷となってしまった家に行った。

普通の人から見ると不思議になるのだが、新聞紙やゴミを捨てられない。

新聞紙は資源ゴミとして出さなければいけない、という決まりがある。

資源ゴミとしてまとめなければゴミとして出せず、人の手を借りなければゴミ出しが難しい。

それならばなぜ新聞を取るのか。

そこに意味があった。

新聞屋さんとの過去のつき合いである。

おそらく新聞屋さんのことを思って新聞を取り続けていたのだろう。

自分の生活環境が悪くなるだけなのに、人の手助けになることを考えて、習慣を変えられずに何年も過ごした。

その結果がゴミ屋敷である。

人に対する想いが、自らをゴミの中に埋めようとしてしまっている、とでも言うのか。

普通の人が住める環境ではない。

薄々感じていながら、掃除を拒否されることに乗じて、見過ごしてきた。

不幸ではあるが入院されたことを期に、片付けるための絶好の機会が得られた。

京都 穴太寺
忙しくしていると大事なことを忘れてしまう。

見えることはないが、いつも働いている力がある。

観音力とでもいう力が働いている。

疲れ切っているときであっても、見えない力で影から支えられている。

疲れ切っていると何の力も感じられなくなる。

休むことが必要なだけだ。

しかし、疲れていてもがんばる必要があるときは、観音力を信じる。

そっと後ろから力を貸してくれる存在にすがりつく。

拒否されることはない。

自分という自我が生きているだけでなく、集合体の中の普遍的存在として自分が生きている。

これは気が楽になる考え方だ。

観音力に守られながら生かされている。

良いことだけでなく、悪いことは必ず起こってくる。

自我という自分の都合だけで見ると落ち込むが、普遍的存在という集合体の立場で見ると落ち込むこともない。

すべては必要だから起こることである。

自我という自分からすれば苦労がなくなってしまえば良いと思うが、それでは普遍的存在という自分の成長はない。

何が起こっても、ただ感謝するしかない。

それが普遍的存在であることを認めることになるからだ。

人と共に行動することは楽しい。

休日であれば日常的なことは忘れて、今の時間を楽しめればよい。

人が存在する意味は、人と一緒にいるときに感じられる。

人には人が必要だ。

それであっても、一人で行動することによって、人が存在する意味を一層強く感じられる。

自分の外に気を向けることでしか得られない楽しさがある。

それと同じように、自分の内に気を向けることでしか得られない楽しさがある。

人の充実感は、自分の内にも外にも気を向けることによって強く感じられる。

人の気持ちは意外と内か外のどちらかに偏って向けられることが多い。

そこを少し修正できると充実感が増える。

京都 善峯寺
体温が下がらないようにして、心の体温も維持する。

寒くならないようにして乾燥を防ぐ。

冬に弱くなったのでかなりの警戒が必要だ。

思っていることを話すために、言葉を探す。

仕事の薄っぺらい話だけにならないように気をつける。

それでも薄っぺらくなるのは自分が元々薄っぺらいからだろう。

感情の厚みはすぐには産まれない。

自分とは反対の立場のものを受け入れると、少し厚みができる。

薄っぺらいものも受け入れると、少し厚みができる。

薄っぺらいのは他人にはあらず、自分であることに気づくと、少し厚みができる。

自分の感情のちっぽけなことに気づく。

人の人一生は深さと厚みを追求していくことに意味がある。

しかし、浅さと薄っぺらさを除外しようとすると、深さと厚みは追求できない。

京都 柳谷観音
人の体臭は臭い。

人に迷惑をかけないように、人に嫌われないように、臭うことを隠したい。

周りとの関係で生きているから、臭わないようにしたい。

自分の臭いに敏感になると、他人の臭いにも敏感になる。

臭いは人を特徴づけるものである。

臭いは主に食べているものに影響される。

それだけでなく、精神的なプレッシャーを感じているとき、調子が悪いときには、良くない臭いがするに違いない。

心地良いときには良い臭いを想像するものだ。

自分の臭いを清くし、他人の臭いを許容するように努力する。

臭いは精神世界につながる。

春のジャスミン、秋のキンモクセイの匂いはいつも懐かしい。

年を取ると、若いときにはできないと思っていたことが意外と簡単にできるようになる。

若いときには何となく恥ずかしいと思っていたことだ。

自分の些細なことを気にすることを止め、良かれと思うことをするだけで良い。

年を取るごとに普遍的な大きなものに近づいていけば良いだけだ。

気にすることが少なくなれば、生きていくことが楽になる。

体が痛いと思うことは増えるが、気持ちの面では救われていると思うことが増える。

一番恐ろしいことは死であるが、何かを残さなければいけないと思うから死を恐れる。

人の命ははこの世のことだけではないから、焦って何かを残そうと思わなくても良い。

小さな出来事がすべてであっても良い。

どんな事にも嘆かないことが、良い結果を残す。

年を取るごとに体の劣化が目立つようになり、思い通りに行かないことは増える。

体が動かなくなると行動が落ち着くだけでなく、気持ちも落ち着く。

人に助けられて生きていることを実感するようになる。

人にとって老いは大切である。

老いがあるから、在ることの有り難さが分かるようになる。

見た目だけ気にして少しでも若く見えるようにしたいのが人である。

老いは人から嫌われている。

しかし、老いがあることによって得られることも多い。

精神的な落ち着きが、自分を見直す機会を与え、今まで気づいていなかったことに気づけるようになる。

老いを隠すことに必死になることは良いが、見た目以上に気にしたいことが普段の行いであると良い。

老いるほど感謝する機会が多くなる。

老いることにも感謝した方が良いくらいである。

若いときには気づかなかった新たな境地にたどり着けるだろうか。

それこそが本当の意味での人生の醍醐味である。