思想の主人であるためには、簡単に流され、簡単に気を変えるようであってはならない。

自分の思想を支配することは、良いと思うことをごまかさないことであり、良いと思うことに支配されることである。

人の思想は弱く、強い信念を持っていないと、すぐに忘れ去られるものである。

流されないためには、内に秘めたるものを忘れず、繰り返し思い出すことである。

繰り返し思い出すことが信念へと変わってゆく。

自力だけで信念を支配することは難しい。

他力に支配されて身を任せることも必要である。

他力は、信念を持つ者に働きかけている。

このままで居たら、人生はあっという間に終わってしまう、と焦ることは誰にでもある。

今を生きることができず、自分を表現できていないと思っているからだろう。

人は理想的には、今を生き、自分を表現できているときに幸せを感じられる。

将来のために耐え忍び、自分を押さえているときに、自分の存在は一体何かと悩むときがある。

本当の自分はどこか別のところに在る。

今の自分は仮の存在であり、真の自分ではないと思う。

周りに焦点を当てているから、真の自分に悩むことになる。

周りの目を気にしてしまっている証拠である。

周りがどのような環境であったとしても、自分に焦点を当てていられれば、真の自分に悩むことはない。

自分のどこかで周りを過小評価していないか、自分のどこかで周りを嫌っていないか。

心の中にある、仏へと続く愛の感情を持っていれば、例え孤独であったとしても環境に呑み込まれることはない。

悩む衆生となるか、悟った仏となるかは、気持ちの持ち方の違いだけである。

長岡京市 柳谷観音(楊谷寺)
人は所有することに拘ってはいけない。

手に入れたものは、自分のものと思うからうまく行かなくなる。

社会において手に入れたポジション、結婚して手に入れた家族、苦労して手に入れたマイホームなどなど。

それらは所有するものとして捉えてはいけない。

それらにも所有されない自由度がある。

たまたま自分の手元にあるものであって、所有しているものではない、という謙虚さが必要だ。

よいポジションを得たとしても、部下や同僚などから、本当は居なくなって欲しいと思われているかもしれない。

よい家族を持っていると思っていても、本当は離婚して欲しい、あるいは早く家を出たいと思われているかもしれない。

よいマイホームを得たとしても、ローンを返せなくなって手放す、あるいは災害によって奪われてしまうかもしれない。

この世に不変であるものは存在しない。

自分が所有していると思っていると、謙虚さが損なわれ、少なからず驕りが生じる。

驕りは人の敵である。

他人に悪影響を与える。

できれば無くすようにしたい。

所有していると思わないだけでいい。

そこにあるものに感謝の気持ちを持つだけでいい。

共に在ることに感謝を。

人が親になるには理由がある。

動物が種族を残すというだけの理由ではなく、人格を成長させるためという理由がある。

そのことに気づく人はどれだけいるか。

気づいていることは他人には見えないが、見えるときもある。

多いように思えて少ない、少ないように思えて多い。

親になるには自分の成長のためである。

子供のために生きると思うことは、子供のためにはなく、自分の成長のためにある。

親となって、人間としての貴重な経験を積むことができる。

人が他の動物と違う重要な部分である。

親になれたことは貴重な経験である。

子供にどう接するかは自由であるが、与えられた貴重な機会を無駄にするか役立てるかは自分次第である。

そろそろ人類の多くが気づくようになる。

唯物主義に流されてきて見えなくなっているものに。

人のためにできることは少ないが、何かできるのではないかと考えることが心地良い。

結局人が満たされるのは何か役に立てたと思えることであるからだ。

数少ない機会を見逃さず、ちょっとした機会を見逃すと、何かできることはほとんどなくなる。

性格も人格も、ちょっとした受け止め方の違いだけで、全く違うものになる。

性格も人格も一瞬の反応に反映される。

実際に何かできたことではなく、できるのではないかという推測が心を潤す。

直接何かすることではなく、何かしたいと思う心だけで充分に満たされる。

菩薩が実際に衆生を救える機会は少ない。

菩薩は衆生を救いたいと願う心だけで満たされている。

だから心の力は無限に働く。

人は身体を維持するために、物質的、金銭的なことから離れることができない。

必要最小限であるところに留まることができない。

人がシンプルになるには、必要最小限に留まり、何かできるのではないかという願いを持つことが有効だ。

興味のままに振る舞うことはよいことだろうか。

興味のままに質問するから、傷付けることも多い。

人は自分を中心としてしか物事を見ることができないので、ついつい興味本位に聞いてしまうことは多い。

その何気ない質問が実は相手を傷付けることがある。

全く予想していなかったことだと思う。

興味がないと何も聞く気になれず、冷たい存在になってしまう。

興味を持てるからコミュニケーションが生まれる。

しかし、この興味が興味本位になってしまうと、もはや自己中心的な振る舞いに転じてしまう。

興味は、冷たい分析的な興味ではなく、暖かい受容的な興味でないと、人を傷付けることがある。

人に向けられる興味は、人格を反映する。

物に向けられる興味は、分析的であればよい。

人と物の決定的な違いは、魂が宿っているかいないかの違いにある。

興味本位になってしまう場合は、理性的、分析的な心が中心になっているからだろう。

人には温度がある。

この温度が人によって違う。

だから、人に向けられる興味はいつも、暖かく受容的であるとよい。

人は、他人のことは見えても、自分のことは見えにくい。

どうしてか分からず、他人に冷たくされる経験は誰にでもあるだろう。

特に何もしていないと思うのになぜか。

他人の過去の経験に基づく決め付け、仕事の能力がないと評価されることに基づくいじめ、人格を過小評価されることに基づく敬遠など。

ひょっとすると、自分を過大評価していて、他人の基準とかけ離れていることもあるだろう。

自分の損得に拘わらず他人の成長、幸せを想えるほど成長した大人であればよいが、そういう大人は少ない。

自分にとって有益でない、あるいは気に入らないと思えば、冷たく接する大人は少なくない。

誰しもどこかでは損得勘定を持って人に接している。

度合いの違いだけのようにも思える。

冷たくされると感じるときには、自己評価を見直してみてもよい。

謙虚であることは人格を成長させるための第一歩である。

他人の過去の経験に基づく決め付けで冷たくされた場合には、自分の態度次第でいかようにも状況を変えられる。

この場合は、天によって反応を試されているのかもしれない。

ちっぽけなひとりの人間を見るよりも、人間の背後にある天を見ればよいだろう。

自分でする評価は、天による評価とすればよい。

人を超えたものによる評価が、人格に対する評価である。

人格が透けて見えることがある。

良い方の人格が見える場合はいいが、悪い方の人格が見える場合には、背筋が冷える思いがする。

言葉の奥にある、人を見下すように思える態度や空気。

他人に明らかに悪いと思える人格的な根拠があれば仕方ないのかもしれないが、そうではなく勝手な思い込みで他人の人格を否定することは見苦しい。

嫌いだという勝手な思い込み、あるいは自分にとって有益でないことを理由とした冷たい視線。

長年生きてきた習慣としての、言葉や態度を変えることは難しい。

無意識のうちに言葉や態度として出てしまうことがあるだろう。

人格は明示されるのではなく、にじみ出るものであるから、無意識なふとした反応に現れる。

ごまかそうとしても、ごまかせないのが人格である。

反面教師にできることは多い。

忘れようと思っても、夜中に起きて思い出すことがある。

人のことが気になることがある。

あれからどうなったかという心配事が起こる。

心配事は他人を気遣うように見えて、自分の勝手な思い込みであることが多い。

他人をよく見る習慣を持つことは大事だが、それによって心配事を増やすことは間違っている。

他人の悪いところも合わせて見て、良くも悪くもすべては摂理によって導かれると考えた方がよい。

冷たいようになってもいけない。

ただ暖かくなりたいという願望だけがあってもいけない。

摂理は冷たいものではない。

摂理は、人の成長のために働く。

暖かさに包まれている。

暖かさに気づく勇気が持てないために、冷たさを感じる。

夜中の心配事は人を不眠症へ導くが、昼間の心配事は人に感受性を与える。

同じ心配事でも、闇の中と光の中とでは受け止め方が変わる。

人を闇に連れて行くか、人を光に連れて行くかは、僅かな受け止め方の違いによる。

摂理の元であれば、心配することはない。

身を任せていけばよい。

人は、帰れる場所があるから落ち着いていられる。

一緒に生活する家族がいるから、辛い仕事があったり、行きたくない学校があったり、空想の世界に迷い込んだりしても、元の落ち着いた心を取り戻せる。

家族と疎遠になったり、離婚したり、死別したり、お一人様になる可能性は誰にでもある。

これだけシングル社会が広がった背景には何があるか。

家族や身内から離れ、気の合う友達を増やせるからだろうか。

合わないものは切り捨て、合うものだけを残そうとするからだろうか。

例えば親との同居世帯がなくなるように、無理に合わせる必要などないと考えるためだろうか。

それともネット社会が広がったためだろうか。

世の中が変わるスピードが早くなり、世代間の交流は疎遠になるだけで、世代間の接点は失われて行くだけだろうか。

楽しいことだけ求めればいいのだろうか。

一人で居た方が楽だと思うこと、親と同居しない方が楽だと思うことは多いだろう。

お互い譲歩することが少なく、自分の立場からだけ考えてしまう。

視野が狭くなってしまう、人が本来持っている普遍的な性質だから、仕方ないと片付けてよいのだろうか。

誰もが心の奥では、このままでいいのだろうかと思っている。

それと同時に束縛されないことの自由さを感じている。

人にとって一番大切なことを、ないことにしなければよいのだが。