人は愛を忘れると、現実的な唯物的な利己的な動物になってしまう。

利己的であることが理性であると勘違いしてしまう。

この経済社会で損得勘定は必須のものであるが、これが行き過ぎると愛を忘れる。

この経済社会で人のために役立つことを志す。

どのような素晴らしい志があっても、志が収益に変わらなければ生きていくことはできない。

この経済社会で生きる人間の限界である。

だから、利他的な志と、利己的な志との区別はつきにくい。

どちらも理性でもってすれば、見分けがつかない。

そんなときに指標とできるのが、愛を忘れていないかどうかである。

愛は特定の好きなものだけに向けられるものではない。

愛は自己の働きによって広がるものでもない。

愛は見えない力によって広がるものである。

愛はどこにいるときも誰に対しても流れ込むものである。

自分にとって都合の良い人だけに向けられるものは愛ではない。

理性を隠れ蓑にして利己愛は生き続ける。

それがこの経済社会をつくっている。



人は、たとえ間違った習慣であっても止めることはできない。

誰かに明確に指摘されて止めることがあれば、指摘されても反感を持つだけで終わることの方が多い。

そもそも本当に間違っていると言えることは少ない。

だから生きづらさを感じることは、変わりにくい。

生きづらさは習慣が生み出す。

習慣を変えられれば、生きづらさが解消されることが多い。

しかし習慣は簡単には変えられない。

習慣は他人との関係によってつくられているからだ。

習慣を変えるには、他人との関係を変えなければいけない。

他人に向ける視点を変えて、習慣を変えていこう。



人はこの物質世界に慣れすぎてしまって、帰る場所を忘れてしまった。

帰る場所はマイホームだけでなく、誰にでも平等に現れるもう一つの楽園がある。

生きることに必死になっているから、もう一つの場所を忘れてしまっている。

否定されることはない、嫌みを言われることもない、気を使うこともない、自然体であって愛に溢れた楽園がある。

そんなでたらめな場所などあるはずがないと、否定する。

信じることには危険性も伴うが、それはあくまでも人に限ってのことである。

信じる対象は人ではない。

世界の背景にある別の世界である。

人の認識を超えた霊的世界のことである。

楽園が存在することを信じないから、人は不安定になり、現実に押しつぶされそうになる。

信じることは、努力でも、すがりつくことでもなく、気づくことである。

気づくことによって永遠の幸せが得られる。

恐れることはない。

気づきは誰にでも訪れる。


日常の会話の中に消えていくもの。

会話の内容は浅い。

その浅さの中に小さな笑いや小さな共感がある。

瞑想の内容は深い。

その深さの中に小さな喜びや小さな苦しみがある。

現実的な物質的な客観的な分析的なことに重心をおくと普通であることと、空想的な意識的な主観的な直観的なことに重心をおくと普通であること。

人の心は複数の意識の層を持つ。

異なる意識の層が同時に現れることはほとんどない。

人との会話の中で現れる意識の層と、自分との会話の中で現れる意識の層とは違う。

一人の人間であっても、全く異なった意識の層を持っている。

どの意識の層も人にとって大切なものである。

深さは浅さがなければ存在せず、浅さは深さがなければ存在意義を失う。

浅いだけでは進歩が感じられず、深いだけでは行き詰まる。

人は、ひとたび自分に必要のないものと決めつけると、それを意識の層から除外しようとする。

意識の層を、自分に必要だと思うことだけにしようとする。

そして、自分の色眼鏡だけで世界を見ようとする。

世界はそんなに単調なことではないのに、単調なことに見えてきてしまう。

世界を見ているのではなく、単調になった自分の心を見ているだけである。

自分のことを気にする位ならば、人のために何ができるか考えた方がいい。

自分のことで気になることは数多くある。

他人と比較してしまうと、あるいは理想と比較してしまうと、劣るところばかりで、気になることはどんどん増えるだろう。

人は、すでに有るものでもまだ足りないと感じ、無いものを意識すると渇望し、絶望し、すでに足りていることを忘れる。

人は集団の中で生きるから、他人との比較は避けられない。

社会は他人との比較、公平、優劣などによって成り立っている。

上手い話を聞けば便乗しようとし、下手な話を聞けば見下そうとする。

そんなご都合主義で生きている。

下手な話を聞いては、自分には関係ない、あるいは自分だけは救われたい、と思うのが人である。

人は、他人と比較しつつ、どうすれば優位に立てるかをいつも考えている。

人はどこまで行っても自分中心である宿命を持っている。

ところが、すでに足りているということに気づくと、自分のことが気にならなくなる。

他人と比較することが馬鹿馬鹿しく思えるようになる。

自分のことをどこまで追求しても、時間を浪費すること以外に得られるものはない、と気づく。

残るのは、人のために何ができるかという問いかけである。

この世界の次元において、実質的に人のためにできることはほとんどない。

しかし、この世界の次元を超えれば、人のために何かしたいという祈りのような意識は残る。

自利から利他へ、経典や霊訓に示される世界がないと決めつけることはできない。

意識の世界がないとしたら、この世界から人間らしさは消えていくことになってしまう。

人は、人のために何かできないかと考える利他愛を追求するようにできている。

生きていく上で色々な心配事は絶えないものである。

心配をして良かったこと、心配して救われたことはあるだろうか。

ほとんどないと思える。

それなのに人は心配を続ける。

心配の先にあるもの、心配の奥に隠れるものは、突き詰めれば願望やご都合主義である。

神から分身し、命が宿る人は、どこから来てどこへ去っていくのか、生きることにどんな意味があるのかも分からずに、今日も心配を続ける。

人の宿命である。

この宿命が、なぜ見えなくされているのか、なぜ気づかなくされているのか、なぜ求めなくされているのか。

自由意思に任されているから、行く方向は自分で決めるしかなく、どこへ行くかも知らずに心配をし、心配をしていることが通常になる。

やがて心配を続けたままで死を迎える。

余計な心配は止めて、生かされる今日一日をたのしもう。

愛知蒲郡 竹島
願うこと

願望を叶えて欲しいという願いがあれば、生きていること自体が願いであることもある。

寺社に行っては、願ったり、祈ったり、感謝したりするが、願ったり、祈ったり、感謝したりすることは寺社だけに限られるものではない。

毎日が願い、祈り、感謝の連続である。

今ここにあることは、寺社に行ったときだけのことではなく、存在しているその瞬間ごとにある。

今、ここには生きている奇跡がある。

そのことが寺社に行って振り返ることであり、気づくことである。

愛知蒲郡 無量寺(ガン封じ寺)
人は人と共にしか生きられない訳だが、他人の時間に合わせることは、人の感覚を鈍らせる。

人と共にいる時間は充実することもあれば、逆に無駄な時間になることもある。

他人に合わせるための時間は、他人を思えばのことであるが、それによって無駄な時間を使ったと思うようであれば、決して他人のためにもなっていない。

何かをしていないと時間を無駄にしたように思うこともあれば、何もしていない時間こそが一番充実していると思うこともある。

心がどこにあるかによって、無駄であるかそうでないかは意識されるようだ。

その時間の中に自分の心が存在していれば無駄ではなく、その時間の中に自分の心が存在していなければ無駄になる。

その時間に集中していられれば時間は有意義になり、集中していられなければ時間は意義を失う。

人の感覚は簡単に麻痺するようにできている。

人の感覚は使わなければ使うことができなくなる。

人の感覚は意識しなければ意識から消える。

鈍さに慣れれば鈍いとも思えなくなる。

生きていることを意識しなくなれば、死ぬことも意識されなくなる。

人には、麻痺から解放されて、元に戻る時間が必要だ。

できれば身代わりになってあげたいと思うこと。

辛いという感情が伝わってくることがある。

本人はそれほど意識してなく、単なる思い過ごしであることもあるが、目に見えて責められているときもある。

本能・性欲的な愛、友愛、家族愛、無条件の愛と、愛には色んな種類がある。

全然違う愛のように思えて、実はそれほど差がない愛のようにも思える。

愛の種類を分けようとするのは、人が物事を分別する習慣を持っているからだ。

下心のある愛と下心のない愛。

見返りを期待する愛と見返りを期待しない愛。

そこに単純な善悪の区別をしても良いのだろうか。

心のあり方によって善悪が区別されるようにも思えるが、心のあり方は移りゆくもので、同じところに留まっているものではない。

始まりは悪くても終わりが良いことがあり、始まりは良くても終わりが悪いこともある。

人であることの性質を差し置いて、愛を語ることもできない。

人でありたいと思うことから生じる欲求と、人であることから離れたいと思うことから生じる欲求とが交錯する。

愛に区別は必要ない。

それは永遠に続く欲求だからだ。

世界はすべて層状になっている。

自然に創られた生物の構造は層状になっている。

物質的に分析できる構造だけでなくて、人の心の構造も層状になっている。

人が意識することも層状になっている。

色んな層に意識をおく人が一緒になって社会を創っている。

他人との意識する層が合わないと、気持ち悪く感じたり、腹が立ったり、虚しくなったりする。

人はそのことに耐えて社会性を磨こうとする。

意識する層が合うと、心地よく感じたり、嬉しくなったり、充実したりする。

同じ意識の層にある人とだけ居られれば、苦しみは無くなるようにも思える。

しかし、神が創造し、人が造り上げた社会は、色んな層にある人が集まって出来ている。

同じ層に在る人同士では見えない何かを教えるために、社会は創られているようである。

人は教えられていることに気づかず、今日も苦しむ。