働くことの意味はどこにあるのか。


今生きている間だけを想像すれば、その意味はきわめて現実的なものとなる。


しかし、霊訓に言われるように、生まれる前と死んだ後も想像すれば、その意味は全く違ったものとなる。


働くことは生きることであり、働くことの意味は、どうやって生きたいかにあると考えている。


人生において、働くことは最も長い時間を消費するものであり、どのように生きたいかを働くことに反映することが、仕事を長続きさせるコツだと考えている。


仕事の内容は、その人がどのように生きたいかをを示す。


しかし、生まれる前と死んだ後も考えれば、働くことの意味はどのように生きたいかを示すだけではない。


生まれた意味と死んだ後の意味も考えると、働くことの意味は、人格・霊格を成長させるためにあり、自分の成長のためにある、ということになる。


神の摂理は各個人に都合の良いようには働かない。


各個人の人格・霊格を成長させるように働く。


そうすると、働くことの意味を現実的な損得勘定によって捉えることはできなくなる。


どのように生きたいかは、どのように人格・霊格を成長させたいかに繋がっている。


働くことがどのように生きたいかを学ぶ場であるとしたら、どのようなことであっても、個人的な成長を促す。


伊勢
年を取るごとに、欲望や怒りのためだけに生きないようにすることを心がけたい。

欲望の力は強く、欲望に飲み込まれた者に欲望を欲望とは認識できなくなる。

少ない欲であれば活力となるが、少ない欲で終わらないのが人である。

「人身受けがたし、今ここに受く」(三帰依文)

人になれることは珍しいのに、今ここに人として生きることを得た。

ここで言っている人の意味は、動物としての人でないことは確かだ。

欲望と怒りに支配された人のことを言っているのではないだろう。

人として生きられることだけに満足できればいいが、そういうことを言っているのでもないだろう。

人として生まれたものの、本当の人として生きることを知らない。

人としての良さを充分に味わうことなく亡くなっていくことの虚しさ。

人の良さに触れたときに覚えたあの感情。

そこには何があっただろうか。

人もまだまだ捨てたものではない。

これが人として生きる意味かと知らされる。

そんな感情を忘れないための詩であるのかもしれない。



人に共通することは多いが、年を取るに連れて共通しなくなる部分も多く見えてくる。

人は、お金、物、やりがい、評価、信頼、名誉、友情、愛・・・、色んなことを求めて生きる。

人として生まれたからには、何かの痕跡をこの地球上に残したいと思うものだ。

人としてこの地球上に顕現できた喜びを形に変えて、人のために何かを残したいと思うことは当然のことである。

誰しもただ一時の感情のためだけに生きている訳ではないだろう。

若いときには様々な現実問題に対処することがすべてになり、落ち着いて考えていられる時間は少ないだろう。

年を取って一番幸せなことは、現実問題から少し離れて、落ち着いて考えられる時間が持てることだと思える。

若いときには見えなかった感情に気づくこともある。

それなのに少子高齢化が進むと、老人は老人らしくは生きられなくなる傾向にあるようだ。

人は、年を取るごとに謙虚になり、一歩引いた位置から物事を見れるようになることが理想である。

しかし、今起こりつつあることは、年を取るごとに謙虚になるのではなく、年を取るごとに傲慢になるという傾向である。

そうではなく、年を取るごとに傲慢になるというよりは、老人であっても現実問題がすべてになり、一歩引いた位置から物事を見られなくなる傾向が見えてくる。

若者に譲らない年寄りが増えるといった傾向が見える。

むしろ、若者が現実問題から少し離れて、謙虚になり、老人に一歩譲るといった傾向が見えてくる。

老人は現実問題から離れて、人としての愛や友情を大切に生きた方が、これから旅立つあちら側の世界に馴染みやすくなる。

そのことに気づかず、現実問題に根ざした生涯現役社会を実現しても、本当の現実問題は悪化する一方のように思える。

京都 青蓮院門跡

真理はすでに示されている。

 
そのことに気づかずに、自分で新しいことを考え出そうとする。
 
疑う心ばかり持って、示されている真理に気づかない。
 
自分で考え出すことに意味があると思っているが、そのことが逆に真理から遠ざける。
 
疑う心のない者には真理が見えやすいと言えるのか。

疑う心のない幼児が持っている、愛する感情は、真理に近いとは言えないのだろうか。

人は、あちら側の世界からこちら側の世界にくるときに真理を忘れて生き、あちら側の世界に戻るときに再び真理を思い出す。

こちら側の世界で経験を積むごとに真理を忘れていく。

経験による自信が真理を忘れさせる。

経験によって人は成長するはずなのに、その経験が真理から遠ざけてしまうのはなぜだろう。

経験は、真理を忘れるためにあるのではなく、真理を深めるためにあるべきなのに。

こちら側の世界での経験は、こちら側の世界のためにだけあるのだろうか。

それではあまりに視野が狭く、あまりに窮屈である。

こちら側の世界にある、真理に最も近い現象は、愛する感情以外にはない。

人は、幼児の頃の愛する感情を忘れて、理性を優先し、成功を求め、疑う感情を強める。

幼児が持つ愛する感情は真理に基づくものである。

だが、幼児に真理に気づく力はない。

人は、愛する感情を再び思い出したときに、真理に気づく。

生まれる前から存在し、息絶えてから戻る真理があることに。

京都 青蓮院門跡
他人からの評価を得るために、相手に勝つために、自分に勝つために、目標を達成するために・・・、人は努力を続ける。

努力はどこかで報われる。

それは喜びであり、社会のためになることもある。

神は人に選択の自由を与えており、努力は良い選択があったからできる。

恵まれた人だけが正しい努力をして、報われるのか。

良い選択をできた人だけが正しい努力をして、報われるのか。

才能に恵まれなくても、良い選択ができなくても、努力する過程によって報われることもある。

結果が出せなくても、評価されなくても、人格を成長させる努力は誰にでもできる。

人格の成長は、結果、評価とは全く関係のない所で起こる。

努力は、我慢する辛い過程のことを示すだけではない。

辛さは幸せと共にある。

不公平、不平等な外の社会が人によって創られたように見えて、公平、平等な内の社会が神によって創られている。

他人の良い所を見つけにくいことと同じで、公平、平等な内の社会には気づきにくい。

いつも他人の言動に左右されてしまう。

外の社会にばかり注意が向くからだろう。

内と外はどのようなことにも当てはまる。

与えたいことよりも、与えられたいことばかりに注意が向く。

あることよりも、ないことばかりに注意が向く。

マスコミの影響を受けて、一時のお祭り騒ぎにばかり注意が向く。

新しい刺激にばかり注意が向く。

外の社会に注意を向けるのと同じように、内の社会にも注意を向けられれば。

もっと社会は良くなる。

名古屋 日泰寺五重塔
食べて、働いて、喋って、寝る。
 
人が生きることは、たったそれだけのことだが、そこに、苦しんで、怒って、悲しんで、心配して、恨んで・・・、色んな負の感情が入り込んでくる。
 
考えることから生まれる負の感情。
 
これが人を最も特徴づける性質である。
 
考えることは、物を生み出すことに適しているが、人を理解することには全く適していない。
 
考えることによっては人は見えてこない。
 
考えることと関係なしに、笑いはある。
 
笑えることが生きるための一番の原動力だとも言える。
 
笑いの中には色んな笑いがある。
 
思わず笑うこと、嬉しくて笑うこと、馬鹿笑いすること、作り笑いすること、苦笑いすること・・・。
 
このうちの馬鹿笑いすること、作り笑いすること、苦笑いすることの比率が勝手に多くなる。
 
これらは、考えることから生まれる笑いである。
 
負の感情を打ち消すかのように馬鹿笑いする。
 
これが人の日常である。
 
考えることから離れては、人でなくなる。
 
考えることだけでなく、祈ることも人生に入れていけば、思わず笑うことや嬉しくて笑うことが増えていく。
 
そして、少しずつ正の感情を増やしていく。
 
京都 六角堂(頂法寺)
 
誰にもあなたを責める権利はない。

仕事ができない、性格が悪い、見た目がブサイク。

人に欠けていることはいくらでもある。

しかし、見方を変えれば、人に欠けていることは何もないとも言える。

社会では、役に立つもの、役に立つ人だけが必要とされるように思える。

社会は、豊かさを求めて、人にその一部を担うように強要する。

人から求められることは、豊かさのためであって、心地よさのためであって、欲望のためである。

あなたに要求される責任は、そんな人による観念から生じるものである。

仕事ができないからといって落ち込んで、肩身の狭い思いをする。

性格が悪いからといって開き直って、人を否定しようとする。

見た目が悪いからといって落ち込んで、人から離れようとする。

あなたは責任を感じようとして、より傷を深めようとする。

あなたを愛してくれる者などいないと決めつけようとする。

人に生じる観念は一時のものであるが、この一時のものに縛られて、一生を過ごすことになる。

気休めのためだけに、観音があるのではない。

観音はあなたの心の中にある。

観音を拝むことは、あなたの中にある観音を拝むことになる。

観音は、他人事ではない存在である。

観音は、責任とは無関係に、無言のまま、そこに愛があることを示す。

三重桑名 なばなの里
この世で人に生まれたことには意味がある。
 
神は意味のないことを設定したりはしまい。
 
この世のものは何もかも目的を持ち、ゆっくりと進化していく。
 
生まれるということが神による設定であり、何を思い、何をして、どうなるかは、自ら気づき、自ら選ぶことであり、何も設定されていない。
 
いつから思うことを制限するようになったのか。
 
いつから気づくことを制限するようになったのか。
 
いつから選べるものがなくなったのか。
 
人の思い、気づき、選択を制限しているのは人である。
 
人は人と違う道を歩くことを避けたがる。
 
人は人の輪から外されることを恐れる。
 
人は、人の輪から外されないよう、自ら洗脳されることを選ぶ。
 
人は気づく機会があることを見過ごす。
 
人は雄大よりも窮屈を選ぶ。
 
人は窮屈なところから離れることができない。
 
人が存在する意味を忘れなくてもいい。
 
すべての人は見えない力に守られている。
 
滋賀彦根 龍潭寺

子供のためにとすることは、自分のためと言えるのか、他人のためと言えるのか。

子供のためにできることは、精神的な支えになることと、金銭的な支えになることの2つだろう。

子供は、親とは全く別の人格を持つものであり、単なる遺伝子の授与によって生まれたのではない。

自分の中にある霊性だけでなく、子供の中にある霊性も忘れてはならない。

精神的な支えになることは、押しつけではなく、そっと後を押す後ろ盾になることであり、一つの人格を認めること以外にない。

あとは子供の捉え方次第である。

精神的な支えとして親にできることは、人格、霊格を認めるということしかない。

その方が、親の偏った見方の教育をしようとするよりも、子供に思いが伝わりやすい。

未熟な親の教育は、子供の支えにならない。

もう一つ親にできることは、金銭的な支えになることである。

小遣いとして簡単に使ってしまうお金ではなく、人生の中でどうしても必要になる大きな場面でのお金である。

この支えになれることは、親にとっては大きな喜びとなる。

しかし、生活の余裕がなくなり、後の世代にお金を残すことなど考えられなくなった人が増加していると思える。

10年間の定期預金があれば、お金が2倍になった昭和のよき時代はもう去った。

できることは小さくても、金銭的な支えになりたいと思う気持ちを忘れてはならない。

子供が自分とは別の人格、霊格を持つことを認めれば、子供のためと思うことは、必ずしも自分のためだけと言えないように思える。

しかし、子供の人格、霊格を認めにくいのが親である。

人の役に立てることがあるのか、いつでも分からなくなる。

滋賀米原 青岸寺

社会人として生きるときに一番辛いことは何か。

 
上司、お客様からのパワハラというのもあるが、一番は、クビになることに違いない。
 
能力がないことによるクビ、反抗したことによるクビなどがある。
 
反抗する場合は、クビになることを覚悟の上であることが多いのでショックは小さいが、能力がない、適性がないといった理由のクビはショックが大きいことは計り知れない。
 
改善するための指導を受けていた場合はまだよいが、突然にクビを言い渡されるのは辛いだろう。
 
雇用者は十分な指導をしていたのか、疑問も多い。
 
クビにする前に後釜を雇い、引き継ぎが終わったと思えばクビにする。
 
雇用者、従業員がお互いにハッピーになれるように辞めて貰えないか、と勧告する。
 
仕事をさせてみて、できると思えば継続してもらい、できないと思えば辞めてもらう。
 
それが適性があるかないかを見極める試用期間と言えるのだろうか。
 
雇用者にとっては最も楽なやり方である。
 
できない者を助けようとする気持ちはないように見える。
 
いつからか、日本の社会全体がそのようなご都合主義なって行ったのかもしれない。
 
ただ、労働組合があるような企業の場合は違うだろうが、零細企業に近くなると、ご都合主義にならないと全体が潰れる可能性は否めない。
 
見ている従業員からしても、仲間がクビになっていくことは辛いことである。
 
生き地獄のようにも思える。
 
このような生き地獄を創っているのは、能力至上主義である人間に違いないが、生き地獄から抜け出すことは難しい。
 
この社会で学ぶべき、あるいは体験すべきことは、このような生き地獄のような状態なのだと思う。
 
傍観者である者は、悪人であると言えるかもしれないが、この社会を体験することによって、人格、霊格を磨くことに繋げたい。
 
自らを悪人と認めることは大事なことである。
 
この社会では、究極的には善人は存在しない。
 
深く受け止める。
 
京都御所