人の役に立つということには、仕事によって役に立つのか、家族や仲間のために役に立つのか、それとも精神的な支えとして役に立つのか、といった違いがある。

 
人の役に立つという言葉は、能力によって役に立つといったことを意味することがほとんどであると思われる。
 
能力主義が優先されるようになった社会だから、社会においては、能力のない者は人格を否定されることもある。
 
人にとっては、社会で成功することが、最も人の役に立つことだと客観的に思われている。
 
しかし、社会での成功と全く関係なく、霊性は成長する。
 
霊性の成長を願うと、他愛・共存主義が優先される。
 
しかし、自愛がなければ他愛は生じることはない。
 
だから自愛だけ優先することがこの社会であり、人の役に立つという建て前はあっても、本音はない。
 
社会で成功するということは、偽善である。
 
人の役に立てることなどない。
 
あるのは自分の役に立つことだけだ。
 
あるのは他愛・共存主義という理想だけだ。
 
能力のない者は、労働基準法によっては救われず、追い出されるか自ら去るだけのことになる。
 
経営者からすれば、自分、会社、他の人を守るための防衛として、人を操作する。
 
悲しみが残るが、人を守ることはできない。
 
理想主義では現実主義に太刀打ちできない。
 
現実は待ってくれない。
 
理想主義に根ざした霊性の成長は、社会にはな、個々の人の中にある。
 
伊勢 朝熊岳金剛證寺
この世界は思念によってできている。

心配であれば心配であるように、苦痛であれば苦痛であるように、悲しみであれば悲しみでありように、喜びであれば喜びであるように、楽しみであれば楽しみであるように、安らぎであれば安らぎであるように、思えば思うように変化する。

霊的に成長することがこの世界の目的であれば、楽しむために生まれたのではなく、苦しむために生まれたとも言える。

苦労して気づくことが霊的な成長となる。

しかし、苦しみや苦労は、そのように思念するためにあるのではなく、気づきがあれば、苦しみや苦労ではない。

すべてが貴重な体験となる。

思念も含めた体験によってしか、人は成長できない。

楽しみと苦しみの区別をする必要はない。

どちらも貴重な体験となる。

それと同じように、自他を区別する必要はない。

自愛は他愛となるためにある。

人は、区別しなくてもよいことで区別し、区別したほうがよいことで区別しない。

人は、意識せずに逆のことを思念している。

思念を少し変えれば世界は変わる。

岐阜 横蔵寺山門から
人の中に本当に強い者はいるのか。

弱いから人である。

弱さに後押しされているのが人である。

何かのアクシデントがある度に右往左往するのが人である。

弱さを理解しているか、していないかの差はある。

強さはどこにあるのか。

鈍感な者が強いと言えるのか。

地位、権力あるいは財産のある者が強いと言えるのか。

気が強い、利己的あるいは自己中心的であることが強いと言えるのか。

見た目だけの強さと、内面の強さとは違う。

人の本質を見抜いていることに内面の強さはありそうである。

人として生きる以上、人の本質は見えなくなることがほとんどである。

人の役に立てないのは、内面の強さが足りないからか。

内面が強くなっても、人の役に立てないことに変わりはない。

岐阜 横蔵寺(即身成仏) 
人の役に立とうとする立場からすると、弱い立場にある者の味方になれるようにすることが自然に思える。

強い立場にある者に助けは必要ないと思えるからだ。

弱い立場にある者を助けることは、人の役に立っていると思えやすく、自己満足しやすい。

男性であれば弱い立場にある女性に惹かれ、何かしらの協力をしたいと思うことも自然に思える。

愛する感情は異性に対しての方が持ちやすいことは言うまでもない。

人の役に立ちたいと思うことは、好きだと思う感情に近いのか。

好きだと思うから、その人の役に立ちたいと思うのか。

好きだと思うことを理由にしてしまうと、私腹を肥やそうとすることに近くなる。

感情的な尺度でのみ人の役に立ちたいと思うのであれば、人の役に立ちたいと思うことは、偽善か自己満足である。

単なる感情の枠を超えて、人の役に立ちたいと思うのであれば、人であることの本来の性質に近づくと思える。

愛することに見返りは必要ない。

愛するための条件はない。

愛することは自分に向けられた癒やしであり、充足感である。

愛することは、やはり自己満足であるのか。

菩薩は、自身の癒やしや充足感のために愛することを止めない。

京都 上醍醐山門付近
人は、与えることや愛することよりも、与えられることや愛されることにばかりに意識が行く。

満たされていないと感じ、心が枯渇している。

いつから人は満たされない存在になったのか。

周りに人がおらず物がないと感じ、枯渇こそが生きる原動力となっているかのようだ。

足りないものを感じ、補充しようと必死になる。

足りないものは減ることもなく、増えていく一方である。

幾つになっても足りないものを追いかけていたら、見苦しい姿のまま生涯を閉じていくことになるのか。

お金が足りないと思う感情が年をとるごとに強くなっていく。

社会に守られないと感じ、年金も社会保険も人間関係も、足りないものばかり増えていくと感じている。

足りないものばかりに気づいてしまう。

足りているということに気づかない。

こう感じるのも、社会に流され、振り回されていることの証拠である。

振り回されると、人の役に立つということなどどうでもよいことになる。

いつからか足りないものを補充することが使命となってしまう。

やがて病気がわかって、死が近いことを悟って、足りないものを追いかけることを止める。

どこに人の役に立つことがあるというのか。

京都 上醍醐山門
この世では、どこまでも人が主体だ。

人の生き方はこざかしい。

どこまでも自分の色眼鏡を通してしか、物事を見ることができない。

人のためと思ってやることは、どこまでも自分のためである。

人のためと思って何かをすることは偽善だ。

人のためと思って何かをすると、見返りを求めることになる。

何の見返りも求めないところに、自己満足がある。

人のためになっていないことが、自己満足であるとも思われる。

自己満足という言葉は良い意味では使われない。

しかし、人にとっての良好な状態は自己満足にしかないように思える。

心の内側から溢れてくる温かい状態は、自己満足のときに訪れる。

色眼鏡は、自分又は他人を何かしら評価するときに使われる。

いつでも満足であると思える気づきが、幸せと呼べるのだろう。

滋賀 岩間寺(正法寺)
人の役に立てることは少ない。

気がついてみると、自分のことだけがすべてになる。

家族のため。仲間のため。お客さんのため。会社のため。

本当にそうなのか問いかけてみると、自分のためと言えないことは何ひとつない。

人の役に立っているかどうかなど、相手の受け取り方の違いだけだ。

相手がどう受け取ろうが、自分の立場に変わりはない。

偽善者である自分がささやく。

体裁良くつくろうのは、自分を隠すため。

体裁良くしないのは、自己満足のため。

どちらにしても人の役に立てることなどない。

それに気づいたときがスタートラインだ。


京都 醍醐寺三宝院庭園



現実は半分見て半分見ないようにするのがよい。

全く見なければ現実からかけ離れ、見過ぎると現実に押し潰される。

現実とは違って与えられる環境によって左右されないのは、損得を離れた生きる意志だ。

生きる意志は、生きる上で一番大切にすることは何かによって決められる。

その大切なことを中心に見て、現実を半分見るような気持ちにあれば、絶望感は薄れる。

生きる意志は生かされていることを忘れない意志である。

現実にはない大きな感情である。

仏によって支えられると思う感情である。

この生きる意志によって、見ない現実の半分から見えてくるものが違ってくる。

見なくてよい現実は自然となくなるものだ。

ガーン笑い泣きアセアセ
人にできることは限られており、できないことに納得することしかできないのか。

そのことは能力や素質では測ることができない特別な感情であり、満たされることのない渇望である。

人の行く先を思案した不安でもある。

生きている間、多くの人に助けられ、支えられるわけであるが、そのことに目がいかないことが多い。

何もやってあげられないこと、やれることを見つけられないことに、愕然とする。

自分さえ良ければ良いという身軽さから脱することもできない。

様々なことを苦しみとでもいえる情けなさに感じる。

遥か昔から、人の精神が行き着く果てには情けなさがあるように思える。

堂々巡りすることは人が生きることの根本にあるようである。

なくなることのない苦しみは堂々巡りする。

何度も生まれ変わるという輪廻転生は、不可思議な話というだけのものでもないようだ。

ショボーンショボーンショボーンもぐもぐ照れ照れ照れ
続いて高野山へ車

初めて宿坊に泊まった

辺りは真っ暗で静寂に包まれたままだ星空流れ星

午前中だけなんとか雨が降らずに助かった

僅かな晴れ間も見えてくもり晴れ

吉野も高野山も紅葉が美しいもみじ

晴れていればもっと美しかっただろうが・・・。

ライトアップされた根本大塔




金剛三昧院






鳥の池


霊園付近