面倒だと思えることは少なくない。
何もない今のままがいいと思っていれば、余計にそう感じるのだろう。
しかし、人として生きる現実は面倒なことにしかない。
面倒ではない楽しさは、現実のものなのか、それともファンタジーなのか。
人から面倒なことを取ってしまったら、現実のことのほとんどが消え去り、残るのは空想のみになるか。
僅かな空想を楽しむために、現実はあるというのだろうか。
現実を面倒くさいこととして片づけてしまえば、楽しみとしての空想も消えてしまうのだろう。
生じることも滅することもないと悟り、執着しない生き方は、面倒なことを避けることではなく、面倒なことが生き方そのものであると知ることである



何もない今のままがいいと思っていれば、余計にそう感じるのだろう。
しかし、人として生きる現実は面倒なことにしかない。
面倒ではない楽しさは、現実のものなのか、それともファンタジーなのか。
人から面倒なことを取ってしまったら、現実のことのほとんどが消え去り、残るのは空想のみになるか。
僅かな空想を楽しむために、現実はあるというのだろうか。
現実を面倒くさいこととして片づけてしまえば、楽しみとしての空想も消えてしまうのだろう。
生じることも滅することもないと悟り、執着しない生き方は、面倒なことを避けることではなく、面倒なことが生き方そのものであると知ることである
数ヶ月前の生活がまさに夢であった。
人にはそのように思うときがいつかやってくる。
夢であるときには夢であることに気づかない。
眠っている時の夢がそうであるように、起きているときの夢もまたそうである。
失って初めて気づくというのはそういうことだ。
昨日までの生活がそのまま続くことはない。
緩やかに少しずつ変わっていくということが多いだろう。
今が一番幸せである。
そう思える瞬間を連続させていくことが、生きることの一番の実感となる。
過ぎたことを考えることと同じように、先のことを考える。
その先にあることは誰にもわからないから、今を実感することしか確実なことはない。
発展があれば衰退もある。
希望があれば絶望もある。
生があれば死もある。
当たり前のことを当たり前と捉えることができないのが人である。
いつまでも淡い期待にすがりつく。
完全な終わりをみるまでは・・・。
人にはそのように思うときがいつかやってくる。
夢であるときには夢であることに気づかない。
眠っている時の夢がそうであるように、起きているときの夢もまたそうである。
失って初めて気づくというのはそういうことだ。
昨日までの生活がそのまま続くことはない。
緩やかに少しずつ変わっていくということが多いだろう。
今が一番幸せである。
そう思える瞬間を連続させていくことが、生きることの一番の実感となる。
過ぎたことを考えることと同じように、先のことを考える。
その先にあることは誰にもわからないから、今を実感することしか確実なことはない。
発展があれば衰退もある。
希望があれば絶望もある。
生があれば死もある。
当たり前のことを当たり前と捉えることができないのが人である。
いつまでも淡い期待にすがりつく。
完全な終わりをみるまでは・・・。
どこから来てどこへ帰るのか。
そのことが分かることほど幸せなことはない。
仏教などが追求していることも、そのことの他にはないか。
どこから来てどこへ帰るのかが分からないから、目先のことに一喜一憂している。
しかし目先のことに一喜一憂しない生き方は極めて地味で、居るか居ないか分からないような暗い生き方のようにも見える。
現に、一喜一憂する事に馬鹿馬鹿しさを感じたら、自ら存在を隠す生き方にもなるだろう。
隠居する事の良さは、この馬鹿馬鹿しさを感じるようになったときに分かるようだ。
無論、生産年齢が高くなり、また金銭的な支えもなくなって行く時代だから、馬鹿馬鹿しさを感じていられない人も多くなるのだろう。
人であることの本当の嬉しさ気づかずに生きることは勿体ないことだと思う。
しかしこの嬉しさは一人一人が全く違った形で感じることであるだろうから、形式的に表すことはできない。
ただ、この嬉しさは、どこから来てどこへ帰るのかの気づきと深く関わっている、と思える。







そのことが分かることほど幸せなことはない。
仏教などが追求していることも、そのことの他にはないか。
どこから来てどこへ帰るのかが分からないから、目先のことに一喜一憂している。
しかし目先のことに一喜一憂しない生き方は極めて地味で、居るか居ないか分からないような暗い生き方のようにも見える。
現に、一喜一憂する事に馬鹿馬鹿しさを感じたら、自ら存在を隠す生き方にもなるだろう。
隠居する事の良さは、この馬鹿馬鹿しさを感じるようになったときに分かるようだ。
無論、生産年齢が高くなり、また金銭的な支えもなくなって行く時代だから、馬鹿馬鹿しさを感じていられない人も多くなるのだろう。
人であることの本当の嬉しさ気づかずに生きることは勿体ないことだと思う。
しかしこの嬉しさは一人一人が全く違った形で感じることであるだろうから、形式的に表すことはできない。
ただ、この嬉しさは、どこから来てどこへ帰るのかの気づきと深く関わっている、と思える。
自分の「もの」と言えるようなものは何もない。
人間界の所有権というものはあるだろうが、それは人間のルールによって決められたものである。
しかし、実際に何を持っていると言えるだろうか。
自分の命すら持っているものではないのに、他の何を持っていると言えるのだろうか。
持っているという幻想や錯覚を起こしているだけにすぎない。
持っていると思っているものは、いつ消滅してもおかしくない儚いものだ。
持つことに囚われるから、失うことを恐れる。
持つことに囚われるから、そこに在るということを忘れる。
いつしか人も物も持つための対象になって、持つまでに至った機縁のことを忘れてしまう。
知らず知らずのうちに持っていて当然になってしまう。
まずは、命があることが当然のことではないことと同じように、持っていることが当然のことではないと思うしかないだろう。
失うことは辛いことだ。
しかしそれは、持っていて当然だと思っている前提があるからのことであり、この前提が変わればそれほど辛いことでもなくなる。
持つことを忘れて、在ることを意識する。
それが大まかに癒やしといわれることなのかな


人間界の所有権というものはあるだろうが、それは人間のルールによって決められたものである。
しかし、実際に何を持っていると言えるだろうか。
自分の命すら持っているものではないのに、他の何を持っていると言えるのだろうか。
持っているという幻想や錯覚を起こしているだけにすぎない。
持っていると思っているものは、いつ消滅してもおかしくない儚いものだ。
持つことに囚われるから、失うことを恐れる。
持つことに囚われるから、そこに在るということを忘れる。
いつしか人も物も持つための対象になって、持つまでに至った機縁のことを忘れてしまう。
知らず知らずのうちに持っていて当然になってしまう。
まずは、命があることが当然のことではないことと同じように、持っていることが当然のことではないと思うしかないだろう。
失うことは辛いことだ。
しかしそれは、持っていて当然だと思っている前提があるからのことであり、この前提が変わればそれほど辛いことでもなくなる。
持つことを忘れて、在ることを意識する。
それが大まかに癒やしといわれることなのかな
初心忘れる事なかれ
初心とは究極には生まれたばかりの心に帰ることであり、ゼロである素朴な状態になることをいうのだろう。
どんな事でも、一旦ゼロに戻って、何もない状態を忘れてはいけない。
初心に戻らず、昨日からの積み重ねであると思うから必ず行き詰まる。
どこまでも上り続けようと思うのは間違いであり、一日一日が上り下りの繰り返しにあるのかな。
人は初心に帰れば居るだけで価値ある存在となる。
生まれたばかりの状態は人の価値観を越えた存在である。
そして、終わりも生まれたばかりの状態と同じように人の価値観を越えた存在になることが理想である。
初心を忘れてしまうから、自分にこだわり、価値観がなかったことを忘れ、ゼロである素朴な状態にあったことを忘れる。
その先にあるのはゼロに戻すための破壊であるに違いない。
愚かな存在であることに気づかない。











初心とは究極には生まれたばかりの心に帰ることであり、ゼロである素朴な状態になることをいうのだろう。
どんな事でも、一旦ゼロに戻って、何もない状態を忘れてはいけない。
初心に戻らず、昨日からの積み重ねであると思うから必ず行き詰まる。
どこまでも上り続けようと思うのは間違いであり、一日一日が上り下りの繰り返しにあるのかな。
人は初心に帰れば居るだけで価値ある存在となる。
生まれたばかりの状態は人の価値観を越えた存在である。
そして、終わりも生まれたばかりの状態と同じように人の価値観を越えた存在になることが理想である。
初心を忘れてしまうから、自分にこだわり、価値観がなかったことを忘れ、ゼロである素朴な状態にあったことを忘れる。
その先にあるのはゼロに戻すための破壊であるに違いない。
愚かな存在であることに気づかない。
このときのために生きているんだなと思える瞬間。
それは自然を感じ、人を感じ、遠い過去の懐かしさを感じるような穏やかなときだ。
そういう時間があるならば、普段はいかに沈んでいようともいいのではないか。
普段から、無いことを有ることのように思い、有ることを無いことのように思っている。
人はいつも自分の作り上げた幻想に脅かされながら生きている。
少しは気を緩めることができているかな。
作り上げた幻想は実は夢みたいなもので、目覚めるとすうっと消えていくものだ。
すべてが夢のことであると思えば、嫌だと思っていることもすうっと消えていくことに違いない。
実は生きているということ自体が夢のことであったならば、人の感覚はすべてが偽物だ。
本物と偽物の差など元々なく、本物と偽物の差は作り上げた幻想の差以上のものではない。
そのようなことが分からないから、今日もまた深く沈む。
生きることに対する誤解である。
誤解を解くことが生きることの意味であろうか。











それは自然を感じ、人を感じ、遠い過去の懐かしさを感じるような穏やかなときだ。
そういう時間があるならば、普段はいかに沈んでいようともいいのではないか。
普段から、無いことを有ることのように思い、有ることを無いことのように思っている。
人はいつも自分の作り上げた幻想に脅かされながら生きている。
少しは気を緩めることができているかな。
作り上げた幻想は実は夢みたいなもので、目覚めるとすうっと消えていくものだ。
すべてが夢のことであると思えば、嫌だと思っていることもすうっと消えていくことに違いない。
実は生きているということ自体が夢のことであったならば、人の感覚はすべてが偽物だ。
本物と偽物の差など元々なく、本物と偽物の差は作り上げた幻想の差以上のものではない。
そのようなことが分からないから、今日もまた深く沈む。
生きることに対する誤解である。
誤解を解くことが生きることの意味であろうか。
小さな楽しみと小さなプレッシャーだけを感じて過ぎていく毎日。
たまに浮かんでは消えていく心配事も、世間体を気にしてのことか。
世間の出来事を垣間見ながら、自分を忘れていく。
日々の生活の中に自分はあるのだろうか。
あるとも言えるし、ないとも言える。
あると言えるのは自分を忘れているからであり、ないと言えるのは自分を思い出そうとしているからである。
自分を忘れている方がすんなりと事が過ぎ気楽なように思える。
しかし人生はそうは甘くない。
自分が生きることの理由をいつの時期か探し出すときがくる。
そのときが自分を思い出そうとしたときであり、自分はどこにもないと気づくときである。
「ない。」
このことが人を不安に陥れるようである。
しかし考えてみれば、自分があるという痕跡を辿ることは、世間体としての自分を除くと難しくなる。
一つの役割といった自分以外の自分が果たしてどこにあると言えるか。
それは世間体の中にはない。
自分の中にしかない。
ないことに恐れを抱くのは、あることを前提にした自分である。
ないことの良さに気づくことができたら、幾分かは恐れが緩和されるに違いない。
ないことの良さに気づいて初めて、自然の美しさに気づくようである。













たまに浮かんでは消えていく心配事も、世間体を気にしてのことか。
世間の出来事を垣間見ながら、自分を忘れていく。
日々の生活の中に自分はあるのだろうか。
あるとも言えるし、ないとも言える。
あると言えるのは自分を忘れているからであり、ないと言えるのは自分を思い出そうとしているからである。
自分を忘れている方がすんなりと事が過ぎ気楽なように思える。
しかし人生はそうは甘くない。
自分が生きることの理由をいつの時期か探し出すときがくる。
そのときが自分を思い出そうとしたときであり、自分はどこにもないと気づくときである。
「ない。」
このことが人を不安に陥れるようである。
しかし考えてみれば、自分があるという痕跡を辿ることは、世間体としての自分を除くと難しくなる。
一つの役割といった自分以外の自分が果たしてどこにあると言えるか。
それは世間体の中にはない。
自分の中にしかない。
ないことに恐れを抱くのは、あることを前提にした自分である。
ないことの良さに気づくことができたら、幾分かは恐れが緩和されるに違いない。
ないことの良さに気づいて初めて、自然の美しさに気づくようである。















