明るいうちに帰れるとは幸せなことだ。
今週は極端に自分の仕事を進めていない。
今年は、大幅な落ち込みの年になるのかな。
収入にはならなくても、人に教えることも大事な仕事には違いない。
思い通りにしようとする願望を捨てて、頑張っているようで頑張っていない、流れるままの状態で時が過ぎるのを待つか。
心配事が頭をよぎる時には、冷静になるよう自分に働きかける。
一時の怒りや不甲斐なさや落ち込む気持ちを抑えるよう脳に言い聞かせる。
しかし、脳は手ごわい。
脳は、身を守るために働くのか、それとも自らを陥れるために働くのか。



今週は極端に自分の仕事を進めていない。
今年は、大幅な落ち込みの年になるのかな。
収入にはならなくても、人に教えることも大事な仕事には違いない。
思い通りにしようとする願望を捨てて、頑張っているようで頑張っていない、流れるままの状態で時が過ぎるのを待つか。
心配事が頭をよぎる時には、冷静になるよう自分に働きかける。
一時の怒りや不甲斐なさや落ち込む気持ちを抑えるよう脳に言い聞かせる。
しかし、脳は手ごわい。
脳は、身を守るために働くのか、それとも自らを陥れるために働くのか。



梅雨も明けて、今週から猛暑になりそうだ。
草の成長も著しく、除草作業で腰が痛い。
7月はお楽しみの月なので、仕事はぼちぼち穏やかにいくか。
人が置かれたそれぞれの環境が違えば、人にはそれぞれの悩みがあるものだ。
悩みは環境によって与えられるのだろうが、それだけでなく自分で作り出していることが多い。
悩みとは切っても切れない縁にあり、切り離す必要はないのだろう。
少しだけ見る視点を変えれば、悩んでいることを忘れることが多い。
ちょっとした捉え方の変化である。
人は、自分が損していると思い、被害者であると訴えたくなるものであるが、自分が得していると思ったり、加害者であると思うことは少ない。
それと損得の二元化でどうしても物事を捉えてしまう。
そんな生き方は得な生き方ではないのだろう。
しかし、現実の娑婆世界では損得を除いて捉えることができないことばかりだ。
そして人は、自らが損得を超越した存在であることも忘れて、今日を生きる。
人には、損得、正誤、喜怒哀楽のみに重きを置いた生き方を超える小さな視点が必要だ。
この視点を忘れると息苦しさを感じることになる。





草の成長も著しく、除草作業で腰が痛い。
7月はお楽しみの月なので、仕事はぼちぼち穏やかにいくか。
人が置かれたそれぞれの環境が違えば、人にはそれぞれの悩みがあるものだ。
悩みは環境によって与えられるのだろうが、それだけでなく自分で作り出していることが多い。
悩みとは切っても切れない縁にあり、切り離す必要はないのだろう。
少しだけ見る視点を変えれば、悩んでいることを忘れることが多い。
ちょっとした捉え方の変化である。
人は、自分が損していると思い、被害者であると訴えたくなるものであるが、自分が得していると思ったり、加害者であると思うことは少ない。
それと損得の二元化でどうしても物事を捉えてしまう。
そんな生き方は得な生き方ではないのだろう。
しかし、現実の娑婆世界では損得を除いて捉えることができないことばかりだ。
そして人は、自らが損得を超越した存在であることも忘れて、今日を生きる。
人には、損得、正誤、喜怒哀楽のみに重きを置いた生き方を超える小さな視点が必要だ。
この視点を忘れると息苦しさを感じることになる。





長い間、ブログを空けてしまった。
気がついたら一週間が終わろうとしているのが、普通になってきたこの頃だ。
一週間があったのか無かったのかが分からず、ただ何も無かったかのように過ぎていく。
生きているか死んでいるかという表現は極端だが、生きていることを考えない限り、何の実感もなく時は過ぎ去っていく。
人の生き方も、毎日繰り返し続けるスマホのゲームと同じで、それほど意識することなく成果が得られる。
意識しなくなることの中に自然と湧き出てくる嬉しさがあるのだろう。
意識して憎むことが多いから、その憎しみを忘れた瞬間に嬉しさが顔を出す。
社会人であること自体が一種の鬱状態であり、憎しみの溝は深い。
憎しみをバネにして励み、本来持っている嬉しさに近づこうとする。
憎しみの元は、理想であって願望であり、たやすく無くなるようなものではない。
生きているか死んでいるか分からないような人生であるが、それも足ることを忘れているから考えてしまうことである。
望むことを忘れれば、自然と嬉しさが顔を出してくる。
そのような嬉しさが本性であるはずだ。



気がついたら一週間が終わろうとしているのが、普通になってきたこの頃だ。
一週間があったのか無かったのかが分からず、ただ何も無かったかのように過ぎていく。
生きているか死んでいるかという表現は極端だが、生きていることを考えない限り、何の実感もなく時は過ぎ去っていく。
人の生き方も、毎日繰り返し続けるスマホのゲームと同じで、それほど意識することなく成果が得られる。
意識しなくなることの中に自然と湧き出てくる嬉しさがあるのだろう。
意識して憎むことが多いから、その憎しみを忘れた瞬間に嬉しさが顔を出す。
社会人であること自体が一種の鬱状態であり、憎しみの溝は深い。
憎しみをバネにして励み、本来持っている嬉しさに近づこうとする。
憎しみの元は、理想であって願望であり、たやすく無くなるようなものではない。
生きているか死んでいるか分からないような人生であるが、それも足ることを忘れているから考えてしまうことである。
望むことを忘れれば、自然と嬉しさが顔を出してくる。
そのような嬉しさが本性であるはずだ。



恐れながらやっても成功することは少ない。
思いっきりの良さが必要である。
恐れるときには何もしない方が良い。
FXをやることは人生勉強にもなるようだ。
掛けるときには、それなりの覚悟が必要だからだ。
覚悟が持てないポジションをとると、少しマイナスしたら諦めて損切りになる。
もう少し待てばプラスになっていることも多いのに。
利確できるか損切りするかの差は、恐れがあるかないかの差であるかもしれない。
恐れがあるときには行動しない。
覚悟が持てるときには行動する。
ボタン一つ押すだけの行動であるが、心理状態を反映していて実は奥が深い。
まだまだ、勉強している過程だから、損しない程度の小さな額での緊張だが…。








日曜日に平等院鳳凰堂へ

あいにく写真を撮る時間には曇りがち

平等院の外へ出て歩き出すと晴れ間が見えたという感じだ

人生なんてそんなもんかな

思うようには行かない



外からでもなんとか阿弥陀さまを確認

なまんだぶ
なまんだぶ
なまんだぶ
中に入ろうとすると1.5時間待ちだった
































