自分の死を覚悟したからと言って、他人にも同じことを覚悟して欲しいと思うことはない。
心の奥底では、持続不可能になる常識を持ったままの他人がどうなるかは、自分に関係のないことだとも思っている。
それぞれの人が自分がどう生きるかを判断したということであるならば、それを尊重する以外に道はない。
多くの人が、どう生きればよいか分からないから常識に従って生きようとするのだろう。
誰しも生まれた時から死が決まっているのだから、その死期を自分で早めたとしてもそれほど大変なことでもない。
生きるために必須の、安全な水・食糧、生活インフラが無くされようとしている今であるから、どんなことが起きようと驚くことでもない。
感染症、物価高、増税、大量移民、売国、地震、太陽フレア、洪水、干ばつ、火災、火山、ミサイル、戦争、大不況、経済崩壊、預金封鎖、ハルマゲドン。
不安や恐怖は、人にとって都合が悪いことが起こらないで欲しいと願うから、無くなることがない。
人にとって都合が悪いことは必ず起こると想像すれば、不安や恐怖は無くなる。
一種の諦めであり、一種の悟りであるかもしれない。
人にとって都合がよいことが正義であり善意と考え、人にとって都合が悪いことが悪であり悪意であると考えるから、不安や恐怖が無くなることはない。
自分は正義であり善意であると考えるから、心の奥底で不安や恐怖を誘き寄せている。
本当は、正義であり善意である人など存在しない。
自分こそが悪であり悪意であると気づくから、すべてのことを許せるようになる。
そもそも敵・味方、善・悪といった対義語は、人にとって理解しやすいように作られた言葉であるからあまり意味がない。
実は対義語は同じことや同じものを捉え方を変えただけのことに過ぎない。
正義は悪の中に存在し、天使は悪魔の中に存在する。
悪は正義の中に存在し、悪魔は天使の中に存在する。
善人は悪人の中に存在し、悪人は善人の中に存在する。
見方を変えただけである。
我こそが極悪人であることを潔く認め、極悪人はこの世から去ると覚悟すればよい。
そのことが我々に残された最後の選択肢であるように思う。
言い換えれば、過去に罪を犯してきた罪人であるから今の時代を生きているということである。
それがキリスト教にいう終末期を迎えるということであれば納得がいく。
普通にはない気づきが得られる今の時代に、生きていられることに感謝する。
あなたに向かって言いたい。
「感謝しています。どうか自分を生きてください。」