視線を感じて顔を上げると、ドンホがこっちを見ていた。
「何?」
尋ねると、つまらなそうにため息をつく。
「こういうときは気付くのに」
「何が?」
ドンホは背を丸めて、頬杖をついた。
「別に」
上目遣いのその様子は、ずいぶんと挑戦的だ。
俺は少し楽しくなって、口元が緩むのを感じた。
「言えよ」
「いいよ」
眉をひそめて、ドンホは嫌そうな顔をする。
尖らせるでもない唇も、眉に倣って歪んでいる。
「いいから言えよ」
ドンホはため息を吐いて、目を逸らす。
「何でもない」
俺は立ち上がって、ドンホの隣に座りなおす。
ソファは深く沈んで、二人の距離を詰める。
背中に体重を預け、肩に腕を回して顔を覗き込む。
「言えって」
もう一度大きく息を吐いて、ドンホは体の力を抜いた。
「ステージではこっち見ないじゃん」
「え?」
予想外の言葉に、俺は聞き返す。
「ずっとスヒョン兄のほう向いてるでしょ」
何を当たり前のことを言っているんだ。
進行役のスヒョン兄が中央で話せば、そちらを見るだろう。
返事を待たずに、ドンホは続ける。
「右側、見ないからさ。何度フンミン兄のハイタッチが空振ったことか」
そうは言いながら、その表情は和らぐ。
「ま、笑い取れるからいいけど」
肩をすくめ、ドンホは俺を見た。
「こんなときには、すぐ気付くのにね」
こっちを見て、という視線に?
「だって、コンサート中なんて視線の嵐だろ」
やっと俺が言うと、意外そうに目を丸くした。
「え?」
「客席から浴びるように見られてるのに、そんな気配なんて分かるかよ」
俺は脚を組んで、その上に肘を付いた。
身体が前に倒れて、自然と腕も離れる。
「でも、フンミン兄とは結構目が合うんだけど」
ドンホの答えに、今度は俺が驚く番だった。
いや、驚くことではないのかもしれない。
フンは気が利いて、回転が速い上に日本語も上手い。
逆サイドの誰かが喋っていても、ドンホを気遣う余裕がある。
「集中したら周りが見えなくなる俺とは違うって?」
また眉を寄せて、ドンホは口ごもる。
「そういうわけじゃないけど、スヒョン兄には反応いいじゃん」
自分より右側に対しては反応が悪いのに。
フンに対しては反応が悪いのに?
「兄想いだな」
思わず呟くと、呆れたように髪をかき上げた。
「そんなんじゃないって」
俺は笑いを噛み殺せずに、乱れたドンホの髪を撫で直す。
「右側は、優秀だから」
ドンホも、フンも。
よく気が付いて口の悪い末っ子も、戦闘力の高いツッコミ担当も。
よく出来ていて、俺のフォローが必要な場面はあまりない。
「ステージの上では、あの人にだけ注意を払わせてよ」
頑張り屋で、泣き虫で、少し俺様気質なリーダーに。
限界まで身を粉にしてしまう働き者に。
その代わり。
「今みたいな時はワガママでも何でも聞いてやるからさ」
抱き寄せようとすると、ドンホは身体を引いた。
「ジェソプ兄にワガママ聞いてもらったことなんて一度も無い」
首を振るドンホに、俺は抗議する。
「そんなことないだろ」
「ない。一回も」
言い切るなら、それでもいい。
ドンホの頭を引き寄せて、俺は尋ねた。
「じゃあ、これが最初の一回だ。何が欲しい?」
顔を近付けて、ひとつの答えを促す。
「キスはいらない」
天邪鬼な末っ子は、挑戦的な視線を寄越す。
「分かった」
言葉だけなのは、お互い様。
ドンホは素直に目を閉じ、俺はその唇に口付けた。
「キソプの爪、伸びてるね」
僕はAJの手の中にある自分の指先を見る。
「そうでもないよ」
切ったばかりではないが、それほど長くはないと思う。
「伸びてるよ。危ないから切れば」
「何が危ないの」
触ってみても先は丸いし、衝撃で折れるほどでもない。
「危ないよ」
理由を言わないAJは、まだ僕の手をもてあそんでいる。
「じゃあ、あとで切っとく」
僕の話が分からないという割りに、AJは時々説明を省くことがある。
スイッチが入るとうるさいくらいなのに。
「うん、そうして」
真面目な顔のまま、ようやく僕の手を解放する。
ふとAJの手元を見ると、爪の長さは僕と大して変わらない。
「ジェソプも伸びてる」
AJは自分の指先を撫で、首を傾げた。
「そうでもない」
ちょっとムッとして、僕は言う。
「マネしないでよ」
「マネしてない」
即答するAJは、それでもまだ真面目に見える。
「僕と同じくらいだよ」
だったら、AJの基準では伸びてることになるんじゃないの。
「俺はいいんだよ」
「どうして」
尋ねると、AJは顔をあげた。
再び僕の手を取って、反対側から掌を重ねるように手首を掴む。
反射的に身体を引く僕をその腕で引き止めて、予想通り、唇を重ねてきた。
軽いキスに瞼を閉じる。
けれど予想外に、そのキスは深くなった。
噛み付くつくように唇が塞がれる。
空気を求めて口を開けば、舌が容赦なく侵入してくる。
受け止めるだけで精一杯の僕とは反対に、AJは楽しんでいるようだった。
数時間のような数分が過ぎて唇が離れると、目の前には満足げなAJがいた。
やっと見せた、いつもの意地悪な笑顔。
「ほら、だから危ないって言ったんだ」
視線で促された先には、繋がれたままの腕。
そこには、くっきりと爪跡がついていた。
言葉を失くした僕の耳に、AJはキスをする。
「俺は切らなくていい理由も分かったろ」
囁いて、掴んでいた僕の手首を離す。
それから、指を絡めて手を繋ぎ直した。
わかった、と答えるわけにもいかず、僕は黙って手を握り返した。
あまり表情が変わるほうではないから、感情を読むのに少し困ることがある。
だから、たとえば今日のような日は、かえって不思議な気分になる。
斜に立ったフンは黙って俺を見つめて、何も言わずに視線を逸らした。
「大丈夫だよ」
笑顔を作って、声をかける。
フンは振り向いて、口を開いた。
「大丈夫なわけないだろ」
早口で言って、気が付いたように、ゆっくり続ける。
「そりゃ、そうだったら、いいけど」
唇を結んで、まっすぐに俺を見る。
滲む痛々しさを心苦しく思えば、自然と眉が下がる。
俺の内心を察したフンは、ぎこちなく顔を背けた。
少し迷って、俺は腕を差し出す。
「フンミン」
フンは俺の手を取ったが、顔は上げなかった。
「大丈夫だよ」
もう一度言ってみる。
半分は嘘で、半分は本当。
「ごめん」
俯いたまま、フンは言う。
「何が?」
尋ねたが、答えはなかった。
辛いのはイライなのに。
自分が気を遣わせてしまって。
きっとそう言う代わりに、フンは俺を抱き寄せた。
柔らかな、触れるだけのようなハグ。
「早く良くなりますように」
「ありがとう」
身体が離れると、やっと緊張を解いたフンがいた。
「無理しないで」
「うん」
「元気になることだけ考えて」
「うん」
つられて笑えば、フンも口角を上げる。
その裏にまた、痛みを隠して。
「キスミのためにね」
「うん」
大丈夫だと言ったのは、半分嘘で、半分本当。
身体はまだ大丈夫じゃない。
でもすぐによくなるから大丈夫。
ファンを悲しませたことは大丈夫じゃない。
でも6人がいれば、きっと大丈夫。
「愛してるよ」
そう伝えてみても、表情がすごく変わるわけじゃない。
だからたとえばさっきのように、何を考えているのか明らかなときは、その僅かな変化が雄弁に内面を物語っていて、俺は不思議な気分になる。
「僕も愛してる」
二度目のハグは、一度目よりも強かった。
だから、心配させてごめん、とは言わないことにする。
だってメンバーだから。
言わなくたって分かるなんて。
甘えたって、大丈夫。
抱き返す代わりに、俺はフンの頬に口付けた。
あと鬼のときに少し考えた、星野架名の「赤い角の童留」とか、冨樫の「レベルE」の食人鬼編とか。篠原千絵の「蒼の封印」もあるね。
SHは吸血鬼で、当たり前だけど血を吸わなきゃ生きていけない。
あるいは精気を吸うか、そのまま食べるか。
KSはSHの屋敷の庭に迷い込み、SHに見つかり、食事に招かれ、薬を盛られて眠っているところで血を吸われる。
が、そこで血友病であることが判明。
本当なら夜明けにはには屋敷を廃墟っぽく偽装して、迷い込んだ旅人は放り出すんだけど、そうするわけにもいかず、SHは吸血鬼であることをKSに知られてしまう。
そしてそのまま居着くKS。
二人は交流を深めるが、SHには食料が必要で、常に目の前にご馳走(=KS)がいる状態に段々耐えられなくなり…。
噛み付くようなキスではなくて、キスするように噛み付いちゃう。
久しぶりの血を貪るように飲むが、我に返ったSHはKSを放す。
唇から流れる血で、顎や首や胸元を赤くしたKSの、見開かれた目。
SHはそのまま逃げるように屋敷を去り、放浪の旅へ。
数年後、再び屋敷のある地域を訪れるSH。
そして、そこで噂を聞く。
森の中の屋敷に住んでいる青年がいるらしい。
この世のものとは思えないほど美しさらしい。
吸血鬼らしい。
元は人だったらしい。
誰かの帰りを待っているらしい。
SHは屋敷のあった場所へと走り出す。
辿り着いた先に居たのは――。
KSは人間のままだったというほうがよさそうかね。
こめかみを押しながら、瞼を強く閉じる。
ぼんやりした頭痛を感じる。
どうやら。
暑さのせいだけではない。
隣に気配を感じて、俺は目を開けた。
横を見ると、キソプがスマホを手に水を飲んでいた。
視線に気付いて俺を見る。
「スヒョン兄も要る?」
そう言って、ペットボトルを差し出す。
「ああ」
ボトルを呷ると、思いのほか喉が渇いていたらしい。
それなりに残っていた水を、俺はそのまま飲み干してしまった。
「あ、悪い」
「別にいいよ。持ってこようか? まだ欲しいなら」
「いや」
俺はボトルを潰した。
キソプは笑顔を見せてから、手元の画面の操作に戻る。
「お前は?」
「僕もいいよ」
僅かに笑みを口許に残した、真剣な表情が答える。
体調が悪いとは思っていないらしい。
それは構わない。
けれど。
悪いのが機嫌だと思ったのだしたら、こうして近くに来ることは珍しい。
普段だったらフンやAJが俺に構うのを、不安そうに遠くから眺めるだけなのに。
俺が思わず鼻を鳴らすと、驚いたように振り向いた。
「何?」
「別に」
椅子に座りなおして、俺はまた目を閉じる。
頭を壁に預け、天井を仰いで。
片目を開けると、キソプはまだ俺を見ていた。
「何?」
今度は俺が尋ねれば、真似をするように答える。
「別に」
俺が思わず口角をあげると、キソプは首を傾げた。
「変なヒョン」
どっちが。
そう思ったが、口には出さなかった。
グループの次男坊。
家族のたとえ話ではなく、事実上の次兄。
俺に次ぐ「ヒョン」として振舞おうとしているのかもしれない。
「時間になったら起こして」
「うん」
俺は三度まぶたを閉じる。
隣にある肩に腕をかけると、手の甲に掌が重なる。
体重をかけて、わざとため息をついてみても、身体が強張る様子はない。
頼もしくなったもんだ。
心の中で呟く。
それから、頭を預ける振りをして、首元にこっそりとキスをした。
息を呑む音がして、一瞬にして背中が緊張するのが分かった。
笑いを噛み殺しながら、俺はもう一度こめかみを強く揉む。
頭痛はまだ治まりきらない。
暑さだけのせいではないだろうが、どうやら水は効いたらしい。
それに、別の方の原因も。
もしかしたら、少し軽くなるかもしれない。
焦ったキソプの声を遠くに聞きながら、俺は眠りに落ちた。
Kissで口が塞がれてないなら
ねえ誰といたって電話に出て
あるいは「恋人までの距離」のエア電話とか。
***
「シウォン、それ何」
掌の中の画面に意識が飛ぶと、見透かしたように声が飛んだ。
「いえ、何も」
反対の手に持ったコーヒーカップを口に運び、濃茶色の液体を啜る。
「何も」
繰り返された言葉に顔を上げると、不満げな表情のヒチョル兄と目が合う。
「失礼しました」
スマホを置いて、中身のなくなったカップも置く。
空いた手を組んで、向かいの席の人物を見つめた。
「何だよ?」
ヒョンはいつもの上目遣いで、さっきと同じ調子で言う。
「何も」
俺は立ち上がり、コーヒーメーカーに向かう。
「おかわり、要りますか」
手に取ったポットを軽く持ち上げ、ヒチョル兄に尋ねる。
ヒョンは首を振って、スマホに視線を落とす。
自分のカップに2杯目のコーヒーを注ぎ、ポットを置くと、テーブルの上で明るいメロディが鳴った。
妹たちのグループの曲。
アルバムに入らないことになって、けれどポップで中毒性のある曲。
それが着信音に設定されたのは、昨日の夜のことだ。
「鳴ってるぞ」
そう言ったヒョンは、少しだけ探るような顔をしていて。
「そうですね」
自分の席に戻ってカップを置き、俺は座らずにテーブルの反対側へ回った。
「出ないのか」
ヒョンの問いに、笑顔を作る。
「だって、口が塞がれてるから」
出れません、という言葉は声にせず、俺はヒョンと唇を合わせた。
チャラい男が歌うべき曲だよなあと思う。
Eunhaeのプリクエル的パラレルかな。
僕が言うと、キソプは口を尖らせた。
けれど、その目は笑ったままだ。
「次は僕がやるよ。フンがセルカ撮るとこ」
キソプはスマホを構えるフリをして僕に向けた。
「じゃあ、気をつけなきゃ」
言うと、キソプは構えた手の間から答える。
「別にいんじゃない?」
その言葉に、僕は聞き返す。
「キソプは気にならないの?」
手を下ろして首を傾げ、少し考えてから口を開く。
「セルカの後に出してくれるならね」
「どういうこと?」
「ジェソプはフライングだったから。綺麗に撮れてなきゃ出せないじゃない?」
そうだ、AJは盗撮した方の写真を先に公開してしまった。
その時のセルカをキソプが出す前に。
「盗撮はともかくさ」
手持ち無沙汰になったのか、キソプは僕の手を取ってもてあそび始める。
「ジェソプの真似はもうやめてよね」
「真似って…しつこいとかそういうこと?」
僕は顔を覗き込む。
眉を寄せたキソプは真面目な声で言う。
「人のお皿に手出すとか」
その答えに、思わず噴出す。
「手羽先、取られたんだっけ」
「その分は後で貰ったけどね」
笑いを抑えながら、僕は言った。
「手癖、悪いからなあ」
「こういうのとかさ」
触れていた手を離し、キソプは僕の髪を後ろからかき混ぜるように撫でた。
「キソプが真似してるじゃない」
「髪乱れるから嫌なのに」
そのまま腕を肩に乗せ、唇を尖らせる。
僕はAJの日頃の行動を思い出し、真似できそうなことを見つける。
「こういうのは?」
僕はもう一度キソプの顔を覗き込む。
「何?」
答えずに、そのまま目を見つめる。
よく喋るAJはしかし、時折こんな風に視線を寄越すことがある。
無言のまま十数秒経つと、キソプは何か言いたげに口を開けた。
けれど言葉が発せられることはなく。
見つめ返す瞳と、少しだけ開かれた唇に誘われるように、僕はキソプにキスをした。
ストーカーパラレルか。
ELは病んでるのは似合わないんだけど。
* non-con(合意のない性行為)というほどではないけど注意。
***
「開けられないよ」
ケビンは震える声で言った。
「少しだけだよ。いいだろう?」
ドアの外で、甘い声が誘う。
「誰も入れるなって言われてるんだ」
身体の前で手を握り締めて答える。
「分かった、中には入らない。だから顔を見せてくれよ」
ケビンが黙ると、声は続けた。
「一瞬だけでいいから。なあ、頼むよ」
懇願する調子に、心が揺らぐ。
一瞬、顔を見せるだけなら。
それで帰ってくれるなら。
その方がいい。
もうこれ以上、呼び鈴に怯えるのは嫌だ。
ケビンはドアに近付き、チェーンがかかっていることをもう一度確認する。
「本当に顔を見るだけだよ」
「ああ、約束する」
息を飲み込み、鍵を開けた。
ゆっくりとドアを押し開き、外の様子を伺う。
隙間から差す光に目を細めたが、そこに声の主の姿はなかった。
すると突然、力強くドアが引かれた。
チェーンが鈍い音を立ててピンと張る。
その下から差し込まれた腕が、力強くケビンの手首を捕らえた。
「やっと会えた」
姿を見せたイライは、口許に笑みを浮かべている。
そしてケビンは、自分が判断を誤ったことを悟った。