しんどい

ちょっとがんばりすぎた

あたま痛い
首凝ってる

キムチ
豚肉
チョコレート

おなか痛い

悪循環
耳鳴り
悪あがき

焼肉焼いて,焦げた網

ゆっくり回復するしかない

温泉行きたい
花と,蝶と,空
夕暮れにビール

 

 「THE ROOSTERS a-GOGO」は,1981年6月25日に発売された,The Roostersのセカンドアルバム。オリジナルメンバーの大江慎也(vocal,guiter)・花田裕之(guiter,chorus)・井上富雄(bass,chorus)・池畑潤二(drums)による演奏。
 2018年のリマスター版を購入。

 ルースターズのセカンドと言えば,「SITTING ON THE FENCE」である。…自分的には。

 1981年7月14日,渋谷Eggmanでのライブテイク
 https://www.youtube.com/watch?v=5N6vny-_dJQ

 3分弱のシンプルな曲。
 歌詞は,明るい空の下,フェンスに腰かけて,考えたり,待っていたり,感じたり,想ったり,パズルを解いたりしている…というだけの内容。
 アルバム発売時,大江は22歳。


SITTING ON THE FENCE (作詞:大江慎也)

フェンスに 腰かけ
明るい 空の下
考えているところ
これから 何をやろうかな

フェンスに 腰かけ
遠くを ながめて
待っているところ
イカす 悪魔の訪れ

フェンスに 腰かけ
ミルク 飲みながら
感じているところ
おいらの すてきな狂気を

ずいぶん ながいこと
こうして いるみたい

フェンスに 腰かけ
すずしい 顔して
想っているところ
愛する あの娘のことを

フェンスに 腰かけ
むずかしい 顔して
やっているところ
おいらの ジグソーパズル

ずいぶん ながいこと
おいらこうして いるみたい
Yes! I'm sittin' on the fence…



 フェンス…こちら側と,あちら側を隔てる壁。大江はフェンスの上に座り,「これから何をやろうか」と,考えている。
 遠くを眺めながら,彼が待っているのは,人でも天使でもなく,「悪魔」である。
 彼は自らの「狂気」を感じている,ミルクを飲みながら。ミルク…小学校の給食で出た牛乳,お母さんに飲ませてもらったミルク。口の周りにミルクをつけた,少年のような大江がいる。
 フェンスの上で,彼は「すずしい顔して」,愛する女性のことを想っている。フェンスから地上に降りたら,「すずしい顔」などしていられないことはアルバムの他の曲を聴けば,分かる。
 彼がむずかしい顔でやっているのは,自分自身という「ジグソーパズル」なのだが,「ずいぶん ながいこと」そうしていても,パズルは完成しない。フェンスを降りて,足りないピースを探しに出かけなくてはならない。
 なぜなら,もう「私はひとりの大人,あるいは男(I'm a man)」なのだから。

 ある気質と才能を与えられた少年が,フェンスの上で遠くを眺めながら,強烈な何かを予感している。しかし,「イカす悪魔」も「すてきな狂気」も,そして「愛するあの娘」も,まだその暗い半面を現していない。だから,空は晴れて「明るい」のだ。

 空へ向けて噴き上がって行く大江のギターのように,輝く何かがそこにある。

できることは

 

「病」を見つけ出し,治したり養生を勧めたりすることではない
 (ワタシは医師でも看護師でもない)
「障害」や知識の欠如を見つけ出し,直したり教えたりすることではない
 (ワタシは教師ではない)
ダレカの背負った荷物を,軽くしてあげることじゃない
 (ワタシはその役目を負った「死」ではない)

ワタシは無力になって,ソコに居る
ダレカの訴えを,解いたり治したりすることはできない
ダレカをソコに,連行したり繋ぎ止めたりすることはできない
 ただボーゼンと,ソコに居る
 ソノママを見詰めて,ソコに居る
 ナニカになりたくなる,ワタシを鎮めてソコに居る

  ナニも生じてこない
  ナニカがワタシの周りを泳ぎ回る
  ダレカがコトバを話している
  ・・・叫びや,悲しみや,努力や,絶望に,声が与えられるように
  ・・・ダレカが突き通され,倒れ込み,頭を抱えられるように
  ・・・訴え,嘆き,怒り,呪えるように
  ナンノためにでもなく,お祈りをしながら
  結ばれることもなく,愛しながら
  冷たい果実を,2人で齧りながら

(2006年3月1日)

ひとがしぬと


日が暮れてきやがった
畜生
ジンが透明に揺れてる
安っぽいコーラで流し込め

何もしたくなんかねぇ
机の上
インクぶちまけて
頭の中
音ぶちまけて
カラダの中
透明な蛇が通り抜け
風の中
安っぽい火薬の臭い

終わりの時は

白いコート揺らして
ダレカそばに居てくれ
ダレモ構わないでくれ
アスファルトと乾いた空気で
歩いたら楽かね
日も暮れてきやがった
畜生

(2006年2月22日)

 カウンセラーとして話を聴くとき,こころの中で,カウンセラーは何をしようとしているだろうか?

 一般的なカウンセラーのイメージとして,まずは「傾聴する」,じっくり聴くというイメージがあると思う。
 これはこれで良いのだが,「傾聴する」というイメージに乗っかって,カウンセラーがただ頷いたり相槌を打ったりしているだけで,内面の動きは空っぽ,ということもあり得る。実際,カウンセラーとして仕事をしている時のことを思い返すと,「形は傾聴,こころは空っぽ」になっていることは,決して少なくないように思う。
 

 カウンセラーとして,「形は傾聴,こころは空っぽ」になっていることには,罪悪感がある。カウンセラーたるもの,こころを動かしながら,相談に来られた方の話を聴きたいと思っているからである。
 しかし,この「こころは空っぽ」という状態に過剰に罪悪感を持ってしまい,自分のこころが空っぽであることを認めず,無自覚に何かを感じたり考えたりしているかのように振る舞うことは,望ましくないように思える。
 少なくとも,「何も感じないなぁ」とか,「何もアイディアが浮かんでこないなぁ」というくらいには,「こころは空っぽ」の状態であることを自覚しておきたい。
 そんな時にも,「形は傾聴」を崩す必要はない。カウンセリングであれ,日常の生活であれ,常に相対している人に愛情を感じたり,興味を抱いたり,こころが動いたりしているわけではない。「傾聴」は,日常生活で気にくわない人にも挨拶をすることや,興味のない話題にもちょっとつき合うことと同じような,カウンセリングをする上での礼儀・マナーなのである。
 その上で,「なぜ,私のこころは空っぽなのだろう?」と考え始めることが大切であるように思う。カウンセラーのコンディションの問題,体調不良や強度の疲労や寝不足などが主な要因だろうか?相談に来られた人のキャラクターに関係する要因,興味や共感を引き出すことが下手な,あるいは,そのようなことにあまり関心がない人なのだろうか?カウンセラーとクライエントの相性や関係性の問題,興味の焦点や経験してきたことのミスマッチなどが大きいのだろうか?


 上のようなことを考えず,「こころは空っぽ」を否認して,無自覚に親しげな,あるいは共感的な「形は傾聴」をくり返しているだけの状態になった場合,どのようなことが起こるだろうか。
 相談に来られた方が,「傾聴」されるという形を強く必要としていて,自分自身で語りながら,いろいろ考えたり感じたりして,自ら問題に整理をつけたり解決の道筋を見つけたりする,ということもあり得ると思う。しかし,当然ながら,そのような「力のあるクライエント」ばかりではない。「傾聴」されていても,自分で何かアイディアを出せるわけでもなく,カウンセラーからも助けになる言葉が出てくるわけでもなく,クライエントのこころに「また話してみたい」という引っかかりを残せなければ,カウンセリングは中断という形で終わるだろう。

 ニガミ17才の「町の変態」(「ニガミ17才b」所収)を聴いていて,「不登校の味方」でいたいなぁ,と思った。

 学校という場所は,時に「行きたくない魔力」を持ってしまう。
 思考力も想像力も,固まって動かなくなったり。
 妙ちくりんにに緊張して,いい子になってしまったり。
 できないことが,恥ずかしく思えたり。
 なんだかやたら疲れたり。
 ハイテンションになってしまったり。
 カリカリ,やたら主張してしまったり。
 あとで頭を抱えたり。
 ドギマギして怪しくなったり。
 トラウマに鷲掴みされたり。
 とにかく,なんでも,そっくり返って拒否したり。
 「なぜ行きたくないの?」と聞かれても,脳は止まったまま,言葉なんて出てこない。

 スクールカウンセラーは,つい「見立て」なんてして,つい対応方法なんて,考えてしまったりするけど。つい,先生や学校やお父さんやお母さんの役に立とうなんて,考えてしまうけど。
 ほんとうは,「町の変態」として,別に誰かのってわけじゃなく,「不登校の味方」でいたいな,とか,ぼんやりと思う。

 「いいのさ,いつだって,歯車は狂いっぱなしだ」。

 実行機能(executive function)は,特別支援教育に関する勉強などをしていると,よく目にする言葉。
 以前から,「実行」(executive)という訳語が,ピンとこない感じがしていた。


 「語源の広場」から引用しつつ,イメージしてみる。
 

http://gogen-wisdom.hatenablog.com/entry/2017/01/08/180000

 executiveは,executeの名詞形・形容詞形。

 動詞 execute の語源は,ex 「外に」「最後まで」+ラテン語 sequte 「続く」「ついて行く」。
 これは,死刑を執行し,墓場までついて行って埋葬されるのを見届ける,というイメージだそう。

 「熟語本位英和中辭典」には,execute の意味として「(死刑を)執行する。(人を)死刑に處する」とある。ここから「(法律,宣告,命令などを)執行する」→「(計畫などを)實行する」と意味が広がっていった,と考えておいてよいだろうか。

 形容詞 executive は,「(刑や処分を)執行する」→「(計画を)実行する」→(法律,宣告,命令などを執行する機関である)「行政の」→(法律,宣告,命令などを執行させる主体である)「役員/重役/理事の」→(役員/重役/理事が使うのにふさわしい)「高価で贅沢な」という具合に意味が広がっていった,とイメージしておく。

 どうも私は,最後の「高価で贅沢な」というイメージに引っ張られていたように思う。この意味について,「ランダムハウス英和大辞典」には「広告などで乱用されることがある」と注意書きがついている。


 function は,「熟語本位英和中辭典」によると「(各機関持前の)働き,作用,官能,機能」となっている。


 「exective function」は,特別支援教育の分野では「実行機能」と訳されることが多い。

 「脳科学辞典」によると,神経心理学やリハビリテーションの分野では「遂行機能」とも訳される。「前頭葉損傷による高次脳機能障害の説明概念として機能しており,目標設定や,行動の抑制・制御が行えるかといった行為能力に重きが置かれている」。また,中国では「執行機能」という訳語があてられている,とのこと。
 https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%AE%9F%E8%A1%8C%E6%A9%9F%E8%83%BD

 「例解現代国語辞典 第5版」によると,
 「実行」は「計画や理論などを実際に行うこと。実地に行動すること」
 「遂行」は「物事を最後までやりとおすこと」
 「執行」は「とり行うこと。実際に行うこと。特に,法令,裁判,行政処分などの内容を実際に実現すること」である。

 まあ,一般的には「実行」でいいのだろうし,語感的には「遂行」が近いように思えるし,語源的には「執行」のイメージが合うように思う。
 ただ,「実行機能」にしても「遂行機能」「執行機能」にしても,用語として,それが指すものをイメージしづらい。

 「executive function」は,「エグゼクティブ・ファンクション」のままか,「ものごとを最後まで実行させる働き」くらいの言葉で理解しておけば良いだろう。
 加えて,死刑を執り行い,墓場に埋葬されるまで見届けるような,暗い脳内に住んでいる(西洋中世的な)死刑執行人の姿を重ねてイメージしておこう。

 スクールカウンセラーとして,先生方と打合せやカンファレンスをしている時,自分が意地になって,クライエントについての理解などを主張していることがある。
 もちろん,良い状態ではない。

 スクールカウンセラーにとって大切なのは,教員やクライエントへ「正解」を示すことではない。そうではなくて,教員や保護者,児童・生徒の話を聴いて,真剣に検討し,カウンセラー自身の見方や意見を改めて行くことのできる力こそが,大切であると思う。

 スクールカウンセラーである自分が意固地になってしまうのは,自分だけに問題があるわけではなく,おそらくその場にいるメンバーとの相互作用によるところが大きい。自分が受け入れられていない,認められていないなどと,傷つきを感じている時ほど意固地になっているように思う。
 固い意見は人を傷つけ,傷つけ合いの悪循環に陥りやすい。

 もちろん,ある程度,確からしい意見や情報を示さなければ,話にならないこともある。しかしその意見や情報は,「プリマ・マテリア」であり,別の視点から異議申し立てをされ,文字通りの事実や真実であることを否定されて,「嘘」でガラクタのように見做され,解体・溶解される。臨床心理士・スクールカウンセラーが提出する意見や情報というのは,そのような運命をたどるものだとイメージしておいて良いのだと思う。

 このプロセスの中で,先生方から,新しい情報や異論・疑問,不安やきめつけ,結論づけようとする意見などが出てくる。この語りを,しっかり聴いて味わうことが大切であるように思う。
 2人で,あるいは数名,10数名で話し合っているうちに,いつの間にか新しいファンタジーが立ち上がってくる。透明な容器の中で「プリマ・マテリア」として解体・溶解された意見が,新しい形で戻ってくる。それは,スクールカウンセラーが提出した意見や情報そのものではなく,誰か特定の先生が表明した意見・情報でもない。
 そんな,恵みのような理解や見通しが,ファンタジーとして生じてきて,スクールカウンセラーを含めた教職員が,児童生徒・保護者などと生き生きと関わるための糧になること。そしてその関わりが,子どもたちが成長して行くための土壌になること。
 スクールカウンセラーが教員たちとケースについて話し合うことの意味を,このようにイメージしておきたい。

 そうすれば,文字通りの「正解」を出すことへの拘りから解放され,優劣を競う知的な討議に入り込むこともないだろう。私たちが行うのは,想像力と祈りの作業に近い。そしてそれは,極めて具体的に児童・生徒と関わり対応することと,矛盾するものではない。
 

 公認心理師試験から,6日。

 日曜日,無事公認心理師試験終了。
 ウィークデーは仕事で,ふり返る余裕がなかった。

 「公認心理師試験設計表」の範囲を,100時間かけて一通り勉強するつもりだったが,できたのは40時間。
 試験向けの参考書や問題集などをこなすだけでは面白味を感じなかったので,自分なりに調べたり考えたりしながら勉強してみた。

 私は,興味を持てるものと持てないもの,得意なことと苦手なことなどが,比較的はっきりしている性格だと思う。心理学についても,これまで勉強してきた内容や,経験してきた分野など,かなり偏っている方だと思う。そういう自分にとっては,これまでほぼ触れて来なかった分野や内容について「勉強せざるを得ない」状況は,なかなか刺激的で,面白さも感じた。

 試験終了後の合否について,感触は「微妙」。
 もちろん,試験を受けながら,学習時間や内容の不足を感じた。全くお手上げの問題も,幾つもあった。あまり,試験に受かることへフォーカスした練習や対策などしておらず,多少は必要だったかなぁ,などと思った。
 それでも,試験勉強したことで,多少点数の上乗せができたという手応えも感じた。

 試験問題については,だいたいイメージしていた範囲の出題のされ方だった。すごく大ざっぱにイメージしていたので,当然かもしれない。
 これも大ざっぱな感想だが,問題は「良問とは言えない」ものが多かったように感じた。何が「良問」なのか,はっきりしないけれど。

 今回の試験に関しては,合格しても,不合格でも,どちらでも良いと思っている。
 合格できれば,それは楽ちんで,良い。
 不合格なら,これまでやってきた勉強を,もっと時間をかけて,もっと面白おかしく,続けて行けば良いだけ,だと思っている。それはそれで,悪くないな。

 公認心理師試験まで,あと7日。

 「公認心理師試験設計表」大項目9,「感情及び人格」(出題割合2%)のキーワード,「類型論」「特性論」について勉強してみる。

 類型論は,typological theoryの訳である
 typological・typologyは,typeから派生した語であろう。typeは,「強く打つこと」「押すこと」「印象」を意味するギリシア語から,「浅い浮き彫り」を意味するラテン語を経て,「しるし」意味する言葉として英語に入っている。このイメージからすると,typeという語は,「超越的な存在によって押された(性格という)しるし」「生得的に持っている型」といった意味を内在させているように思う。
 「類型論」という訳語は,なんだかイメージを持ちづらい。「性格の型についての理論」とか「タイプ論」の方がまだ良いように思う。
 typologicai theory(性格の型についての理論)は,当然ながら,古代から考えられてきた。「性格の型についての理論」が最も花開いたのが,20世紀前半,ドイツを中心としたヨーロッパである。その代表格が,エルンスト・クレッチマー(Ernst Kretschmer)の3気質(細長型-分裂気質・肥満型-躁うつ(循環)気質・闘士型-粘着気質)と,カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung)の「タイプ論」(内向・外向/思考・感情・感覚・直感)である。

 「類型論は,人間を独自の全体として考えそれより小さな部分に分けない。厳密に測定することでなく,直感的に理解できることを重視する
 「その結果,類型論は無体系であったり,分類方法に研究者の特殊性が反映し一般的といえず,少数の型に分けるためどちらの類型にも属さない中間の型が無視されやすく,互いの分類を統合するような分類は試みられないのである」(キーワードコレクション心理学改訂版,p.359)。


 特性論は,traits theoryの訳である
 traitは,ラテン語tractusから,「引かれるもの」を意味する中期フランス語を経て,英語に入っている言葉。trainとかattractionなどと同じ根を持っている。遺伝や習慣・教育などによって「引き継がれてきたもの」とか,あるいは過去や経験を「引きずっているもの」といったイメージが可能だろうか。
 特性論は,20世紀半ば以降のアメリカを中心に発展した。質問紙などによる客観的・数量的な測定と,因子分析(factor analysis)により因子を抽出する方法が特徴である。
 また「特性論は個人の人格を複数の特性次元に沿ってそれぞれの程度を量的に表現するものである」(現任者講習会テキスト,p.252)。それ故,「traits」は複数形なのだろう。よって,訳としては「複数の特性によってパーソナリティを把握しようとする理論」が良いと思う。
 「特性論においては,人の人格を包括的に理解するために,いくつのいかなる特性次元を設定すべきかということが重要な課題となる」「ここ四半世紀の間に最も理論的に注目され,また実証的にその妥当性が支持されているのは5因子モデルということになろう」(現任者講習会テキスト,p.252~253)。
 「5因子モデル」の5つの因子は,外向性・協調性・誠実性・情緒的安定性・経験への開放性,である。
 また近年,パーソナリティ全般ではなく,パーソナリティの特定の側面を把握しようとする研究が盛んになっている。その中に,反社会性・犯罪性を表すパーソナリティとして「ダークトライアド」(dark triad)がある。文字通り3つの因子(マキャべリアリズム・サイコパシー傾向・自己愛傾向)からなる。

 「特性論(traits theory)は米・英の研究者が行った「人格」の分類をさすが,彼らは,人間は環境によって形成され他者や社会との関わりの中でさまざまな行動を表出するという立場から個人差を求めた。つまり根源的に変化するもののニュアンスを持つ(persona:仮面→personality)「人格」の分類こそが人間の変化・発展を重視するとくに米国の風土に合致しているのである」(キーワードコレクション心理学改訂版,p.360)。
 「特性論は,人間を類型論のように質的に異なるものではなく,測定値のパターンの違いとしてとらえる。そのため類型論のように中間の型が無視されることはないが,直感的な理解ができにくい」(キーワードコレクション心理学改訂版,p.365)。

 
 まあ,こんなところ。
 「typological」と「traits」の観点から,DSM-Ⅳ→DSM-5の変化を見ても面白いかもしれない。DSM-Ⅳの方が,まだヨーロッパ的な精神病理学,「病理の型についての理論」の匂いが残っており,DSM-5では,「スペクトラム」や「ディメンショナルモデル」といった概念を用いて,よりアメリカンな「複数の特性によって病理を把握しようとする理論」へと移行しているように見える。

 「typological」と「traits」,どちらが臨床的に有用だろうか?


【本日の勉強時間:2時間,「感情及び人格」勉強時間:2時間/2時間,累計勉強時間40時間/100時間】