カウンセラーとして話を聴くとき,こころの中で,カウンセラーは何をしようとしているだろうか?

 一般的なカウンセラーのイメージとして,まずは「傾聴する」,じっくり聴くというイメージがあると思う。
 これはこれで良いのだが,「傾聴する」というイメージに乗っかって,カウンセラーがただ頷いたり相槌を打ったりしているだけで,内面の動きは空っぽ,ということもあり得る。実際,カウンセラーとして仕事をしている時のことを思い返すと,「形は傾聴,こころは空っぽ」になっていることは,決して少なくないように思う。
 

 カウンセラーとして,「形は傾聴,こころは空っぽ」になっていることには,罪悪感がある。カウンセラーたるもの,こころを動かしながら,相談に来られた方の話を聴きたいと思っているからである。
 しかし,この「こころは空っぽ」という状態に過剰に罪悪感を持ってしまい,自分のこころが空っぽであることを認めず,無自覚に何かを感じたり考えたりしているかのように振る舞うことは,望ましくないように思える。
 少なくとも,「何も感じないなぁ」とか,「何もアイディアが浮かんでこないなぁ」というくらいには,「こころは空っぽ」の状態であることを自覚しておきたい。
 そんな時にも,「形は傾聴」を崩す必要はない。カウンセリングであれ,日常の生活であれ,常に相対している人に愛情を感じたり,興味を抱いたり,こころが動いたりしているわけではない。「傾聴」は,日常生活で気にくわない人にも挨拶をすることや,興味のない話題にもちょっとつき合うことと同じような,カウンセリングをする上での礼儀・マナーなのである。
 その上で,「なぜ,私のこころは空っぽなのだろう?」と考え始めることが大切であるように思う。カウンセラーのコンディションの問題,体調不良や強度の疲労や寝不足などが主な要因だろうか?相談に来られた人のキャラクターに関係する要因,興味や共感を引き出すことが下手な,あるいは,そのようなことにあまり関心がない人なのだろうか?カウンセラーとクライエントの相性や関係性の問題,興味の焦点や経験してきたことのミスマッチなどが大きいのだろうか?


 上のようなことを考えず,「こころは空っぽ」を否認して,無自覚に親しげな,あるいは共感的な「形は傾聴」をくり返しているだけの状態になった場合,どのようなことが起こるだろうか。
 相談に来られた方が,「傾聴」されるという形を強く必要としていて,自分自身で語りながら,いろいろ考えたり感じたりして,自ら問題に整理をつけたり解決の道筋を見つけたりする,ということもあり得ると思う。しかし,当然ながら,そのような「力のあるクライエント」ばかりではない。「傾聴」されていても,自分で何かアイディアを出せるわけでもなく,カウンセラーからも助けになる言葉が出てくるわけでもなく,クライエントのこころに「また話してみたい」という引っかかりを残せなければ,カウンセリングは中断という形で終わるだろう。