親愛なる先生へ
昨日のお手紙に、「ひとの目ってものを気にしないでいられるなら、そんな複雑に『向上心』みたいに装ったりしなくてもよいんじゃないか」というふうに書きましたが、その際、じつをいうと、ちょっとした心の支えとなっていたようなツイートがあったのでした。
こういうものです。
複雑PTSD や発達障害の人は 人と関わった分だけ疲れるかもしれません。 その代わり自然が友達になり 木や花、動物、鉱物、雨、風、目に見えないものが大切です。 心の逃避先は、絵、小説、本、図鑑、音楽、自然、宇宙になるかもしれません。 この辛い状況を突破して自分の強みに気づきましょう。
トラウマケア専門『こころのえ』相談室さんのツイート 9:53 - 2019年10月7日
さて、これがどのように「心の支えとなった」のか、については、次回以降ということにしますね。
あなたの一番弟子(でありたい) elaineより
親愛なる先生へ
昨日のお手紙の最後の方で、「いわば正当化だったりしたんでしょうか」と、書いたあたり。
なんか、考えていくと、いったい何があてになるんだろう? っていうような気分になってきてしまいます……。
なぜって、これまで自分なりに懸命に「向上心」を持ってやってきたつもりだったんですよ。
それだっていうのに、「『向上心』とは全然違うもの」だ、とか、「嫌々やっていただけのこと」だ、とかいった、反論みたいなものが出てきちゃうのだもの。
ここで、ふとひらめいたのですが。
こうしたことって、他者からの視線っていうか、承認の有無っていうか、そうしたものがあるからこそ、起こってしまうのかなー、なんて。
だいたい、ひとの目ってものを気にしないでいられるなら、そんな複雑に「向上心」みたいに装ったりしなくてもよいんじゃないか、と。
ということで、ちょっと、考えたことがあります。
それについては、また次回以降に……。
あなたの一番弟子(でありたい) elaineより
親愛なる先生へ
2019年12月4日に出てきて、このところ話題にしている、「やんなきゃいけないことは、やんなきゃいけない、さもないと社会でやっていけない」というような考え方。
そういやコレって、今までのお手紙の中で何度も取り上げてきた「向上心」って言葉に通じるものがあるのかな? って気もしてましたが、もしかすると、「向上心」とは全然違うものだったりしたのかもしれません。
なぜかというと、つぎのような文をみつけたからです。
現状に満足してしまったら、向上心がなくなるでしょうか。
好奇心が薄れるでしょうか。
そんなことはありません。
向上心や好奇心というのは、新しい経験をしてみたいという人間の根源的な欲求の現れです。
肯定の波動は向上心や好奇心を育む土台にはなりますが、障害になることは、ありません。
向上心や好奇心が無くなったように見えるとしたら、それは現状に満足したからでなく、嫌々やっていただけのことです。
なぜ今を肯定すべきなのか - 夢ならば夢らしく - Medium
つまり、わたしの場合の「やんなきゃいけないことは、やんなきゃいけない、さもないと社会でやっていけない」っていうのは、ズバリ、「嫌々やっていただけのこと」ってのにあてはまっちゃってるんですよ。
もしかしたら、それだっていうのに「向上心」などと思い込もうっていうのは、いわば正当化だったりしたんでしょうかねえ……。
ではでは。
あなたの一番弟子(でありたい) elaineより