親愛なる先生へ


昨日のお手紙を、ちょっと振り返ってみて感じるのは、「自分って、ほぼ強迫的ともいえるくらい、『良くならないといけない! 』っていうふうだったのでは? 」ということです。

だって、誰かと話したりしてるとき、その誰かがこちらについて受ける印象のことまで構っちゃいられないくらい、必死だった、ってことなのだものねえ……。


まあ、それも、これまでのお手紙の論調だと、無理もないことになっちゃうんですよ。

それこそ、2019年11月29日のお手紙の、「お姉さんなんだから(これくらいのことは出来てなきゃいけないというのに、お前は出来ていない。だからお前は至らなくて馬鹿だ。でも、お姉さんなんだから馬鹿であってはいけない)」って文。

コレ、真に受けてたら、マジできりがなくなっちゃうんじゃありませんか? だいたい、どこまでやれば気がすむの? って感じになっちゃいますよ。


ですから、さっき『良くならないといけない! 』って書きましたけど、これもっと正確にいうのなら、『このままじゃダメでダメでどうしようもないんだから、せめてなんとかして少しでもましにならないといけない! 』っていうふうなのかも。


こうなってくると、なんか、「お姉さん」でいることって、全然誇らしいことでもなんでもなくて、むしろ、言葉は悪いかもしれないけど、いわば呪いっていうか、スティグマ? って感じなのだったりして……。


さて、今回はこんなところで。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaine


親愛なる先生へ


昨日のお手紙に、「緊張してるのが当たり前」って書きましたけど、そういえばわたし、誰かと話したりするときって、いつもなんか、身構えちゃうっていうか、装っちゃうっていうか、なにかしら、見られたくない部分を隠そう隠そうとしてしまうんですよね……。


まあ、考えてみりゃ、当然の話です。だってこれまで自分の真の姿を受け入れられたっていう実感を、まるで持ててないんですから。

自分の真の姿を見せちゃったが最後、いやがられるに決まってる、って思っちゃってるんですよ。


だけどですよ、その応対してる相手にとっては、どうでしょう。どこかしら身構えて、体を固くしてるひと(つまりわたしのことね)と、親しくなりたいなんて、思いっこないですよね。


不思議なことですが、わたし、そういうことに、気づいてなかったみたいなんです。小さいときはいうにおよばず、けっこう成長してからも。

つまり、昨日のお手紙で書いてた、「『やんなきゃいけないこと』をやることこそが大事! 」ってのを優先するあまり、他のことに気が回らなかったのかもしれないんですね……。


まあとにかく、この続きは、また次回以降に。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaine


親愛なる先生へ


昨日のお手紙の、「やんなきゃいけないことは、やんなきゃいけない、さもないと社会でやっていけない、としか考えられなかった」という箇所、どうも気になって、ちょっと考えていたんです。

そしたら、なんだかこのような考え方を、今まであらゆる場面においても、適用してきちゃったんじゃないかなあ、と思えてきてしまいました。


つまりですね。

「やんなきゃいけないこと」をやることこそが大事! なんです。たとえやりたくなくっても。だから、もしやりたくないのなら、そのやりたくない気持ちはムリヤリ押さえつけられて、邪魔物扱いされちゃう。

そしてそういう状態は、ずーっとそうなんですよ。リラックスできるようなひとときなんてない。


要するに、緊張してるのが当たり前、ってことなんですね。当たり前すぎて、いちいち意識してられないくらいに。

そんなんじゃ、苦しくならないわけがない、ってもんですよ……。


ではでは。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaine


親愛なる先生へ


昨日のお手紙の最後の方、先生にはきっと意味不明だったことでしょうね!? 

だって、本来たのしいはずの放課後の遊びに「厳命された」とか、「夕方5時のチャイムが、待ち遠しくて仕方なかった」ほど、早く帰りたくてたまらなかった、なんて。

まあ、なにしろ四十年くらい前のことで、記憶もさだかでないし、今さら関係者に問いただす気もないんですが、そういうような覚えは、たしかにあるんです。


おそらく、親としては、わたしの体育の成績が悪いのを気にしていたのか? それとも友達が少ないからダメだと考えていたのか? 

だけど、そんなイヤイヤな態度で、果たして体育の成績アップも友達作りも、成功できると思います? 

でも、当時は、自分の気持ちがどうだろうと知ったこっちゃない、やんなきゃいけないことは、やんなきゃいけない、さもないと社会でやっていけない、としか考えられなかったんですよね。周りのみんなも、そういう考えなんだとばっかり思ってた。

だからこそ、誰にも真に心を開けやしなかったのかもしれないなあ……。


それでは、今回はこのへんで。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaine


親愛なる先生へ


2019年12月1日のお手紙で紹介した文章の中で、二番目に印象深かったのは、「教育という名の虐待」が蝕む愛着障害という病 | 家庭 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準にあった、「数学不安」のことです。


なぜなら、わたしコレにすっごくあてはまっているように思えてならないのだもの。

まあ、わたしが数学が苦手だったのは、先生もご存知でしたよね。それなのに、先生に教わることができていた、あの数か月間だけは、成績がぐんと伸びていた、ってことも、この「数学不安」に関する説を裏付けているのかもしれません。


あと、ここからは単なるわたしの勝手な仮説にすぎないのですが。

この「数学不安」、ドッジボールにも適用できるのではないかしら? 

ドッジボールといえば、5月8日のお手紙で取り上げていましたっけね。

まあ、わたしにとっては、ってことですが、ドッジボールのプレイ中って、もうほんと不安の塊だったんですよ。『当たっちゃったらどうしよう』『うまく受け取れなかったらどうしよう』などとね。

しかも、記憶に残っているのが、放課後、親にドッジボールをしてくるよう厳命されたこと。夕方5時のチャイムが、待ち遠しくて仕方なかったなあ。(それが鳴ったら、やっと帰っても良くなるので。)


ではでは。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaine