親愛なる先生へ

 

昨日のお手紙で紹介した文章、自分はそこまでひどい目にあったわけではないけれども(医者の家だから医者になれ、とかは言われなかったし)、やっぱり共感してしまいます。


で、一番印象深かったのは、「教育という名の虐待」が蝕む愛着障害という病 | 家庭 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準 | ページ 3にあった、次の一文です。

 

親は、満足な愛情を与えないうえに、親に気に入られようとする子どもを思いどおりに支配するという、二重の虐待を行っているのである。

 

この、「二重の虐待」っていう点に、はたして気づいている人って、どのくらいいるんだろう? などと、思ってしまうんですよ。

いや、そもそも「虐待」に該当するとすら、認識されてやしないでしょうね。


……なんか、このところ、こういったことにしつこくこだわっちゃってるみたいですが。

そのわけは、こういった、いわゆる誤解というか、逆転現象みたいなものを解きほぐさないことには、自分が幼少時以来置かれてきた、八方塞がり的な境遇が打破できないんじゃないか、と思ってしまうから、なんですよね……。


それでは、今回はこのへんで。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaine


親愛なる先生へ

 

昨日のお手紙に、「もし、ほんのちょっとでも、『これって不当なんじゃないの? 』というようなことが考えられたのであれば、自己嫌悪が少しは和らいだのかもしれないのに」と書いたのですが、そういうことを到底考えるわけにはいかなかった背景には、どうしても、当時の親たち大人が、どういう意識だったか、がからんでくるんですよね。

で、その意識って、あくまで推測ではあるんですが、いわば「自分達は、ズバリ教育上、正当なことをしているんだ! 」っていうものだったんじゃないかと思うんです。

だけど、あまりに「正当だ」と思いすぎて、自省しないでいると、歯止めがきかなくなって、とんでもないところまでいっちゃったりするのでは? 

こんなことがらに関連して、「教育虐待」って概念があったりするんですよね。
例えば、次の記事のように。

 

「教育という名の虐待」が蝕む愛着障害という病 | 家庭 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

「教育という名の虐待」が蝕む愛着障害という病 | 家庭 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準 | ページ 2

 

「教育という名の虐待」が蝕む愛着障害という病 | 家庭 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準 | ページ 3


さて、これらについての自分の考えなどは、また次回以降ってことで。


あなたの一番弟子(でありたい) elaine


親愛なる先生へ

 

昨日のお手紙の中で引用した、うつ病に隠された心理botさんのツイートには、他にも頷けるものがあるんです。例えば、コレ。

 

うつ病者は「できません!」と言うが、実は人並みには「できる」。でも人並みではいけないのである。うつ病者は人よりもよくないと怒られると思っている。許されないと思っている。親がいつもそうだったから。

 

うつ病に隠された心理botさんのツイート 6:15 - 2019年11月25日


まあ、わたしの場合は、「人よりもよくないと」っていうより、「お姉さんとして恥ずかしくないようでないと」っていう感じだったわけですが。


とはいえ、改めてみてみると、ここで疑問が生じますよね。「お姉さんとして恥ずかしくないよう」なのって、具体的にはどんなのなの? どこまでやればいいの? など。だけどそんなの、明確に示されたためしがなかった。


もっというと、そんなふうに「お姉さんとして恥ずかしくないようでないと」って言われたり、そういう態度で接してこられたりすることに、当時何の疑問もいだくことができなかったんですよね。

もし、ほんのちょっとでも、『これって不当なんじゃないの? 』というようなことが考えられたのであれば、自己嫌悪が少しは和らいだのかもしれないのになあ……。


それでは、今回はこんなところで。


あなたの一番弟子(でありたい) elaine


親愛なる先生へ

 

昨日のお手紙に、「『出来ないお前の方に非がある』っていうようなメッセージ、自分の場合、幼少時にしょっちゅう投げかけられてた気がする」と書いたとき、じつをいうと、こんなツイートのことが、念頭にあったのでした。

 

うつ病者が心理的健康な人のように考えられないのは、おそらく小さい頃から養育者に「お前は馬鹿だ」と言われつつ、「でも、馬鹿であってはいけない」と責められ続けて成長したからである。

 

うつ病に隠された心理botさんのツイート 1:15 - 2019年11月22日


コレ、じつに自分にあてはまってると思っちゃうんですよ。

例えば、何度もお手紙の中で言及している、2月4日のお手紙の「お姉さんなんだから」って言葉ですけど、よく考えると、隠れている意味があるんじゃないかしら!? 

つまり、「お姉さんなんだから(これくらいのことは出来てなきゃいけないというのに、お前は出来ていない。だからお前は至らなくて馬鹿だ。でも、お姉さんなんだから馬鹿であってはいけない)」というような具合に……。


さて、この続きは、また次回以降ということにしますね。


あなたの一番弟子(でありたい) elaine


親愛なる先生へ

 

昨日のお手紙のラスト、あらためてみてみると、ちょっと論理が破綻してるようにも読めてしまいますネ!? 
だって、「これからのことに明るい展望が持てなかった」っていってるようなもんなのに、「かんじんなのは、これからのことなんですよ」、だなんて……。
以前、何かの人生相談のようなもので、相談者が「友達ができない」というようなことを言ってるのに対して、回答者が「友達を作りなさい」と答えてるんじゃないかと思えるようなものがあって、なんだかモヤモヤしたのですが、それと似たような感じになっちゃってるんだったりして。

つまりですね。
こんなふうに、「出来ない」と主張していることに対して、「出来るようになれ」と応対するのって、とんでもない弊害を生じさせるんじゃないかなー、と言いたいのです。
だって、そう言われた方は、はっきりいってパニックになる。なにしろ「出来ないお前の方に非がある」って断言されてることになるんだもの。

そして、この「出来ないお前の方に非がある」っていうようなメッセージ、自分の場合、幼少時にしょっちゅう投げかけられてた気がするんです。
今にして思えば、その当時って、いかにも小さかったのだから、出来なくてもなんの不思議もなかったはずなのに……。

それでは、今回はこのへんで。

あなたの一番弟子(でありたい) elaine