親愛なる先生へ

 

昨日のお手紙で触れた、「自分で自分のことをダメだと思い込んでいる」という問題。

 

まだ思い付きのレベルにすぎないんだけど、もしかしたら、つぎの引用に通じるようなところがあったのかな。

 

ある日、PTA活動のために日中幼稚園に行ってみたら、皆と鬼ごっこをしないで羨ましそうに眺めていた子がいました。

「『入れて』って言っていいんだよ。」とおせっかいにもその子に話かけた私に対してその子が「僕走るのが遅いから、どうせ僕なんかが入ったって皆つまらないよ…」と。

5歳の子から「どうせ僕なんかが…」なんて言葉が出てくるとは思わず、私は固まってしまいました。

その子の親御さんが愛情をかけてないと言いたいわけではないのです。

むしろ、親御さんが「しっかりしつけしなければ」と我が子を思うあまりにきっと「あれしなさい、これしなさい」と言ってしまうんだろうな、と勝手ながら想像してしまいました。

 

そもそも子供の自己肯定感が「高い」「低い」ってどういうこと? | MARCH(マーチ)

 

自分も、幼少時に、「あれしなさい、これしなさい」としきりと言われていた心当たりがありまくるんです。

親はきっと、そうすることこそが、良いこと・正しいことだと信じて疑ってなかったんだろうけど、それをされる方としては、なんというか、立つ瀬がないんですよね……。

 

それでは、どうすればいいか?
少し、考えてみることにしようと思います。

 

それでは、また。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより

 

親愛なる先生へ

 

昨日のお手紙の中で、こちらの抱えている問題点が、はからずも露呈しちゃいましたね。

 

つまり、
・ 自分には何か欠けている
・ 自然体でいられない
・ 劣等感
・ ヘンな緊張感
・ 他の人に無意識で要求がましくなる→ごくささいなことで傷つく

 

ひとことでいうと、「自分で自分のことをダメだと思い込んでいる」、と。

 

あ、だからこそ、なんだ!
このブログの過去記事でも困っていた、「自分次第ということになると思考停止して堂々巡りをしてしまう」とか。
文章がなかなか書けない、とか(文章力云々の問題とは別に)。


なんというか、自分に関するあらゆることがらが、非常にみっともなく思えてたまらなくて、思わず目を背けたくなってしまうんです。

 

先生は、わたしのことダメなんかじゃないって言ってくれますよね。
(お世辞とか社交辞令とかじゃなく、心から。)
むろん、リアルでは絶対言ってくれるなんてこと起こり得ないんだけど、言ってくれるはず、という方を選ぶことに決めます。

 

それでは、また。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより

 

親愛なる先生へ

 

なんだか、書きたいと思っていることの核心に、なかなかせまれなくて、もどかしいです。

文章力が、まだまだなんだなあ。

 

とにかく、先生の立ち居振る舞いとか言動とかが、自分とはなんか決定的に違う、と思ってしまっていたのですよね。
いったい、なにが違うのか考察して明らかにして、少しでもお近づきになりたい、ってことなのかもしれません。

 

でも、そういうふうに考えてしまうのは、前提として、「自分には何か欠けている部分がある」という意識があるからこそ、なんでしょう。

 

ひょっとして、先生は、「自分には何か欠けている」という意識を持ってらっしゃらないのでしょうか?

だから、自然体でいられて、劣等感とかヘンな緊張感とかなくて、他の人にも要求がましくなったりしないのかな。

応対していて心地よかった理由は、そういうところなのかな。

 

でも、そしたらそれは、いったいなぜなのでしょう?

どうしたら、そのようでいられるのでしょう?

 

今日のところは、ここまでが限度のようなので、つづきはまた次回にしますね。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより

 

親愛なる先生へ

 

昨日書いた、「あえて自分にとってのぞましい方を選ぶ」というようなことって、もしかしたら、このブログの1月3日の記事に登場した本の中に、でていたのかもしれません。こんなふうに。

 

「誰もが尊敬できる先生」は存在しない。同様に「先生運」も存在しない。先生とは自分で探すもの。ここを内田は「恋愛と同じ」と喝破する。
恋愛とは「周囲はいろいろ言うけど、私にはこの人がとてもステキに見える」という”客観的判断の断固たる無視”の上にしか存在しない。


岡田斗司夫@ニコ生ゼミ開講中(@ToshioOkada)/2010年05月22日 - Twilog

 

この、「客観的判断の断固たる無視」って、よく考えたら恐ろしいことだと思います。
だって、これがもしまかりとおるのならば、誰かと話が通じなくなってしまうし、下手すりゃウソ偽りが横行して、無法地帯みたいになりかねないでしょう?
そういうのがこわいからこそ、わたしは今まで、いわゆる「世間一般・常識」みたいなものにことさらこだわらざるをえなかったのかなぁ、と思うのです。


でも、そういうのって、なんかつまんなくて、なかなか心が動かない。

 

だから、こういうふうにいいかえたらいいのかもしれませんね。

「黒を白と言いくるめる」のではなく「針ほどのことを棒ほどに言う」と。

つまり、なにもないところから作り上げる(=ねつ造する)のではなく、何事もごくちいさなかけらとしては存在しているという観点のもと、それを拾い上げて育てていくのだ、と。

 

それでは、また。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより

 

親愛なる先生へ

 

昨日のお手紙、先生は、「社交辞令? 」とか、「褒めすぎ? 」とか思われたかもしれないですね。

 

じつは、ことはそう単純ではないのです。
正直なところ、最初のうちは好印象ではなく、むしろイヤな感じだったんです。

 

(すみません、わたしは、今は心からの納得を追求したいと思っているところなので、ここからは失礼なことを申し上げてしまうかもしれません。)

 

というのは、別の可能性も浮上している、ということに気付いたからなんです。
つまり、いかにもポジティブであるかのような演技をしている、とか……。
もしくは、脳天気なだけ、とか……。

 

でも、そういうふうに捉えてしまうと、すごーくつまらなくなっちゃうんです。

周りが灰色になって、なんとも居心地悪くなる、というか。

世の中いいことなんにもない、って気分になる、というか。

 

いずれにせよ、いまとなってはもう真相は確かめようがありません。

だったら、なにをわざわざ自分をいじめるような境地に向かわないといけないのかな? なんて。
つまり、物事の解釈がわかれる場合は、あえて自分にとってのぞましい方を選ぶようこころがける態度って、とても大切、ってことなんじゃないかな。

 

それでは、また。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより