親愛なる先生へ
昨日書いた、「あえて自分にとってのぞましい方を選ぶ」というようなことって、もしかしたら、このブログの1月3日の記事に登場した本の中に、でていたのかもしれません。こんなふうに。
「誰もが尊敬できる先生」は存在しない。同様に「先生運」も存在しない。先生とは自分で探すもの。ここを内田は「恋愛と同じ」と喝破する。
恋愛とは「周囲はいろいろ言うけど、私にはこの人がとてもステキに見える」という”客観的判断の断固たる無視”の上にしか存在しない。
岡田斗司夫@ニコ生ゼミ開講中(@ToshioOkada)/2010年05月22日 - Twilog
この、「客観的判断の断固たる無視」って、よく考えたら恐ろしいことだと思います。
だって、これがもしまかりとおるのならば、誰かと話が通じなくなってしまうし、下手すりゃウソ偽りが横行して、無法地帯みたいになりかねないでしょう?
そういうのがこわいからこそ、わたしは今まで、いわゆる「世間一般・常識」みたいなものにことさらこだわらざるをえなかったのかなぁ、と思うのです。
でも、そういうのって、なんかつまんなくて、なかなか心が動かない。
だから、こういうふうにいいかえたらいいのかもしれませんね。
「黒を白と言いくるめる」のではなく「針ほどのことを棒ほどに言う」と。
つまり、なにもないところから作り上げる(=ねつ造する)のではなく、何事もごくちいさなかけらとしては存在しているという観点のもと、それを拾い上げて育てていくのだ、と。
それでは、また。
あなたの一番弟子(でありたい) elaineより