親愛なる先生へ


昨日のお手紙に、わたしはずっと、「『こういうのが幸せというものなのだから、幸せと感じねば。そう感じられない自分はダメだ……。』っていうふうになっちゃってたのかも 」、というふうに書いたのですが、思えばこのパターンって、なにも「幸せ」に限ったことじゃないんじゃないかしら。


例えば、パッと思い付くことだと、6月4日のお手紙に取り上げた、「『よいことだからする』というのはすべて偽善」てやつ、とか……。


で、そうなっちゃってる原因について、ひとつ仮説がひらめいたんです。

それは……(「またか」って感じになっちゃいそうですが)2月4日のお手紙のこと。

あの中で、わたし、こう結論づけたんですよね。「自分のニーズ(欲求)を満たそうとするのは、ズバリ悪! 」、と。

そして、この「自分のニーズ(欲求)を満たそうとするの」って、要は「自分だけの幸せ」ってことじゃないですか。

ということはつまり、「自分だけの幸せを満たそうとするのは、ズバリ悪! 」になっちゃう、てこと!? 


……うーん、なんかまた、根が深い問題になってるような気がしてきちゃったんですけど。

ですので、また時間をとって考えてみますね。


あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ


親愛なる先生へ

 

昨日のお手紙に、「果たして真に幸せと言えるのか? 」というフレーズが出てきたことで思い出したのですが、そういえば、ちょっと前の9月6日のお手紙で引用したページの別の箇所に、こんなくだりがあったのでした。

 

【大前提】

  • 僕たちは必ず幸せになる運命にある
  • ただし、幸せの形は一人ひとり違い、「自分だけの幸せ」がある
  • 「自分だけの幸せ」は他人は絶対に知り得ない
  • 「自分だけの幸せ」は必死で探し求めないと見つからずに死ぬ

だから、僕たちは”自分の”幸せを見つけるために必死にならないといけないんです。

「これが自分の幸せだ!」って感じたら、それに向かって決断し行動するのです。

その行動が、就職だったり結婚だったり子どもを授かることだったりするわけです。

ただし、幸せの形は一人ひとり違っています。

就職や結婚があなたにとって「自分だけの幸せ」とは限りません。

でも、就職や結婚が「自分だけの幸せ」な人ももちろん居るわけです。

だから、それでいいじゃないですか。

「自分だけの幸せ」を追い求めた結果「幸せ」だからそこに居る。

この環境に何の不満があるんですか?

誰に期待する必要があるんですか?

 

「君には期待しているよ」「お前には期待していないから」どっちも気をつけて!!

 

 この、「自分だけの幸せ」っていう視点って、それこそ、わたしの幼少時にいた目上のひとたちには、スッポリ抜け落ちてたといえるんじゃないかなあ? 

つまり、「幸せのかたちは、こうこうこういうもの! 」って決まっていて、それ以外認めない、みたいな。

だから、それを真に受けたわたしは、『こういうのが幸せというものなのだから、幸せと感じねば。そう感じられない自分はダメだ……。』っていうふうになっちゃってたのかも!? 


ではでは。


あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ


親愛なる先生へ

 

昨日のお手紙の中で引用した部分、じつをいうと、1か所、引っ掛かるところがあったんですよね。

それは、

 

それでもし病気になったら、それが私の人生だし、

 

2014年10月: むだにびっくり

 

……っていう部分。

なんか言葉尻をとらえているようでアレだけど、この「病気」というのは困る、と思っちゃうのです。


だけどこれって、よく考えたら、8月29日のお手紙とおんなじようなことがあてはまりそう。

(8月29日のお手紙では「取り返しがつかないこと」ってなっていたのを、そっくり「病気」と入れかえちゃうわけ。)


それに、こういう考え方もできるのでは。

もし、病気になるのを怖れて、我慢しまくりの生活で長生きしたとしても、そういうふうで果たして真に幸せと言えるのか? と。

こうなると、ホントに、他人には口を出せる問題じゃない、ってことですよね……。


それでは、また。

 
あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ


親愛なる先生へ

 

このところ考えている、「課題の分離」ということについて。

 

昨日のお手紙のように、「心の中で軽蔑してお」く、というのは、そりゃあ元ネタページの発話者である「ドラ猫」だったら難なくできるかもしれないけど……。

こちとら猫じゃないし、「正しい」とされることを「学んで」「身につけないと」いけないんだしなぁ……。

 

などと考えていたところ、ふと、何年も前にネットで読んでいたブログのことを思い出しました。

 

自分の体のだいきらいな部分も、自分の人生があらわれている、と思うと、だんだんいとおしくおもえてきた。太りやすいものを食べちゃうのも、今までの自分を軸に考えたら、何もおかしくないし間違ってない。しかたないと思うし、それでもし病気になったら、それが私の人生だし、今まで、食べちゃだめだだめだって思ってたのは、その「だめ」は、誰かが決めた「だめ」で、実態がないものだなーと思う。

 

自分のためにがんばってる自分、そのがんばりすぎてる結果が「実態のないものが『だめ』と禁止してる行為」をしてしまう。
そんな自分を、「だめだだめだ」ってずっと責めてた。

 

自分の実態よりも、「実態のないものが言う『正しい』」を正しいってことにしてた。
それよりも、自分が食べたいと思ったもの、それが『だめ』で『正しくない』ものでも、その時自分がそれを食べたいと思う気持ちを認めて、尊重して、楽しもう。自分の要求に自分で応えている、そのすばらしさを感じよう。

 

2014年10月: むだにびっくり

 

この、「今までの自分を軸に考えたら、何もおかしくないし間違ってない。」とか、「だめだだめだって思ってたのは、その『だめ』は、誰かが決めた『だめ』で、実態がないものだなー」という部分。

こういう発想が、もしかしたら、「課題の分離」には、求められるのかな? というふうに、思ったというわけです。

 

それでは、今回はこのあたりで。

 
あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ

 

親愛なる先生へ


なんだか、昨日のお手紙では、幼少時に受けた仕打ちについて、やたらあげつらってたみたいだったりしますが……。


これは、9月11日のお手紙に「『課題の分離』ってのが出来てない」って書いてたのを、なんとか出来るようにしたいからでありまして。

9月10日のお手紙にとりあげた、

厄介な上司から自分を守る方法――ドラ猫アドラ の「大人のアドラー力講座」 | 日刊SPA! | ページ 3

にも、「部下にそんな態度で接する上司なんて、まともに相手しなくていい。心の中で軽蔑しておけば十分だ。」ってあることだし。

なんかちょっと語弊がある言い方かもしれないけど、この「心の中で軽蔑しておけば十分だ。」っていうの、けっこう大事なのかもしれないな、って思ったりするんです。


ではでは。


あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ