伊勢神宮 外宮と高倉山古墳 | ReubenFan

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伊勢神宮/Ise Jingu

外宮の正殿から数百mの神域にある高倉山(117m) 、その頂上に高倉山古墳があります。

観光や参拝ガイドブックにはでていません。多賀宮(江戸期まで高宮)から登る道がありますが、明治以来閉鎖され入山禁止です。 昭和後期でも近所の子供たちは遊びに行けたそうですが、その後、封印。

このエリアには、他にも古墳跡が10か所以上あり、祭祀跡もあったそうです。今も、遷宮では山口祭が行われます。

この古墳の規模は写真のように大きく、天井まで最高4.4mもあります。その石室(玄室)は飛鳥の石舞台のものと同規模で天井には巨石が使われた40m近い円墳です。外宮参道の亀石はここで使われていたものといわれています。

江戸時代には参詣者で大いに賑わい、近くに茶屋や休み所までありました。山の頂上に3mもの巨石を持ち上げて造ってあることから、そのころは、神が創ったもので、アマテラスが隠れたという天岩戸であるといわれていました。

ところが、国家神道を進める明治以降、この場所は立入り禁止になってしまいました。 明治、大正時代には研究者が調査して、古墳であることは認識されていました。

戦後、1962年、フィールドワークから神宮の創始を論じた「アマテラスの誕生」(筑紫申真著)が出版されました。それが大きな物議を醸したこともあり、神宮の歴史はたいへん扱いにくい対象になっていました。
1964年に三重大の歴史研究会が台風で荒れた現地で考古学的な調査を行いました。翌年の手書きの会誌「ふびと24」に報告記事があります。大学サイトのPDFで参照できます。計測的な報告が主で、被葬者や背景の言及は避けられているようです。

・これをみると、玄室は冬至の日の出、日没方向に合っています。開口部は日没方向ですので、冬至の日没時には、玄室内に陽がはいったのでしょう。

 三重大高倉山古墳図

1975年、立ち入りを申請した徴古館、神宮、皇学館大学の関係者に公式許可が与えられました。清掃ならびに保護作業を名目としていますが、三重大卒業生を含む彼らはこの機会を活かし、中の土砂を水で洗うなど、遺物の検出や詳細調査をおこないました。しかし公的な調査報告はされていません。上層部には不都合な内容で、差し控えられたのでしょうか。

2008年の三重県史資料編3章三重の考古史では、信仰世界の意識と事実認識として提起があり、報告がないものの1975年に清掃発掘がおこなわれたことは記載されています。

ところが、驚くべきことに35年もの年月が経過した2010年、伊勢市史が刊行され、その考古編に、40ページにわたってこの調査結果が報告されたのです。写真、図表を含む内容には調査者であった報告者の長年の想いが感じられます(調査された方々は退職されていたと思われます)。 ただし、地方の市史の一部であり学会報告ではないので注目されることもなく、各地の図書館の奥にとどまっています。検索にもでてきません。

 

報告では6世紀後半に築造された特徴ある大型古墳とされ、ヤマト朝廷との関係を示す遺物の写真もあります。構造の比較分析や石材の組成や搬入経路についても述べられています。問題は、被葬者の比定です。 これを造る実力者として、有力豪族で代々外宮の禰宜を命じられた度会氏以外に考えにくいとの考察です。

これだけの規模ですから、ヤマト王権からの技術指導などがあったのではないでしょうか。
磯部氏が度会の名を天皇から受けるのは、711年という記録がありますし、豊受、外宮が確定したのはそのころなのでは。

 

研究者の通説では、外宮はこの古墳より後で祀られたことになり、外宮の創始物語との矛盾が生じてしまいます。単に外宮の問題だけではない神宮創始の問題提起になる可能性もあります。困惑された方もみえたのでしょう。皇学館大学のある教授は、5世紀の度会氏(磯部)神主のものであるとの考えを示しています。それぞれの立場で苦慮されているのかもしれません。John Breen氏もこのことは触れていません。多賀宮(かつて高宮) が登り口にあり、外宮創始以前は、そこからこの古墳を拝したという見方もあります。

(明治政府が高宮を多賀宮に変えてしまったのも、高位にあるという意味が気に入らなかったのでしょう。月夜見宮も同様に変えられています。)

 

今公開しても、学術的研究の対象にはならず、テレビ番組やマスコミがネタにするだけかもしれません。もう半世紀近く、この古墳は放置されているのでしょうか。きっと、このままそっとしておくことが、カミのお望みでもあり、最適解なのでしょう。

 

PS

月夜見宮との関係 外宮と神路通りでつながる月夜見宮は他の神社とは異なり、この古墳を向いています。

神宮司庁は認めないでしょうが、やはり、度会氏が祀っていたという月夜見宮とこの古墳の関係が今も残っているのは、朝廷に翻弄された地元度会氏が後世に残した動かぬ証拠なのでしょう。
 

外宮との関係は興味深いです。

度会氏、そのころは、まだ磯部とか石部とかだったかも、有力な地方豪族だったのでヤマト朝廷とは関係があったようで、越の国などに兵をだしていたみたいです。

高倉山古墳では、朝廷との関係をしめすようなものが見つかっていますので、伊勢神宮が創建されるまえからヤマト王権の支配下にあったと思われます。

このような大規模な構造の構築物ですから、高度な技術を要し、ヤマトからの関与はあったでしょう。重機のない時代、動員した作業者も相当な人数が長期で働かないとこれだけのものはできません。

磯部(度会)氏は、大きな権力をもった豪族だったことがうかがわれます。

律令制で中央からのコントロールが強化される前でしょうから、7世紀には出来ていたのでしょう。

高倉山古墳

度会氏は、高倉山のふもとで、祀りをしていたのでしょう。社があったとすれば、多賀宮(明治時代に高宮から改名された)からこの古墳を拝していたのかもしれません。

ふもとには宮川支流-豊川が流れていましたので、川祓いをおこない、今の外宮のあたりにも社が高倉古墳向きにあった可能性もあります。

さらに先に、月夜見宮がありますが、南面といいわれるその向きは西に振れています。 月読宮も朝廷が神宮で天照をまつる前は、度会氏の宮で、高倉山を向いていたと思われます。

高倉という字も、高位の方が居るという高座であったかもしれません。

月夜見宮、も以前は月読宮でしたが、これも明治時代に変えられました。

古くから変わらぬといわれる神宮は、時代とともに変化し、明治政府によって皇国のためにアレンジされています。

 

朝廷にとっては、邪魔な存在ですから、天照を伊勢に祀るときに、それまでの地元のカミを整理して、天照を中心とする神、ツクヨミに置き換えたのでしょう。しかし明治政府は、皇大神宮を絶対頂点とするため、外宮のほうは、月夜見宮に名前を変えたわけです。

太平洋戦争中は、アジアの国々に天照を祀る神社を建てたわけですから、歴史は繰り返すのでしょう。もっともキリスト教やイスラム教はもっと強引に破壊していったといいます。

 

2020/11