外宮から神路通りを抜けると数分で月夜見宮につきます。
月夜見宮は、土地の農業のカミとして古くより祀られていたのですが、 鎌倉時代1210年に昇格し、外宮別宮になっています。(明治時代までは、月読宮でした)
背景:鎌倉時代に、外宮禰宜の度会氏が、外宮の格上げのため、「神道五部書」などを出して、内宮に対して同格を訴えるなど、外宮まわりの強化を図ったのでは?
町のなかですが、大きな敷地を持ち、巨木が残ります。外宮にとって重要な宮なのでしょう。
月夜見尊、月夜見尊荒御魂が祭神です。
そして、外宮摂社の高河原神社が、右後ろにあります。
こちらの、祭神は月夜見尊御魂。
しかし、式内社としての社名は「川原坐国生神社」で祭神が国生神であるという説があり、
もともと土地の神を祀っていたのを、圧力によって、アマテラス系に替えられたのでしょう。
実は、今まで気がつかなかった大きな発見がありました。外宮の歴史にも関係がありそうです。
後述します。(高倉山古墳との関係)
実は、1964年発行の筑紫申真著(2020年Kindle版)の「日本の神話」では、社殿の写真に月夜見宮と高河原神社が併記されています。
「日本の神話」1964(2020年Kindle版)から借用しました。
しかし、よく見ると、今とはいろいろちがうところがあります。
なんと、驚くことに、屋根の上の鰹木の数がちがうではありませんか。
1964年(戦後?) 9本
2020年(2015年遷宮) 5本
外宮正殿は、9本なのですが、なぜ月夜見宮が9本? 筑摩書房がフェイクしないだろうし。。
写真の間違いでは?石段もちがうし・・・不思議が多いです。しかし、鰹木9本は、外宮だけのはず。
外宮の写真には見えないし、写真があっているとすると、本当は外宮と同じ格だが、だれかに、外宮と同じとは恐れ多い、とわれてその後減らしたとか・・・・??? これも謎。
筑紫申真氏の説では、
度会氏は、朝廷が天照を伊勢に祀る前から、高河原社を祀っていた。古墳時代からとも言われる。
そのころは、まだ宮川の支流が外宮のあたりを流れており、川に沿って祀りをおこなっていた。
今でも、月夜見宮は、水を張った堀が周囲にあります。
そして、外宮より前からあり、こちらが度会氏にとっては本宮であったという説を記しています。
外宮は、朝廷の命令により天照の食事係豊受を祀るため、あとから創ったといいます。
「月夜見宮」は、もとは、「高河原社」であったといわれますが、804年の止由気宮儀式帳では「月読神社」になっているという。 政治的な圧力があったのか、天照の弟神の月讀尊が祭神であるが、もとは、倉稲魂命であったということになります。
別宮に昇格したのは、鎌倉時代。実は、月夜見宮となったのは、なんと明治時代です。内宮別宮が「月読宮」、外宮別宮が「月夜見宮」となりました。これは、明治時代の皇国政府が天照を頂点に全国の神社を整理したことが関係しているらしいです。
おそらく、外宮月見宮は、度会氏の宮としてアマテラスがくる前からあったのでは。内宮別宮の「月読宮」があとにできたと思います。政治的な目的で、神様を入れ替えたり、名前を変えたりいろいろなことがあったのでしょう。
月読宮 内削 6本、月夜見宮 外削 5本 同じ神を祭っているけど、なぜかちがう。
そして、不思議なものが、左側にありました。
これは、「日本の神話」1964(2020年Kindle版)から借用
焼けた(1945年の空襲)大木の下に、神宮では無いと思っていた狛犬というか、キツネが対でおいてあり、なんと、小さな岩がありました。岩は高河原社での本当の神体なのかもしれないです。
なんの説明もないので、よほどのワケ有りではないかと思ってしまいます。
1964年発行の筑紫申真著の日本の神話にも同じものの写真がでていますが、そこには、狛犬のようなものは写っていません。 狛犬(キツネ)は現代的なの演出なのでしょうか。
実は、発見がありました。(高倉山古墳との関係)
この殿社は、他の神宮の社のように南を向いていないのです。
神職の方にきくと、「殿社は、南面しています」とのこと。
でも、ちょっとちがうけど・・と思いスマホで方位を見ると、西にずれている。測ると206度、その線を伸ばすと、外宮があり、さらに高倉山の古墳に(度会氏のものとみられる)ぴったり合う。
決して現代の道路の制約で向きを決めたのではないでしょうから、これも、訳アリかと思ってしまいます。それで、地図をみました。 すると、神路通りからもずれるのですが、真正面に、高倉山古墳があるのです。
度会氏が創始に関係していますので、外宮との関係は強いものがあると思いますが、むしろ、度会氏の祖先の古墳といわれる高倉山古墳をむいています。偶然なのでしょうか。江戸時代の地図でも同じ方向ですから戦災や都市計画の影響ではないでしょう。 当然案内書には書いてないです。
表向きは天照の弟神の月讀尊を祀りながら、実は・・・・。
パワースポットといわれる深い奥には、中央権力に抑えられた地方豪族の想いが。
内宮外宮の戦いが明治まで続いたのも深いわけがありそうです。
外宮では、土宮が古代のカミ祀りと同じ東を向き、外宮は昔は、高倉山古墳を向いていたといわれます。
江戸期のものと思われる下図は写実ではないものの、神路通も今とはちがうようです。
PS
古い時代は正門は、神路通りの月夜見宮側(北御門)にあったそうです。(今は駐車場)
どう見ても、今の北御門は、外宮正殿がかつて高倉山を向いていたとすれば納得できる位置にあります。
下の外宮正殿の配置を見ますと、今の入り口の位置は不自然に見えます。
そして、山田(伊勢市)に明治30年に鉄道の駅ができてから、駅からのアクセスを重視して道路や門の位置が変わってきたのではないでしょうか。
1772年(明和9)の地図です。まさに外宮、高倉山と相対しています。
そして、1831年の地図では、概念図風ですが、まさに
月読宮(月夜見宮)と高倉山古墳が相対しています。
17世紀
今のGoogle Mapでは・・・
こう見ると、今でも月夜見宮は大きいです。かつては、高河原と呼ばれたこの地はもっと広大でこちらがメインだったのかもしれません。(筑紫氏の「日本の神話」)
高倉山のふもとを流れる宮川支流では、度会氏がカミ祀りをしていたのでしょうか。
やはり、朝廷が天照を持ってくる前からの度会氏のカミ祀りが、時代を超えて、中央の圧力から隠れながらで、今も残っているな、と感じます。
そして、高河原という地名。これは宮川とつながる。
宮川は、かつて「豊受宮祓川」といわれ外宮とのつながりがあります。
外宮を宮川の支流が流れ、船で来ることができたそうです。
今でも三ツ石があり、川原祓所があったとされます。
高河原には、神宮を管理するHQである神宮司がありましたが、川の氾濫に困り、宮川対岸の現小俣町離宮院に移設されました。小俣町には、新河原という地名が残るのも関係があるかもしれません。
-今も月夜見宮の周りは、堀があり、水に囲まれています。このあたりが、川原であったことを示しているようです。市内はほとんど暗渠になっていますが、今も水の流れがあります。-
なにげなくあまり意識しなかった月夜見宮、高河原神社ですが、少し調べるといろいろな歴史が見えてきます。 不思議なこともいろいろあります。さらに、筑紫申真氏の「日本の神話」によれば、宮川上流の瀧原宮の創始にも関係しているといわれます。
神宮司HQがなぜか内宮の近くでなく、外宮の近く、高河原にあったというのもワケがあったのでしょう。
朝廷が天照のために作った瀧原宮と地方神を祀る外宮度会氏が関係しているという興味深い宿題ができました。宮川上流の瀧原宮手前の多岐原神社(内宮摂社)も度会氏が祀っていたのでは、とも。
確かに、朝廷が関与してくるまでは、伊勢志摩は、土地の有力豪族 磯部氏のテリトリですし、そこから度会氏も宇治土公氏もでているわけです。
そこに皇祖神を持ってきた天武、持統、その後、皇大神宮として政治的な位置づけを強化した朝廷、皇国を復活させた明治時代、そして政治から切り離したGHQ。
その中で生き続けてきたのは、実は、縄文期からの原始信仰-伊勢のカミかもしれません。
伊勢神宮125社、本当に興味深いものがあります。神の名前まで変えてしまう政治の力の下に、人々が生きてきた証が隠れているようです。きっと今も同じことがおきているのでしょう。
LastPS20201107