ばぁとのお別れ | REGULAR BONUS

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31歳のダウナーな人による、 日々のREGULAR BONUSな瞬間…というかヤだなぁと思った瞬間とかを綴るブログ。

お久しぶりです、Restです。

まだ研修中で人数には入っていませんが、シフト自体は普通に入っている為、

16時~24時半 → 8時~16時半 → 0時~8時半

と言った地獄の3連勤をしたりしてるので、なかなか更新する時間が無かった次第です。

久々の更新ですが、通常回ではありません。

 

 

去る4月3日、実家の祖母が亡くなりました。

享年95歳、死因は老衰だったので大往生だったと思います。

 

4月3日。

この日、自分は初出勤でした。

会社全体の朝礼に参加し、新入社員の挨拶をしました。

あいさつ回りや、仕事を見るのが中心でこれといったことはしてませんが、

とにかく、1年振りに働くという事もあり、異常に疲れてました。

昼間、親父からLINEで、

「 ばあちゃんの調子が悪く入院する、ちょっとヤバいかも 」 と送られてきて、

色々考える事もあり、余計疲れていたのもあります。

 

21時過ぎでしょうか。

外食して家でテレビを見ていると、LINEが来て、亡くなったことを知りました。

昼間に入院すると来て、まさかその日のうちに亡くなるとは思わなかったので、

悲しいというより、ただただ呆然とするしかない状況でした。

 

慌てて親父に電話するも、

「 おう、どうした 」 と言われ、いやどうしたじゃないがってなりましたね。

今思えば、親父もどうしていいか分からなかったんだと思います。

仕事始まったばかりだし、慌ててこなくてもいいと言われましたが、

彼女改め嫁に行きなよと言われて、地元へ向かいました。

うちには父方の祖父はいなかったので、本当の家族が亡くなるのはこれが初めてでした。

思ってたよりは落ち着いているなと思ったのですが、

忘れ物4つくらいしてて、全然落ち着いてねぇなってなりましたね。

 

結局地元へは23時頃着いたので、この日は祖母との対面は無し。

そのままお袋の実家で親父と状況を聴き、実家で寝ました。

 

 

翌4日。

葬儀場で打ち合わせや食事。

ばぁの遺体と対面したのもこの時が初めてでした。

母方の祖父、母方の祖母の時は遺体を見た段階では泣きませんでしたが、

今回ばかりはダメでした。

亡骸に話しかけるわけでもなく、ただただ泣きました。

 

親父の弟一家とも合流。

正式な遺族控え室が空いた為、そちらへ移動。

一部の親戚もこの時点でばぁに会いに来てくれました。

親父の姉の子供(つまり従姉妹)も夜来ましたが、

正月にうちの実家に来なかったことを後悔したそうです。

みんな、そんなもんですよね。

親戚随一のしゃべくっちょ、口の回る人なんですが、その人の涙は撃たれるものがありました。

 

 

 

4月5日、通夜の日。

うちの実家があまりにも惨状だった為、

手袋さんにはわざと通夜の日に来てもらうよう調整してもらいました。

ばぁの最期は正直やや気の毒でして。

施設には入らずずっと実家で過ごしていましたが、

認知症が結構進行し、話が高ループする、火をかけてても忘れて焦がすと言った状態。

親父も朝から晩まで仕事なので、総菜を買って渡してたみたいですが、

基本的には自分でやってくれと言った感じだったようです。

なので居間も最低限しか入らなかったようなので、食いかけのものが置かれていたり、

ただでさえ物が片付けられない家系なのに体が弱ってきてたので散らかり放題。

まぁそんなこともあって、俺はいいけど手袋さんはとてもじゃないけど

泊められる状態に無い為、こうなりました。

 

俺が知ってる親戚は殆ど来ていたと思います。

決していい形ではないですが、親戚に手袋さんと入籍したことを報告出来ました。

 

毎回通夜の流れって忘れるんですが、

受付、通夜のお経、受付継続でご遺体との対面…的な感じなんですね。

改めてばぁに話しかけたりしましたが…なんかもう言葉になりませんでした。

 

通夜振る舞いは無かったですが、仕出し弁当を控え室で食いました。

 

俺と手袋さんは控え室で一泊。

マッサージチェアがあったのでやってみましたが、なかなかリアルな動き。

悶え苦しむ手袋さんを見ながらひっくり返って笑ってました。

式場で腹抱えて爆笑してるのもどうかと思いますが、

まぁあの人もしっとりしたの嫌いだからいいんじゃないでしょうか。自己肯定。

 

 

4月6日。葬儀の日。

朝食が出たのですが、とにかく量が多くて腹くっちゃくなりました。

 

よく覚えていませんが、葬儀と三日法要だったかを同時に行う為、

1時間半の長丁場でした。

色んな事を思い出してました。

小さい頃は畑の手伝いしたなとか、

三色ミンツよく買ってもらってたなとか、

小学校の修学旅行の前日に早く寝ろってうるさいからキレて早く風呂入って

結果思惑通りになってしまったなとか。

とにかく、この時間が終わらないでくれって思ってました。

棺桶に花を入れる瞬間が本当に辛くて。

どの葬式もそこで泣いたので、あの瞬間が来てほしくないって思っていました。

 

花を入れ、

ばぁがヤバくなり始めた時に思う所あって二人で撮った写真を入れた時が一番辛かった。

間に合わなかったなぁ…って。

結婚したのは多分親伝えで知ってはいたけど、見せられなかったなぁ…。

俺が30超えたって、「んな(お前)が一番かわいい」と言ってくれたばぁへ、

自分の口から報告できなかったのは本当に心残りで。

逆に考えれば、籍入れるまで待ってくれたと思いたいですが。

 

自分もつらかったですが、

親父が声出して泣いてたのがまた辛かったです。

親父が俺と同じ泣き方してたのが、親子だなって思いましたね。

 

うちらは霊柩車の後ろのマイクロバスに乗り、火葬場へ。

本当に最後のお別れをしました。

 

一度式場へ戻り、食事。

今までの食事に輪をかけて量が多かった為、残して持ち帰り。

この時、親父の姉貴の子供と、

いつぞや俺の友達と飲んだ時の話(RB1168/12年8月掲載)をしたところ、

まるで覚えてなかったようです。

おそらく、泥酔して記憶を飛ばしたというより、単純に年月の経過で忘れたようです。

「 その節はごめんね、また飲もうねと伝えて 」 だそうです。

誰だか覚えてないのに、強い。

 

 

その後、再びバスに乗り火葬場へ行き、お骨拾い。

母方の祖父、祖母の時と比べてどうだったか正直覚えていませんが、

93歳にしてはしっかりした骨だったのではないでしょうか。

バスで戻り、撤収。

ばぁがいなくなった以上、

ここまで顔馴染みの親戚が揃う事はもうないかもなーと少し寂しく思いましたね。

 

お寺へ行き、本来の地区のお坊さんにお経を読んでもらう。

なんか、お焼香のタイミングを間違えたようで、2回やりました。

「 ねら、何回焼香すらんでぇ 」と言われそうです。

 

遺骨はお寺で預かってもらい、墓へ行く。

「 これ、どうやって開けらんでぇ… 」 という親父の疑問。

ばぁの旦那は俺が生まれる前後くらいで既に離婚しており、

うちの墓には入っていない為、多分ばぁの親が入って以来、

全く墓を開けていないとのこと。

まぁ不幸が少なかった(ないとは言っていない)のは幸いですが、

あまりにも昔ながらの墓である為、遺骨が入るのか一抹の不安を残しつつ後にしました。

 

この日はお袋の実家で一泊。

翌日、新潟のアパートへ帰りました。

 

 

 

うちのばぁは、本当に昭和一桁代の人を絵にかいたような人で、

今では放送禁止用語となっている言葉はばんばん喋るわ、

立小便はするわ、

典型的な内弁慶で、親父と全く一緒の性格なのでしょっちゅう喧嘩するわ、

本当に男勝りと言った感じでした。

デリカシーもへったくれも無い時代に生きた人と言ったところでしょう。

そして、93年間、一切あの家から出た事がないという、

非常に珍しいケースだったと思います。

国鉄の線路を作る為、現在の場所に移り、

修理はしてますがずっとその家に住み続けている為、

引っ越しが本当に一度もないのです。

経緯は知りませんが、ばぁは婿を取ったらしいので、そういう事なんですね。

中越地震に耐え、この100数年間の毎年の大雪にも耐えたこの家は、

ばぁという守り神がいなくなった今、

床の間の床が抜け落ちそうになっています。

本当に限界を迎え、どうしようか頭を抱えているみたいです。親父が。

 

そんな短気なばぁですが、俺には優しく、30超えても

「 お前が一番かわいい 」 と言ってくれていました。

子供の頃はお菓子を買ってくれて、特にコリスだかどっかの

三色ミンツというおやつが好物でした。

なーんにも孝行出来てないですが、

実家帰った時だけですが、最後の方まで晩酌の相手出来ていたのは

酒好きのばぁにとっては孝行だったのかなーと。

 

ただ、自分の口から結婚したと伝えられなかったのは本当に残念でした。

ひ孫も見せたかったし、どっか連れて行きたかったというのも

ぼんやりとは思っていました。

今更言っても遅いんですが、

何も思って無い孫だと思われてもそれはそれで感あるので。

いつかこういう日が来るとは思っていましたが、こんなに早いとは思いませんでした。

93歳にもなってこんなに早いも何もないと思いますが、

あの人は100近くまで生きるんだろうなと、どこかで勝手に思ってたので、

言い方悪いですがあっさり亡くなってしまったなと、どこかで思ってしまいます。

まぁ認知症も大分進んでましたし、

殆ど苦しむ素振りなくその日のうちに逝ってしまったのは、

ある意味良かったのかなとも思います。

 

 

今まで本当にありがとう。

そして、本当にお疲れ様でした。

もうあっちの方が友達も多いだろうし、ばぁの姉貴やばぁの長女ともやっと会えるね。

あんまカリカリせんと、ゆっくりやってください。 そしてたまには思い出してください。