ミュウは、何も言わない。
俺も、何も言わない。
ただ、見つめ合う。


アルコールのせいなのか、少し海んだ漆黒の瞳に、俺が居た。




「おっさんみたいな女興味ないんでしょ?」
「興味なんてねぇけど、すっげ~そそられる」
「何よそれ」


しばらく無言で睨みつけられて、彼女は微かに微笑んだ。まるでそうする事が自然なように、俺の唇に彼女の細い指が触れる。
ス~ッとなぞられて、口の中に差し込まれた人差し指は、ひんやりと冷たくて、静かに口内を侵していく。丁寧にそのしなやかな指を舐めながら、視線だけは絡み合ったまま。瞬きする事さえ躊躇われるような、濃密な時間。俺の唾液が、その指から肘を伝って、彼女の服を汚す。


―――やっべ、止まんねー…


左手で俺の口内を侵す彼女の右手首を掴み、乱暴にソファに押し付け。右手で彼女の顎を俺の方へと角度を上げ、ゆっくりと顔を近づける。半開きになった彼女の唇に、自分のそれが触れようとした、その瞬間。


――――――Prrr…Prrr…Prrr…Prrr…


場違いな携帯の着信音が、静かな部屋に鳴り響いた。緊張の糸は、いとも簡単に切れて。


「悪りぃ…」
「……大丈夫」


ミュウは、そそくさとソファから立ち上がると、携帯に出る。


「もしもし……」


顔が熱い。俺、何しようとしてた?ミュウの横顔が綺麗で。ミュウにあんな顔をさせられる男が居るって事実に、焦りにも似た感情が溢れ出して。過去を見つめるミュウに、目の前に居る俺を意識させたくて、気付いたら…


「えっ?……やだ、もうこんな時間?ゴメン……うん………」


少し慌てた様子で、テレビの上の置時計を確認したかと思うと、机の下を覗き込んだり、ローボードの引き出しを片っ端から開けてゴソゴソと何かを探し始めた。


「……もー、笑わないでよ。今必至に探してるんだから………」


引き出しを開けては閉めて。閉めては開けて。一体何探してんだ?


―――面白れぇ…


電話の相手に必死に言い訳してる姿が何だか可愛くって。ソファでくつろいだまま、クスクスと笑ってたら、ミュウが俺を睨む。


―――全然、怖くねぇし。


最後の引き出しを開けた彼女の表情がパッと明るくなる。何が出てくるのかと思えば、それはテレビのリモコンで。彼女は、慌てて右上の赤いボタンを押す。真っ暗なままのテレビ。

何度も何度もリモコンを振りながら赤いボタンを押し続ける姿に、半ば呆れて、ペシッと軽く後頭部を叩く。振り返って、ふくれっ面で俺を見上げるミュウに「ば~か」と声を出さずに俺は笑って。彼女に代って、主電源を入れてやる。途端に、ブォンと音がして騒々しい映像が映し出された。


「……えっと、何チャンネルだっけ?」


そして。切り替わった映像には、あまりにも見慣れた顔ぶれで。思わず噴き出しそうになる。ミュウは、茫然とテレビの中の俺達を見て、固まっていた。

 この時の俺は、ミュウの友達が熱狂的な俺らルナのファンで。レギュラー番組の放送日に『ちゃんと見てる?』みたいな、ありがちな日常のヒトコマだって、勝手に思い込んでた。
 電話の相手が誰か?なんて気にも留めてなかったし。むしろ、俺の仕事してる姿を知って欲しい…と、見ず知らずの電話相手に感謝さえしてたんだ。



ペタしてね

ローソンのレジ袋をひっさげて、自分の部屋のワンフロア下の階でエレベータを降りる。名前しか知らない彼女の部屋の扉の前に立ち、インターホンを押す。パタパタと人が近づいてくる気配がして、ガチャガチャとチェーンを外す音がした後、ゆっくりと扉が開いて、ミュウの笑顔とルナに出迎えられた。


「お帰り」
「ドウモ」


当り前のように、中へと促されて、素直にそれに従う。靴を脱ぎながら、コンビニ袋を差し出し、ルナを抱き上げる。それを受け取ったミュウは、中を覗き込んでプッ…と吹き出した。


「なんだよ?」
「すごい量……野球部の合宿ができそう」
「しゃ~ね~じゃん…んなモン買った事ねぇし」


不貞腐れたように、憎まれ口を叩いて、ミュウより先にリビングへと向かう。


「海」
「あ?」
「ありがと」
「どーいたしまして」


背中から届いた彼女の言葉に、思わず顔が緩む。
つぶらな瞳で俺を見つめるルナを見ながら、こんな顔、絶対メンバーには見せられねぇな…と心の中で苦笑する。
リビング手前のキッチンには、ステンレス製の鍋が火にかけられていて。コトコトと心地よい音とゆらゆらと換気扇へと吸い込まれていく湯気。慣れた手つきで、俺の買ってきたルーを鍋に入れる姿を何となく見つめていると、ふいに顔をあげたミュウが困ったように笑って、「気が散るからリビングで待ってて」と追い払われた。
大人しく、言われた通りにソファに落ち着いて、グルリと室内を見渡す。リビングのテーブルには、桜の花びらがゆるやかに舞うノートパソコンが置かれていて。傍らには、大量のスクラップブックと付箋の貼られた分厚い辞書。俺の部屋と同じ間取りのこの部屋は、家具の好みも色合いも全く違うのだけれど、とても落ち着く。


―――それにしたって…


ここの家賃、結構高いよな?普通のOLが1人で暮らすには贅沢過ぎるし、まず無理だろう。それなりの稼ぎがあるのか?でも働いてるようには見えねーし。離婚したっていう元旦那からの慰謝料か?何にせよ、俺は彼女の事を何も知らないんだ…と実感する。


「うわっっ」


突然、首筋に冷たい刺激が与えられ、思わず首をすくめる。


「ふふふ、ビックリした?」


振り返ると、とても年上とは思えないような無邪気な笑顔で俺を見下ろすミュウが居て。冷えた缶ビールを手渡される。


「飲む?」
「あんがと」
「もう少し煮込んだ方が美味しくなるから、カンパイしよ」
「なにに?」
「ん…はじめてのおつかいに?」


当たり前のように、俺の横に座った彼女の肩が、微かに触れる。プシュッ…と音をたてて缶ビールのフタを開け、「カンパ~イ♪」と俺の手の中にある缶ビールに、自分のそれを軽くぶつけると。まだフタさえ開けていない俺の事など、お構いなしにゴクリと喉に流し込む。


「ぷは~~っ、うまい!」
「……おっさんみてぇ」


横目でそんな彼女を見ながら、思わず零れた言葉に、ジロリと睨まれる。あまりにも自由奔放な…というより、着飾らない態度が新鮮で。込み上げてくる笑いをこらえることもせずに、俺は笑っていた。


「ちょっと、何笑ってんの?失礼でしょ」


感じ悪い…と不貞腐れながら、グビグビと缶ビールを流し込む彼女は、今まで付き合ってきたどの女よりも、心地よくて。媚びない態度に、自分がアイドルだってことを忘れる。なんだか俺らしい…そんな気がした。


「ごめんごめん…ミュウって、男いないでしょ?」
「生意気。私の魅力に気づかない世の中の男が馬鹿なのよ」
「へぇ、男運もないんだ」


俺はケラケラと笑いながらも、どこかで安堵している自分を誤魔化すように、缶ビールを口に含むと。独特の苦さが口に広がった。


「男運………ないなぁ。だから、旦那にも逃げられたのかも」
「何?逃げられちゃったの?」
「他に女作って出て行った。しかも相手の女、私の親友だったりして」
「マジで?」
「マジ。まぁ、当然っちゃー当然だけど」
「どーゆーこと?」
「旦那の為だけに生きるって、ムズカシイよね」


淋しげなミュウの横顔に、チクリと胸が痛む。きっと今でも好きなのだろう。必死に忘れなくっちゃと言い聞かせているようで。無理して作った笑顔は、哀しく映る。


「そんな必要ねぇじゃん」
「結婚と恋愛は、やっぱ違うよ……ふふっ」
「意味分かんねぇ」
「あのね、世の中の大半の男は、自分より弱い女が好きなの」
「何だそれ?」
「少なくとも、ヒロは…旦那はそうだった。でも私は、彼にとってそうゆう女で居られなかったし。私の親友は、彼が居ないと生きていけなかった。」


―――つ~か、馬鹿じゃねぇの?その男…


俺の隣で、痛々しい過去を笑って話す彼女は、紛れもなく傷ついていて。自らその傷をえぐるように、自分を否定して。それでも決して、旦那の事も親友の事も悪く言わない、彼女の横顔はとてもキレイだった。


「ははっ…ひくよね?こんな話」
「ねぇ……」
「ん~?」
「さっきから俺の事誘ってる?」
「はい?」


キョトンとした顔して、俺を見つめる彼女をジワリジワリとソファの隅へと追い詰める。缶ビールをテーブルに置き、静かに彼女の手の中にあるそれも取り上げ、並べ置く。不必要な程、顔を近づけて。ミュウの瞳を捕えた。ふっくらとした唇を、そっと親指でなぞりながら、その反応を確かめる。




ミュウは、何も言わない。
俺も、何も言わない。
ただ、見つめ合う。




アルコールのせいなのか、少し海んだ漆黒の瞳に、俺が居た。




ペタしてね

ねぇ、海?
 どーして大人になると、恋愛に臆病になっちゃうのかな?

 

ねぇ、海?
 どーして大人になると、傷つくことから逃げ出しちゃうのかな?


ねぇ、海?
 どーして私は、こんなにも弱い人間なのかな?


ねぇ、海?
 私と出逢った事、後悔してる?






「何か良い事でもあった?」


レギュラー番組の収録を終え、楽屋で帰り支度を整えていると。前髪を弄りながらニヤリと含みのある笑みを浮かべた海と、鏡越しに目が合った。
偶然再会した女と寝た…だなんてわざわざ報告する気なんてなかったし。必要もないわけで。
抱いた女の数を自慢する程、ガキでもねぇし。相変わらずの鋭い観察力が、少々恨めしい。


「なんで?」
「別に?ただ、今日はやけにテンション高かったからさ」
「そうか?」
「女?」


海の質問のようで断定的な言葉に、どうやって誤魔化そうか悩んでいると、それを知ってか知らずか、ふふふ…と笑いながら、ハルが余計な事を口にする。


「キレイな子だったよね~」
「なに?ハルも知ってんの?」
「たまたま…ね、直クン?」
「たまたま…ねぇ」


ハルと視線を合わせて、意味有り気に微笑まれ。何とも居心地の悪い状況に置かれた俺は、黙秘権を行使してささやかな抵抗を試みる。


―――たまたまだっつ~の…


酒の勢いってのもあったし、あんな風に泣かれて、それでも気丈に振る舞う彼女をほっとけなかった。別に、彼女を「好きだから」とか「愛してる」とか、そんな聖人君主みたいな事言うつもりもないし。尤もらしい理由をつけて、昨日の夜の事を正当化するつもりもねぇ。

たまたま、再会した旧友が。
たまたま、男と別れてて。
たまたま、誰かに甘えたい夜だったのも。
たまたま、そこに居合わせたのが俺だったのも。

単なる偶然で。当然の流れといえば、当然。


―――なのに、なんで俺浮かれてんだ?


彼女の温かなぬくもりと。俺だけに向けられた彼女の優しい笑顔が、間違いなく俺のテンションをあげていて。忘れていたハズの彼女との思い出が次々と溢れ出す。


「俺、先に帰るわ」


その声にハッとして、部屋の中を見渡すと、俺以外のメンバーは既に着替え終わっていて。
ハルと一緒になって俺をからかっていたはずの海は、サングラスをかけてソファから立ち上がる。


「なに?海クン、…もう新しい彼女見つけたの?」
「ばーか、そんなんじゃねぇよ」


ハルの言葉を、笑顔で流して。海は楽屋の扉付近まで歩いて行き、ドアノブに手をかけ、ふと俺の方に振り返ると、


「直クン、結構マジだったりして」
「なっ…バカ言ってんじゃ…」
「まっ、いーや。おつかれ!」


仕事用のアイドルスマイルをふりまいて、海が部屋を出て行く。


「ははっ…何言ってんだか。なぁ?」


白々しく笑って、海の言葉を否定する俺を、ハルは呆れたように見つめていた。




ペタしてね


少し照れたように笑って部屋を出て行った年下の男の子を玄関先で見送って。リビングに戻ると、タイミングよく携帯電話が鳴りだして。鞄の中に入れっぱなしだった事を思い出し、慌てて取り出すと見知らぬ番号が点滅していた。


「……もしもし?」
『ユズ?』


耳に届いたのは、今朝まで一緒だった友達の声。こちらの様子を伺うような声音に、やっぱり心配症だなぁ…と思わず笑ってしまう。たった1回セックスしたからって、勘違いするほど子供じゃない。


「ふふ…誰かと思った」
『……今夜、家にいる?』
「今夜?」
『おまえん家、テレビある?』
「失礼な…滅多に見ないけど、テレビくらいあるわ」


笑って答えると、今夜9時から8チャンネルを見ろ…とナオの笑い声。


「了解」
『…あんま無理して笑うなよ』


軽い口調で、私を気遣うナオはやっぱり心配症で、優しい人だ。素直にその言葉に感謝の気持ちを伝えると、少し照れたように、ナオはまた笑った。


『そろそろ仕事戻るから…またな』
「ん…頑張って」


静かに電話を切って、シンと静まり返ったリビングで独り。何気なく、さっきまで海が気持ちよさそうに眠っていたソファに横たわると、微かに彼の香水の匂いが鼻孔を擽って。
ふと、我に返る。




―――何やってんだろ、私。




年甲斐もなく、はしゃいでいる自分を、褪めた目で客観視しているもう一人の私。偶然再会した学生時代の友人に勢いで抱かれて、知り合ったばかりの年下の男の子を部屋に連れ込んで。
気づけば、好意を持たれるように、女の武器を使ってる。隙を作って、強がってるフリした弱みを見せて。私には、愛される価値なんて全くないのに。愛される価値有る女のように振る舞って。カワイソウナ女だって馬鹿にされないように。必死な私は、滑稽すぎて笑い飛ばす事すらできない。
パタパタと駆け寄ってきたルナが、ペロペロと私の頬を舐めてくれる。きっと、無条件で私を愛してくれるのは、この子だけだ。


独りで居る事がツライんじゃない。

私は、独りだって不特定多数の他人から同情されるのが怖いだけなんだ。




ペタしてね

ふわふわとした、まるで天使の羽に包まれてるような。まっ、そんなキャラじゃねーけど、実際そう感じたのは事実。とにかく幸福感に満たされていて、いつまでもこの柔らかで優しい感覚に抱きしめられていたい……


「……み?」


どこか遠くで名前を呼ばれたような気がして。ゆっくりとまどろみから、現実へと意識が引き戻された。


「……うーみ?」


手の甲で瞼をこすりながら、重たい瞼を何とか開けると、そこには穏やかなミュウの笑顔があった。
一瞬、ココがどこで、自分がダレなのかさえ分からなくなる程、その笑顔はキレイで。むしろ、そんな事どーでもいい…と思ってしまうほど、俺はミュウに見惚れていた。


「海?」


不思議そうなカオして、覗き込まれる。瞬間、ドキリとして、いつもの冷めた言葉が口をついて出る。


「…呼び捨てかよ」
「かわいくない」


軽く人指し指で、デコピンされて。俺は、苦笑するしかなかった。


「イテーよ」


ゆっくりと身体を起こして、ようやくミュウの部屋で眠ってしまった事を思い出す。


「……はよ」
「おはよ♪はい、約束のコーヒー」


そっと、テーブルに置かれたマグカップからは、ゆらゆら湯気がたっていて。コーヒー独特の苦い香りが漂っている。


「俺、寝てた?」


何とも間抜けな質問に、ミュウは笑って。


「随分気持ち良さそうに」
「わり……」
「アイドルって、体力勝負なのね?」


ワンッ!とシッポを振りながら、ルナが俺の膝に飛び乗ってくる。小さな小さな頭を撫でながら、マグカップに手をのばす。彼女の淹れてくれたコーヒーは、苦すぎず熱すぎず、丁度良い濃さで、なんだかすごくホッとする味がした。


「ねぇ~、ミュ~~?」
「ん~~?」
「今夜、カレー食いてぇ」


自然と口から出た言葉。出逢ったばかりの彼女に、心を許しきってる自分が可笑しくて。どんな関係?と問われても説明のしようがない程、お互いの事なんて何も知らないのに。一緒の時間を過ごす事は、しごく自然な事のように思えた。


「じゃあ、悪いけど帰りにルー買ってきて」
「それってコンビニに売ってんの?」
「ふふっ…世間知らず」
「んなもん、買ったことね~し」
「はじめてのおつかいだ」
「うっせ~」
「一人でおつかいできるかな~?」
「バカにすんなよ」


楽しそうに笑うミュウを見て、来て良かったと思う。エレベータに乗り込んで、気付いたら8階のボタンを押してた。


なんだろう、もう一度会ってみたかった。
なぜだろう、もう一度会いたかったんだ。




「そろそろ仕事行くわ」


空になったマグカップをミュウに手渡すと、受け取りながらミュウはポンッと俺の背中をたたいた。


「しっかり稼いでこいよ」
「ハイハイ」
「ハイは1回!」
「はーい」


当たり前のように、ルナと一緒に玄関までついてきて見送られる。


「いってらっしゃい」
「ん…イッテキマス」


笑顔で手を振るミュウと、シッポを振ってくれるルナに別れを告げて、俺は801号室を後にした。エレベーターの横にある階段を、軽やかな足取りで駆け上がる。こんなのも悪くねぇ。こんなに晴れ晴れとした気分は本当に久しぶりだった。………はずなのに。




――――――……最悪


部屋の扉の前で蹲っている女に気付き、溜息が零れた。一気に表情が冷めていくのが、自分でもよく分かる。

「なにしてんの?」

ゆっくりと顔をあげた彼女は、何度か抱いた事のある、ただそれだけの女。瞳に涙を浮かべていて。まるでドラマの中のヒロインのように、切羽詰った表情で、俺に抱きついてきた。


「海…会いたかったよ」


―――面倒臭せぇ…


「悪いけど、これから仕事」


冷めた口調で、俺にしがみつく華奢な腕を解き、背中を向けると、今度は背中から抱きつかれる。


「やっぱり好きなの…海じゃなきゃダメなの…」
「あのさ…そうゆうのウザイんだけど」
「……海」
「帰ってくんない?」


俺は、振り返る事さえせずに、自分の部屋に1人身体を滑り込ませた。さっきまでの穏やかな感情が、ギラギラとした苛立ちに侵食されていく。やりようのない不安定な場所で、出口の見えない闇の中に放りこまれたような。ザワザワとした落ちつかない気分に吐き気がする。モノクロのリアル。笑顔という無表情をはりつけて、見知らぬ他人の為に理想を演じ続けるエゴイスティックな世界が、俺の全てだった――――――。



ペタしてね


―――相当、弱ってんな私……


熱い熱いシャワーを浴びながら、昨日の夜の事を思い出す。久しぶりに会った学生時代のトモダチとヤっちゃうなんて、どうかしてる。胸元に残された紅い痕は、どんなにこすっても消えるハズもなくて。淋しさを紛らわす為に、男に抱かれる…なんて、なんだか惨め過ぎて笑ってしまう。大きなバスタオルで、濡れた身体を拭きながら鏡に映った27才の自分を見つめる。



『溝口サンは?』



もう吹っ切ったハズの男の名前を聞いただけで、動揺してしまう私は、これから1人で生きていけるのだろうか。
ふぅっ…と溜息が零れたところで、ピンポーンとチャイムが鳴った。ドアチェーンをかけたまま、ゆっくりと扉を開けると、そこには昨日知り合った男の子。確か、アイドルとか言ってたっけ?何か、昨日からアイドル君に縁があるなー…なんてどうでもいい事を考えてると、


「ドウモ」
「…どうも」
「……美味いコーヒー飲みに来たんだけど」


少し躊躇いがちに、けれどそれを悟られないような強気な物言いがなんだかかわいくて、私は、ドアチェーンを外して扉を開きなおした。


「いらっしゃい♪……ん?入らないの?」
「……その格好はマズイでしょ」


視線を逸らしたまま、中に入って来ようとしない彼の言葉に、自分が風呂上りだった事を思い出す。慌てて、脱衣所に逃げ込んだ私は、そっと顔だけ覗かせて「奥のリビングで待ってて」と声をかけた。ケラケラとお腹を抱えて笑いながら、スタスタと廊下を通り過ぎて行く足音。……笑いすぎだろ、とココロの中で、無遠慮な笑い声にツッコミを入れつつも、なんだかその明るい笑い声につられて、私は久々に笑った気がした。色気も何もない、部屋着姿で頭を拭きながらリビングに戻ると、彼は楽しそうにうちのダックスとじゃれ合っていた。


「ねぇ、コイツ何て名前?」
「ルナ」
「え?」
「満月の夜に、マンションの前に捨てられてたの」
「…ふうん」


何だか意味深に、ニヤリと口の端だけあげて笑った彼は、ソファの背もたれに腕を組んで、私を見つめる。大きな瞳。妖艶な唇。キレイに整った顔。色気のある表情。とても年下とは思えない落ち着いた雰囲気に、何だか飲み込まれてしまいそうだ。


「ねぇ、時間大丈夫なの?」
「何が?」
「今、10時よ。仕事は?」
「今まで仕事だったの。5時間後には、また仕事デス」
「へぇ~~アイドルって大変なんだ」
「そっ、アイドルはアイドルなりに大変だよな~~ソラ♪」


無邪気な笑顔で、ルナを抱き上げる。いつの間にこんなに懐いたんだ?という位、嬉しそうにシッポを振って、彼の顔をペロペロと舐めていて。くすぐったそうに笑う彼は、悪い子じゃないんだろうなぁ…なんて思う。


「お腹空いてる?」
「ん~~ちょっと」
「コーヒーの前に、ゴハン作ったげようか?」
「マジ?料理できんの?」
「いらないならいいけど」
「うそうそ。食べたい!作ってよ」
「嫌いなものとかある?」
「ありませーん」
「ふふ…ちょっと待ってて」


キッチンに向かう私についてくる彼。冷蔵庫を開けて、適当に材料と取り出し、料理を始めると。ルナを抱いたまま、楽しそうに私の行動を伺ってる。


「ねぇ、柚木美夕さん?」
「なぁに?結城海クン?」
「エライエライ。ちゃんと、俺の名前覚えてんじゃん」
「昨日の今日で忘れるわけないでしょ?」
「ミュウは、テレビとか観ない人?」
「もう呼び捨て?」
「いいじゃん、同じマンションに住んでんだし」
「どんな理由よ、それ」
「説得力あるだろ?」


まるで前からの知り合いのように、自然と会話が進んで行く。こんな風に日常の中で、素のままの状態で会話するのなんてどれくらいぶりだろう。昨日の朝の他人を寄せ付けない刺々しい雰囲気は、どこにもなくて。


―――なんかラクチン……


他愛もない言葉を重ねて、何も考えずにする会話って…


「なに笑ってんの?」
「へ?」
「なんか、ミュウ楽しそう」
「楽しそう…?」


言われて初めて気がついた。この部屋で、笑ったのなんてどれ位ぶりだろう?たいして気に留める様子もなく、相変わらず楽しそうにルナとじゃれ合ってる海の言葉は、静かに静かに心に響いた。




出逢うべきではなかったのかもしれない。
そんな風に、目の前の彼を想って涙を流すなんて、この時の私は思ってもみなかった。




ペタしてね


カーテンの隙間から差し込んでくる朝の光に、アルコールの残った瞼をゆっくりと開く。見慣れた天井。肩口にある慣れない重みと痺れた感覚に、昨日の夜の記憶がやけにリアルに思い出される。


俺にぴったりと寄り添うように、まるで捨て猫のように丸くなって眠る彼女を、俺はひどく乱暴に抱く事しかできなかった。それは、彼女が望んだ事でもあったし?つーか、優しく抱ける程余裕なんてなかったって方が正しい。




『もっと鳴けよ』


乱れたシーツが波打つベッドで、四つん這いになったユズを背中から抱きしめるように突き上げて、耳元でわざと掠れさせた声を響かせれば、甘い嬌声で俺を惑わす。


『……なお……も…むり』
『はっ?……誘ってんじゃねぇぞ』


こっちは、その声だけで限界だってんだ。ベッドに腰掛けるように座りなおし、その上にユズを跨らせる。目の前に揺れる乳房を舌で舐め上げながら、彼女の苦しげな表情を視姦する。
首にまわされたユズの華奢な腕と甘い香水の匂いに包まれて、俺たちはまるでケモノのようにただただ快楽を貪り合った。そうすることでしか、この関係が成立しないかのように……




「まさか、直とヤルとは思わなかった」


俺の腕の中で目を覚ましたユズは、クスリと笑って俺に抱きついてきた。ドキリと高鳴る鼓動に、気付かないフリをする。これは遊び。本気なんかじゃない。この行為に何の意味も無いって事くらい、昨日の彼女の涙から察しはつく。


「よしよし。独りは淋しいもんな」


素肌のままの彼女を抱きしめて、無意識のうちに、俺は彼女の髪を撫でていた。なんだかひどく幸せで、ひどく切ない。


「…彼女いるの?」
「さぁ?いたかな?」
「なにそれ?」
「…そんな余裕も時間もねぇし」


俺たちには、この行為を正当化する理由も、この行為の意味を追及する意志もなく。曖昧に流れる時間の中で、お互い吸い寄せられるように唇を重ね合った。




「これ持ってく?」
「なに?」
「世間の常識?」


そろそろ帰る…というユズ手渡したのは、俺らのライブDVD。モチロン、次に会う為の口実だった。


「………ばかにしてる?」


優しく睨みつけられて、何故だか胸がしめつけられる。


「…………泣きたくなったら…また来いよ」
「ん…ありがと。じゃあ、ナオが泣きたくなった時は電話して」


そう言って彼女は、携帯の番号とメールアドレスを残して部屋を出て行った。
ユズと過ごした学生時代。あの頃の俺は、ユズと一緒に朝を迎えるなんて、予想だにしてなかった。俺と寝たがる女なんて山ほどいたし、自分勝手な女どものワガママに付き合うよりも、気楽な仲間達とつるんでる方がよっぽど楽しかったし。我を忘れて恋愛にのめりこむ奴の気がしれなかった。




ペタしてね

お腹が空いたという直クンに誘われて、半ば強引に連れて来られたのはいわゆる芸能人御用達の会員制バー。カウンターが見渡せるソファ席に案内されて、“とりあえず”の生ビールをオーダーする。


「あーーーっ、腹減ったーーー」


写真付のフードメニューをパラパラと捲る直クンを、何気なく見つめながらタバコを手に取り、火をつけた。間接照明のみの店内は、黒を基調としたモダンな造りで。他人には干渉しない、大人が大人の時間を過ごす空間。


「直クン、こんなお店どこで知ったの?」
「ああ、この前海に教えてもらったんだよ。女口説くのに良い店があるって」
「なにそれ?」


俺が笑うと、直クンも笑って。


「海も、適当に遊んでっから。そういや、ハルは?今彼女いんの?」
「ふふふ…、昨日まではいたんだけど」


直クンが呆れたように笑って、俺はめいいっぱい肺まで吸い込んだタバコの煙を静かに吐き出した。


女なんて、くだらない。
恋愛なんて、メンドクセェ。。
愛を囁くのは、ドラマの中だけで勘弁してくれって、ほんと。


苦笑し合ってたところに、生ビールが運ばれてきて、軽くグラスをぶつける。一気に半分まで飲み干したところで、直クンの動きが止まった。


「…どした?」


グラスを握り締めたまま、カウンターを見つめる直クンの耳に俺の声は届いてない。


「…ゆず?」


半信半疑のつぶやきに。その視線を辿って行くと、カウンターに1人の女性が座ろうとしていて。俺たちの不躾な視線を感じた彼女は、長い黒髪を耳にかけながらゆっくりと振り返った。


「…もしかして、ナオ?」


親しげに名前を呼んで、こちらに近寄ってくる彼女は、驚いたような、それでいて嬉しそうに微笑んでいて。俺たち2人の前で立ち止まった。


「マジ久しぶり…つーか、1人?」
「ふふ…楽しくないお酒に飽きちゃったから逃げ出してきたとこ」
「なんだよ、それ」


さりげなく横にずれて、空いたスペースに座るよう促す直クンと、それに素直に従う彼女。


「こいつハル。知ってるだろ?」


初めて俺を真っ直ぐに見つめた彼女は、軽く会釈した後、首を傾げる。


「どっかで会った事あったっけ?」


真っ直ぐに俺を見つめて、必死に記憶を辿る姿が何だか可愛い。


「俺のこと知らない?」
「……知らない」

「だーーーユズっ!おまえ相変わらずテレビの無い生活送ってんだろ」


直クンは、脱力して、ソファに仰け反るように身を沈めて頭を抱える。


「有名人…さん?」
「どーもー、ルーナのハルでーす♪」


仕事用の笑顔でおどけて自己紹介してみせると、彼女は困ったように微笑んで。


「へっ?るーな?……ごめんなさい、テレビってあんまり観なくって」
「いえいえ、あっ、ちなみにルナは俺らグループの名前ね」
「…俺ら?」
「えっ?」
「え?直も…そのルナってグループなの?」
「そっ、正真正銘のアイドルなの♪」
「えぇぇっっ、何で教えてくれなかったの?」
「てか、何で知らねーんだよ。俺、大学ん時からこの仕事してんだけど」

「うっそ。よくサボる人だなぁとは思ってたけど…」


本気で俺らを知らない彼女は、テレビの中で、歌って踊って笑顔を振りまく俺たちを見たことないわけで。
どんな生活してんだよ?と軽くツッコミを入れつつも、あまりにも普通に接してくれる居心地の良さに自然と表情が柔らかくなっていく。


「まぁいーや。それより、おまえ今何してんの?」
「ふふふ、秘密」
「んだよ、それ」


直クンの、丁寧ではない言葉遣いに、懐かしさが伝わってくる。


―――へー…直クンてこんな顔するんだ?


メンバー1のシッカリ者の直クンの飾らない笑顔が微笑ましかった。


「あのー、名前教えてもらってもいい?」
「え?」
「名前」


ニッコリ笑って、直クンが『ユズ』と呼ぶ彼女を見つめる。


「やだ…言ってなかったね。柚木です。柚木美夕」
「へ?」


彼女の名前を聞いた途端、直クンの表情が固まって。彼女は、淋しそうに笑ったんだ。


「なー溝口サンは?」
「……私、もう溝口じゃないんだ」
「へ?」
「……別れちゃった」
「ワリィ……変な事言った」


ヤバイって顔して、直クンが謝ると、彼女はクスクスと笑って。バーテンが運んできたウィスキーグラスの中の氷を、指で弄びながら、上目遣いで直クンを見つめる。
憂いを含んだ表情も。アルコールのせいなのか、少し海んだ瞳も。男心を擽るには充分過ぎるほど充分で。綺麗な女なんて見慣れてるはずなのに、目が離せない。


「もう随分前の話だから……気にしないで」
「…マジごめん」
「もう…相変わらずなんだから」
「………へ?」
「相変わらず心配性」
「そうか?」
「相変わらず、優しすぎて…ホッとする」


手の中のグラスに視線を落として、彼女はクスクスと笑っている。そして。ふっと、彼女の瞳から何の前触れもなく、大きな涙が零れ落ちた。彼女さえも予期していなかったのか、その涙に困ったように笑って、グラスをテーブルに置くと、両手で顔を覆う。


「……ごめん」


痛々しい程に伝わってくる彼女の強い想いに、直クンが戸惑ってる。彼女を抱きしめたいのに、行動に移せないのは…俺のせい。仕方ないなー…と心ん中で独りごちて、勢いつけて立ち上がり、鞄を手に取る。


「直クン、俺帰るね」


驚いたように俺を見つめた直クンは、それでも俺を引きとめる事はしなかった。彼女は、涙で濡れた顔で申し訳なさそうに、俺を真っ直ぐに見つめる。動き始めてしまったキモチを邪魔するほど、野暮じゃないんで、悪しからず。


「とりあえず、ココ直クンのおごりね」


軽くウィンクなんかしてみたりして。ポンポンと、彼女の頭を優しく撫でて。俺は、店を出た。

今日初めて会った、名前さえ呼んだ事のない女は、俺の名前すら呼んだ事がないわけで。これっきりの出会いだって思ってた―――…。




ペタしてね




なぁ、ミュウ?


俺さ、おめーと出逢って初めて知ったんだ。

モノクロだった世界も。

色褪せた日常も。

君が隣に居るだけで。

世界は、ほらこんなにも優しい色してる。


だから、俺の前では泣けばいい。

弱くて

不器用で

情けなくたって


誰が何て言おうと

君がどんな過去を背負っていようと


今なら、ちゃんと受け止められるから。


なぁ、ミュウ?


君の名前を呼ぶだけで。

君が俺の名前を呼ぶだけで。


涙が出そうになるんだ―――……





始まりの季節も終わりに近づき、怠惰な日常が浸透し始める桜雪の頃。うっすらと青白い靄がかかったような、漆黒の闇が溶け出す明け方近く。車を降りた瞬間、ひんやりとした透明な空気に包まれ、まどろみ始めていた意識が、一気に現実へと引き戻された。


「……お疲れさん」
「お疲れ様です!ゆっくり休んでくださいね。午後からは、ドラマの収録と雑誌の取材が…」
「はいはい」


マネージャーの言葉を遮り、勢いよく助手席のドアを閉める。無表情のまま、追い払うように手を振って背を向けると、緩やかに発進した車のエンジン音が聞こえてきた。自宅マンションのエントランスでオートロックを解除する。眠くて死にそうだった。
疲れて死にそうだった。
一日の終わりも始まりも、全てが曖昧なまま、既に何時間起きているのかさえ、分からない。
生欠伸を噛み締めながら、重たい身体を引きずるように、エレベータホールでボタンを押そうとして、


―――誰だよ…こんな時間に…


午前4時57分。オレンジ色のランプが左から右へと一定のスピードで上昇していく。


―――はぁっっ……


自然と零れ落ちた溜息に、一層疲れが増す。乱暴に上矢印のボタンを押すと、しっかりと磨かれた大理石風の壁にもたれかかり、キャップを目深に被り直した。この時の俺は、まさかこれから運命の女と出逢うなんて思ってもなくて。8階まで昇っていき、緩やかに下降を開始したランプの動きをただ、ボンヤリと眺めていた。

しばらくして、エレベータのドアが開き、飛び出してきたのは、


―――女?!


着のみ着のままで出てきたのか、ヨレヨレのトレーナーにジーンズとサンダルで。何だか女を捨ててる感じの暗い印象。
まさか、こんな時間にエレベータを待っている人間がいるとは、思ってもいなかったのだろう。一瞬、驚いたように立ち止まるものの、ペコリと軽い会釈をしてそのままマンションを出て行った。
いささかの違和感を感じはしたものの、特に気に留める理由もないわけで。そそくさとエレベータに乗り込んだ俺は、自分の部屋のある9階のボタンを押そうとして、足元に落ちていたキーケースに気付いてしまった。


「マジかよ…」


拾ってしまったキーケースは、ほぼ間違いなく先ほどすれ違った女のもので。


―――ああ、メンドクセェ…


気付かなかったフリして放っておく?とはいえ、こんな時間に閉め出しくらうのもたまんねーよな?あの女、何か危なっかしいし…関わんない方がいいに決まってる…。

自問自答を繰り返しながら、気付けば、乗り込んだばかりのエレベータから降り、マンションを飛び出していた。さっきの女は大通りへとつながるなだらかな坂道を下っていくところで。名前も知らない女を、こんな時間に追いかけてる俺って何てお人好しなんだろう。つーか、傍から見たら変質者だよな?さっさと届けて部屋に帰ろう。そう決めて、俺は歩くスピードを少しだけあげた。


「これアンタの?」


彼女の目の前で、キーケースを揺らすと。彼女は、驚いたように立ち止まって俺を見上げた。といっても、深くキャップを被っているせいで、その表情は読み取れない。


「へっ!なんで?」
「エレベータん中に落ちてた」
「うそっ…ありがとうございます」
「じゃ、そ~ゆ~ことで」


無表情のまま踵を返して歩き始めると、ガシッと腕を掴まれ、後方へと引っ張られた。バランスを崩して転びそうになる。


「あんだよっ!危ね~なっ」



思わず口調がキツクなってしまった俺は、乱暴に彼女の腕を振り払う。


「ごめんなさい…あの、お礼したいんですけど、どちらのお部屋ですか?」
「いや、結構です」


やっぱりシカトすべきだった。同じマンションにアイドルが暮してる…なんて言いふらされたらたまらない。再び、踵を返して歩き始めた俺に、彼女は尚も食い下がる。


「……感じ悪っ?お礼位させてくれてもいいじゃない」
「………………」
「ねぇ、じゃあ名前位教えてよ。私、柚木美夕。あなたは?」


―――は?気付いてねーの?


「何よ、名前も教えてくれないの?はぁっ……だから最近の若い子ってキライ」


怒ったような口調で、顔を隠していたキャップを取り、両手を腰にあてて、呆れたように俺を見上げた。サラリと揺れた黒髪に、ドキリとする。真っ直ぐな漆黒の瞳は、どこまでも澄んでいて。視線を逸らすことが躊躇われるほどに美しかった。そんな彼女から零れおちた、彼女には似つかわしい物言いに、思わず笑ってしまう。


「……ハハッ……最近の若い子…って、あんたいくつ?」
「27才。バツイチ。何か文句ある?」
「へぇ…俺、結城海。23才。アイドル。何か文句あっか?」
「ふうん。アイドルって、初めて見た。」


まじまじと俺の顔を見つめる彼女は、興味津々といった感じ。だけど、この様子からすると俺の事は知らね~んだろうな。


「俺も。俺を知らない女なんて初めて」


ニヤリと口の端をあげて、俺が笑うと。彼女も、ふわりと微笑んだ。


「私、801号室なの。気が向いたら遊びに来てよ。今日のお礼にコーヒー位ごちそうする」
「はっ?そんな簡単に部屋教えちゃっていいわけ?犯されても文句言えないよ?」
「だって、私はアナタにお礼をしたいし。アナタは、連絡先を教えてくれそうにないし。だったら、私の連絡先教えるしかないじゃない」


当然とでも言うように、真っ直ぐに俺を見つめる。


「……変な女」
「あら?こんな時間にわざわざ鍵届けてくれるアナタも相当変よ?」
「そーかもな」
「それにアナタって、何か安心できそうだもん」
「なんだよ、それ?」
「んー……、女の直感?」


柚木美夕は、もう一度フワリと微笑んだ。 こうゆう仕事をしていると、どうしても自分を守る壁が必要なワケで。求められてる“アイドル・結城海”と誰も知らない、いや誰にも見せられない、本来の俺。その微妙なズレが、歯痒くて。仕事だと割り切れるほど、大人でもなくて。だからといって、周囲の状況などお構いなしで、俺流を貫き通せる程子供でもなくて。どうしてもイライラが付きまとう。連日のハードスケジュールでささくれだっていた俺の心に、彼女の言葉は、驚くほど優しく響いた。


「お姉さん、何やってる人?」
「私?……秘密」


彼女は、意味深に微笑むと、「じゃあまたね♪」なんてヒラヒラと右手を振りながら、別れを惜しむ事なく踵を返して、俺の前から去って行った。


「…変な女」


朝独特の青い光の中で、自然と零れ落ちた独り言。
この時の俺は、自分の表情が緩んでる事に気付いてなかったし。
この出会いが、運命の女との出会いだったなんて知る由もなかった――――――…



ペタしてね









「ねぇ、私たち…随分遠回りしちゃったね」







真夏の夜に打ち上がった煌びやかな花火を見上げながら。



儚げな夏の訪れとともに、凛と響いた君の声。

躊躇いがちに重ねられた手は、微かに震えていて。

その手を強く強く握り返した。

いつかまた、君が孤独に押しつぶされそうになった時、



どうか隣に俺が居ますように。

そう、願いをこめて――――――