わたしのお気に入りのブログで、こんな記事がのっていた。

2008.05.30 Fridayの記事


私の個人的な意見。


>テーマは「教会に閉塞感はあるのか?」

 ⇒不思議な現象が起こっていて、閉塞感がある世代と無い世代が、同じ教会内で発生している気がする・・・あくまで、「気がする」という程度、事実かどうかわからないが・・・

 私がいっている教会は、だいぶそれが破られてきたという気がするが・・・それも、意識してそうなったわけではなく、本当に主の憐れみによって、優秀な人材が与えれたから。教会がそうなったわけではなく個人の力によるところが大きい。それはそれで大変感謝です。

>
ある牧師は、伝道、教会学校、青少年の減少などは20年前に予測できたこと。それに教会が対応してこなかった。閉塞感や閉塞的状況は教会が作り出したのでは?とご指摘。

 ⇒根本的な「何故か?」という問いかけをしなかったんだろうか?という気がしている。

「何故、中学生になると離れるのか?何故、働きはじめると離れるのか?何故、信仰を継承できないのか?何故、聖書を読まないのか?何故、よろこびがないのか?等等」

 出した答えはすべて個人の問題。「聖書をよまないから。教会に出席しないから。」挙句の果てには、「救われていなかったから」という、「だから、何故、そうなのか?」という問いを徹底して追求してこなかったのでは?

>同牧師は経営学者ドラッガーを引用し、成長する企業が持つ「自分達の働きをしっかりとやること」「イノベーション(刷新)する」「後継者を育てる」この三点は本来、教会が取り組むべきと主張。
 ⇒何度か、この提案をしたことがある。組織運営上、非常に有益な本であるので、参考までに読んでみたらどうかと言ったこともあったが、殆ど興味は示されなかった。聖書を読んでいればいい的な感じであった。


>別の牧師はイノベーションができない理由の一つとして、過去の成功モデルが次の段階で足を引っ張ることがある。教会の初期に救われた成功例から抜け出せない教会は成長できないとのご意見。
 ⇒教会学校などは典型で、食べ物があふれ、娯楽があふれ、子ども達が習い事や学校で疲れている・忙しい時代に、一人で歩かせるには危険な東京のど真ん中で、まだ50年前のように、「(ほんの少し)お菓子もでるし、楽しいお話が聞けるので、みんな来てね」と言っている。更に子どもを通して、親に福音が伝われば・・というような、今までそのような見たことも聞いたこともないケースを夢見ている・・・そりゃ閉塞していくわなぁ・・・・と思う。

 与えられた場所・時代から隔離しちゃっているのでは? 

>同牧師は、教会の評価は、多くの会衆ではなく、どれだけリーダー、後継者を育てたかによる。牧師がそれを第一の使命として取り組まないので、閉塞的状況になったとも主張。
>
また、リーダーや育たない原因として、四名の牧師が一致して、教会の中に蔓延する「癒されたい」という空気を問題視。「癒されなければならないというのが、問題。」「それは信仰ではない。」「救われても世界観が変らなければ・・・・」などの意見が続出。


⇒なるほどねぇ・・・牧師の評価ではなく、教会の評価なんですね。リーダー・後継者を育てるのは教会の使命なんですね。会衆側にも大きな問題ありますね。でも、この新しい聖書的世界観を教えられずに得ることもできるはずがないのも事実。


 今の指導者達もおそらく、指導者としての指導は受けてこれなかったのかなぁと。その中でも一生懸命伝道してきて、苦しみながら牧会してきたんだろうなぁと思います。だから指導者や責任者をどうこう言うつもりは全くないし、むしろ感謝し、すげーなぁと思います。ただ、で、あるならば自らが聖書的世界観を得、合同の教会の、福音の後継者となっていく努力をしなくてはならないのだと思いました。


これも、私のお気に入りのブログからの引用です。

全くその通りだと思います。携帯で現場の写真を撮っていた人たちを批判する人たちもいますが、下品な好奇心でワイドショーを見て、視聴率をあげるのも、携帯で「ちょーすげ」とか言って写真撮る人も大して代わらないと思います。


命と性の日記 【6月12日の記事】


さらに親が「親として申し訳ない、お詫びしたい」と発言した場合と「息子が勝手にやったこと無関係」と発言した場合で何が違ってくるのか?犯罪行為については本来なんの変化もないはず。それとも後者のような発言をすれば、バッシングの餌食になり、さらに報道は加熱するのか?
⇒「息子が勝手にやったことで無関係」という事をマスコミは期待していると思えて仕方ありません。


 「特異な犯罪の容疑者→そのパーソナリティー→親の顔を見てみたい」という下品な好奇心に応答しているのでは?マスコミは本来そうした好奇心とは別次元で事実とその本質を伝えることが使命のはず。
 また、視聴者の攻撃欲求を満たすためでしょう。心や社会に余裕がない視聴者たち。常に誰か悪者を見つけ出し、それを攻撃してカタルシスを得ようとしているかのような日本の大衆。


 結局「親は出てきて謝れ!」という群集心理が日本社会に渦巻いており、それをマスコミが利用して、ニュースバリューを高めようとしていると思えてならないのです。何か、大衆の怒りをしずめる「さらしもの」、「みせしめ」のような機能を負わされているのでは?日本の群集心理はいまだに江戸時代か?と言いたいです。

⇒視聴率第一で、その為には何でもありですね。マスコミ(特にワイドショー)は本当にひどい・・


 いかに親の育て方などに原因があっても、成人した者の犯罪行為についてはまずは、当人の責任です。親が責任を痛感し、世間に親を責めたい気持ちがあっても、マスコミが親にアプローチするのは不当だと思います。そんな努力をするなら、もっと為すべき報道や事件の本質に迫る努力をすべきです。残念ながら前者の間違った努力の方が後者の正しい努力よりも利益や視聴率に直結するのが現実なのでしょう。
 「そもそも私人、一般人がマスメディアを通じて謝罪する必要などあるのか?!」と私は申し上げたい。何かマスメディアまでいっしょになって、加害者家族をバッシングしているような雰囲気さえ感じてしまう私です。
 親が謝罪会見したところで、何が起こるというのでしょう?せいぜい大衆の感情的解消でしょう。事件との因果関係が予想される「人を物扱いする現在の経済体制」「働いても将来への希望が見えぬ社会構造」「学校での挫折を致命傷としてしまう教育観」「子どもの人格を抹殺する親のあり方」などは、そうした謝罪によって、何ら変えられていくとは思えません。
 「本当に、問われるべきは、加害者の親の責任ではなく、日本社会を形成する大人である視聴者・国民一人一人の責任で、まさに私たち一人一人でしょうが!」と訴えたい。

⇒上述、まったくその通りだと思います。マスコミ・大衆の暴走・無知蒙昧ぶりに恐ろしさを感じます。


 

 全員が全員ではないと思いますし、立派な方もたくさんいらっしゃるという前提で、今回のお話です。題名は、よくいわれる「全くいまどきの若いものは・・」の逆ヴァージョンです。


 足代わり119番

 じーちゃん、ばーちゃんが、足代わりに救急車を使っているという記事ですね。モンスタージーサン/モンスターバーサンというところか・・・

 若者がどうこう言う前に、やはり先輩が規範を示さないとダメですよね・・・私も含めて。私はなるべく「最近の若いモンは」という台詞は言いたくないと思っています。

 こんな事で、無駄遣いがされて、私たち働く世代から医療費(保険費)がざっくり持っていかれるわけですから。

 

 うわさによると、寄り合い所代わりに病院を使っているじーさん、ばーさんがいるとかいないとか。

病院でこんな会話がされているとかいないとか。


ウメ(仮名)「あら、今日はトメ(仮名)さんが、ここ(病院)に来ていないわねー」

ハナ(仮名)「あら、ウメさん、トメさんは具合が悪いらしくて休んでいるらしいわ。」

ウメ「心配だわねー。見舞いでも行こうかしら。」


 本当っぽくて非常にイヤです・・・

 

病院を寄り合い所代わりにするなら、教会を寄り合い所にすればいいんだよな。

教会が寄り合い所(集会)としての機能を果たしていないってことだな。

教会がじーさん、ばーさんの寄り合い所的役割をになったら、教会も活気付き、医療費もへる。更に教会での葬式代は格安なので、家計にもやさしい。いい事尽くめだ。

 

 寄り合い所的機能を失っている教会には悔改めを。医療費を無駄にしたじーさん、ばーさんも悔改めを。

悔改めたじーさん、ばーさんが生き生きと集まる教会(集会)はきっと日本に大きな素晴らしい影響を及ぼすでしょう。


 

久しぶりにUPです。なかなか、定期的に更新というのは難しいですね。


このテーマで何故、オシムさんのコメントかというと、以下の部分が、非常に参考になるのではないかと思ったからです。


--日本選手の育成で早急に学ばないといけない部分は
 「一般論としてですが日本の選手はもっと走らないといけない。技術があるとよくいわれるがもっとレベルを上げないといけない。子供のじきからもっと動きながらのプレーを習熟しないといけない。考えるスピードと走るスピードアップが前提で速いプレーが初めて可能になる。ここから始めるべきです。強国が強い理由を分析してイミテーションを繰り返しても、その国は超えられない。まねすることはいいことではない。そのコンプレックス から解放されて自分たちのサッカーをすることが大事です」


オシムさんのコメント


日本のキリスト教会も、傾聴に値するコメントだと思う。これをキリスト教的に変換すると以下のようになります。

アメリカや韓国や他教会力がある、人が集まっている、熱心な理由を分析して、牧会・伝道方法、活動やノリ、メッセージのイミテーションを繰り返しても、その国は超えられない。まねすることはいいことではない。そのコンプレックス から解放されて主に従って、自分たちの牧会・伝道をすることが大事。


 日本人の外国コンプレックス・リーダーコンプレックスを的確に見抜いていると思います。その弱点を克服させる為のオシムサッカーだったと思うので、彼が病気になったのは個人的には非常に残念に思っています。

 サッカーも、教会も、与えられた責任を、自分の意思と自己確立の上に行う自立した人間が求められていると思います(教会の場合は、当然、【主から】与えられた責任を、自分の意思と自己確立の上に、【主に従って】行う自立した人間という意味)。


 自分より強いもの、先を行っている(ように見える)ものと比較して、それをイミテーションし、盲従する性質は日本の教会が戦争中、戦争に積極的に参加していった原因になっていると思います。 少しでも自分で考え、理性と信仰によって、如何に進むべきか考えることができたら、戦争中の「天皇を拝む事は、宗教ではなく、日本文化である(からクリスチャンであっても参拝しても問題ない)」という詭弁に盲従することはなかったと思います。

 

 その本来徹底的に悔改められるべき本質的問題が分析され、悔改められていないと僕は考えています。

何故なら、戦後行われたという教会の「悔改め」も同様のパターンで行われているように見えるからです・・・(続く)