ウチの会社は残念ながら、「やれ!」「あのライバル会社を見ろ!」「やれるはず!」と言う上司はいますが、その通りに「やる」上司はいません。「ホームラン打て」のサインを出しすので、ヒットを打っても「なぜサイン通りしない!」という人たちです。


 信仰と言葉と行いの一致という生き方がどれほど大事か、最近学ばされていますが、それは信仰のことだけではなく、あらゆる場面で言えるのだと思います。

 言葉だけの人は、人をがっかりさせ、やる気をなくさせ、あきらめさせます。また、行動だけの人は、人に誤解され、理解されず、孤立します。両方が必要なのではないでしょうか。


 そして、どちらが大事かというと、まちがいなく「行動」の方だと思います。

 特にリーダーは行動が絶対的に大事だと、ウチの会社を反面教師として、痛感しています。

 

 少なくても私は家庭では、リーダーなので行動で家族を導きたいと願っています。

「信仰と告白と行いの一致」を温泉旅行で、ある友人は「かっこつける」といいました。まったくそのとおりだと思います。

「信仰と告白と行いの一致」を目指すことは、かっこつけている生き方なのです。そして、恥ずかしくなるような非常に青臭い生き方なのです。


その青臭い、かっこつけの人生を送ろうと思います。

ところが、明治にはいり、クリスチャン達は「信仰と告白と行いの一致」をばらばらにして、心のうちだけにとどめてしまいました。結果として、昭和の戦争の時には全くと言っていいほど戦いえなかったのです。

そのばらばらの伝統は今にも引き継がれている気がしてなりません。


「信仰と告白と行いの一致」を目指す歩みに私たちクリスチャンは召されているはずなのです。


先日の温泉一泊旅行で話した時の私のテーマは、「告白に生きる」ということでした。

今、それが私のテーマになっているのは「キリシタン」がマイブームになっているから。キリシタン達の信仰告白の通りに生きるその実直さに感動しているのです。

「神(デウス)が主、イエス(ゼズス)が主」という告白をしたキリシタン達は、この世の権力者(秀吉、家康‥)に対しても恐れることはありませんでした。

「信仰と告白と行いの一致」これはキリスト教信仰の要諦です。そのことをキリシタン達を通して教えられています。カトリックを全否定するあまり、非常に重要な「告白」ということをプロテスタントは、なくしてしまったのではないでしょうか。

「信仰と告白と行いの一致」を断絶しようとするもの、それが当時は「踏み絵」であり、明治からは「君が代・日の丸」になっているのではないでしょうか。

「信仰と告白と行いの一致」はキリシタンにとっては当然のことでした。それをばらばらにすることはすなわち信仰を否定することでした。信仰とは心の中、言語、行いで一つなのです。だからキリシタンたちは神ではない絵を命をかけて踏まなかったのです。


 先日、違う教会の友人たちと一泊温泉旅行にいってきた。そこでの交わりの深いこと深いこと。感動しました。

交わりで感動する体験って、あんまりできないよなぁ。

 その感動の余韻を残したまま、次の日自分の教会へ。。。。その事を話したのだが、わかってもらえるかなぁと思った人からもわかってもらえず、非常に残念でした。

 

 なんかねぇ、言葉にならない残念感が私を覆いました。


 どんなテーマについて話したかはまた後日。