内にやってくる感覚の言語化の難しさ
昨日もチラと書いていますが、
最近よく思うこと。
自分の内にあるものが表現できない・・・。
内にあるもの。
それは、
私の場合感覚的に受け取るもので、
感覚ではわかっている何か。
自分の思考を超えた何か。
例えて言うなら、
いろんな情報をぐちゃぐちゃにだんご状にしたものが
ポイって入ってくる感じです。
今まで色々なことを擬音語で済まそうとしたことや、
自分の知識不足や言葉の知らなさも
もちろん表現のむずかしさに加担してます・・・
すこし前、後から考えると面白い発見だけど、
その場ではモヤモヤ感を感じる出来事がありました。
自分の中の感覚をシェアしようと話しだしたら、
何か伝えたいことと違う。
何か違う、何か違う
と感じながら、最初伝え始めたところから、
もう一度はじめてみたら・・・
言葉を発しているうちに、
発している言葉に思考が引き寄せられ、
「そうだそうだ」と思考が勝手に話を違う方向へと帰結。
面白いな~と感じた1つは、言葉。
以前から感じていましたが、
言葉って、人によりその言葉の持つ意味が違う。
もちろん共通しているような部分もあるけれど、
でも、その人の今までの体験で意味づけされるから、
同じようでいて、とても違う。
そして、言葉にした途端、
その人の思う意味合いへと制限されていく。
今回の私の場合、
言葉になっていない感覚を、言葉に変換した途端
自分の中でその感覚に制限をかけていき、
制限をかけたその感覚に次の言葉を当てはめていました。
だから、違うことを伝えることになったんですねぇ。
言葉って、難しい。
そして、面白いな~の2つ目は、思考の働き。
勝手に、反応で動いてくれるのを、
まざまざと感じつつの出来事でした。
思考は今までの体験の中で知りえたことを、
今まで慣れ親しんだ思考のパターンで
一生懸命処理しようと勝手に働いてくれるんです。
でも、この度、私の内にあった感覚が、
その時の思考を超えた感覚だったので、
処理しきれず思考の反乱が発覚したわけです。
今の私の状態では、まだまだ思考が動き出すと、
主体(本来の自分)と自我のバランスが崩れてしまう。
自我の比率がビヨ~ンと膨らみ、
話を続けてしまうんですね~。
結局いろいろ気づけてよかったのですが、
もう少し、受け取っている感覚に
近い表現ができるようになりたいな。
言葉を覚えたい!と真剣に感じた出来事です。
愛って。
ここ数日、なんとブログアップの頻度の高いこと。
これまた、いつまで続くことかわかりません。。。
私の場合、
どうやら、あまり何も考えていないと
ブログ更新に繋がるみたいです。
さて、『愛』。
美しい言葉だなと感じます。
愛という言葉に、
私たちそれぞれのイメージがある。
共通したイメージもある。
でも、愛って、
そのイメージであって、そうでない
そういうふう(?)だと思います。
空気のように当たり前にそこにあり、
あまりに当たり前だから、
いちいち「愛ここにあるね!」とも言わない。
あまりに当たり前だから、
「愛からの行動」とも感じない。
いつもの日常の中に、
あまりに当たり前にそこに在る。
そんな、空気のような「ふう」。
(モノって感じではないので、
「ふう」にしてみました。)
でも、当たり前すぎて
そこに在りすぎるものだから
近すぎて見逃している。
忘れてしまっている。
そこに在ることことに。
だから、いろんなところで、
「愛そのもの」という言葉で
それぞれの中で思い出されるキッカケを
作っているのかもしれない。
でも、「愛」を意識しすぎると、
違うものを見つけようとしてしまう。
見逃してしまう。
それぞれが持つ「愛」のイメージに縛られて。
だから、そこに在る「愛」に気づいたら、
いちいち「愛」を見つけようとしなくてもいいと思う。
自分のどこか片隅でも、気づいていれば。
「愛」がそこに在ることに。
自分に寄り添うということ
昨日書いた「自分に寄り添う」の続きになるかもしれません。
じゃあ、自分に寄り添うってどういうこと?
というと、いろんな自分を
「そうなんだね」と認めて一緒にいる感じです。
何かの出来事の中で
自分の感情が振れた時を考えてみてください。
例えば、嬉しい出来事や、楽しいと感じる状況にいる時、
「嬉し~」とか「楽し~」とか、
めいっぱい、その感情に浸りきったりしませんか?
悔しいとか悲しいと感じる出来事があった時、
相手を攻撃したくなったり、
自分を守りたくなったり、
自分を否定したくなったりしませんか?
この場合、自分に寄り添うのはちょっと難しい。
なぜなら、感情を感じている自分と自分が一緒だから。
は?
と思われるかもしれません・・・
(最近とても痛感しているのですが、
内にあるものを言語化する能力が
追いつかないというか、足りないというか・・・。)
つまり、寄り添うためには、それなりの距離が必要になるわけです。
でも、私たちはたいてい、
感情を感じると、感情と自己がくっついて
気が付いたら巻き込まれてたりします。
だから、そこが密接すぎて距離がない。
感情に巻き込まれていると、
冷静になろうとしてもちょっと難しかったりしますよね。
例えば、イライラを我慢してその状況に身を置いていても、
反発心がやってきて客観的になりづらくなる。
感情が出来事を捻じ曲げて自分の中に入ってくる。
その情報によって、さらに違った感情が湧きあがってくる。
つまり、密接すぎると自分も起きている出来事も
判断とかしないで観ることが難しくなるんです。
でも、自分という主体と感情に少し距離があったら、
こういう出来事が起きている。
その中で、私はこれに反応してこういう感情を持ったんだね。
と、冷静に状況を観ている主体が
「そうなんだね」と自分に寄り添うことができる。
それは、「正しいよ」とか「間違っているよ」とかいう認めるではなく、
ただ寄り添うことで自分という存在を認めること。
私たちは、状況状況によって、
自分で自分を肯定しようとしたり、否定しようとする。
それによって望まない状態になってしまったり、
苦しくなってしまったりする。
だから、少し距離を持って
そうなっている自分と寄り添ってみてください。
今までと違った世界が拓くかもしれません。
ダイエット
なんとなく、
昨日からダイエット。
方法は、
1日1食ダイエット。
テーブルにあった
『日経大人のOFF』を、なんとなく見たら、
ダイエット特集のもので、
なんとなく、
「やってみようかな~」
ではじめてみました。
内臓が疲れてそうだし。
普段、昼夜問わず
ひそかに頑張ってくれている内臓に休息を。
ということで。
初日はたいていスムーズに終わる。
そして、「この分ならできるんじゃない?!」
と期待する。
でも、問題は2日目。
なんとなく、「お腹すいてるな~」と感じた時、
旦那さまが、「1日置きにしない?」と言ってくる・・・![]()
昨日の時点で、
大して続かないとは感じていたけど、
想像以上に続かないかもな~。
何日続くかな~。
自分に寄り添う
長らく、
「正しい道を生きたい」
と願っていました。
正しい道って言ったら変だけど、
本来の生き方。
(結局同じかしら??)
魂が望む方向に。
そう願って、
「これだ!」とその時響く方向に向かい、
途中で「あれ?」と思う。
なぜなら、
「ちゃんと自分はそっちに向かってる」
と自分自身に承認が必要で、
気づかずに自分をつくろうとしていたり、
導いてくれるスゴイ人の目を気にして
正しくあろうとしたり、頑張ったりする自分がいたり、
結局自分が自分でいられなくなって苦しくなったから。
「あなたは私じゃありませんよ」とした
見ないようにしていた自分、
ムシしていた自分が
苦しくなってくる。
そして、そこから外れた時、
「ああ、振れてたな」と気づく。
今思えば、
ただ、その時々の私には、
伝えてくれていることの本質や全体像を
ちゃんと(?)受け取るだけのバックグラウンドというか、器がなくて、
自分なりの受け取り方をして、
自分でも気づかずに
「そう在ろう」としてた。
大切な学びに触れてきつつ、
自分が自分でいられなくなったのは、
バランスが崩れたから。
気づいていてもいなくても、
今の自分をどこか否定していると、
「よし!」って気合いを入れようとしたり、
「そうなんですね!」と新しいアイデアを受け入れようとした途端、
無意識に違う状態の自分に修正をかけようとしてしまう。
自分に寄り添えなくなる。
自分に寄り添うからこそ、
自分を満たす生き方に向かえる。
新しいアイデアも受け取れるようになる。
自分らしく幸せに、人生が流れていくのだと思います。
体験チャクラ調整ヒーリングのお知らせ
自分に寄り添い、自分らしく輝いた人生を拓くためのヒーリングです。