目覚めたら、「心豊かな日々」でした。 -34ページ目

「美味しい~!」に刺激されて「美味しい♪」

昨日は友人宅でお食事会ワインナイフとフォーク

毎回美味しいものをこしらえておもてなししてくれますキラキラ


今回も我が家では出ないラインナップ多しビックリマーク

(写真撮り忘れましたダウンしょぼん


我が家で作成するものも、

お家の味や工夫が出るから違いが楽しいニコニコ


目覚めたら、「心豊かな日々」でした。-ディナー1

ちょっと前、旦那さまが「食べたい」と言っていたエビパン!

やったね音譜

とっても美味ですドキドキ


目覚めたら、「心豊かな日々」でした。-ディナー2

ラグーパスタも美味しかった~クラッカー



「美味しい」満載に触発された旦那さま、

今日牛すね肉のシチューをこしらえてくれましたラブラブ


目覚めたら、「心豊かな日々」でした。-ディナー3

「美味しい」続きな日々。


きっと味がなじんでいる明日のシチューも楽しみ~キラキラ



私が一番ラッキーか?

大切なこと

たまに


「最近頑張れていない」

「最近変わっている感じがしない」


と、おっしゃるクライアントさんがいらっしゃいます。


以前私も同じように感じていたことがあります。


でも、今思うのは、


自分を成長させようとするのはなぜですか?



以前の私は、「今の自分ではダメ」とか、

「もっと自分らしく生きたい」と思っていたので、

「そのためには未熟な自分を成長させなければ!」

という想いで突進していました。


「こうすれば良い方向に向かえる」「幸せになれる」

と夢中になっていて周りが見えない状態だったかもしれません。


変わったと感じたことや

何か手放せた感じがして、「よしクリアになってきた」なんて

ちょっとした達成感を感じたりもしましたが、

逆に頑張り続けることができなかったり、

現実が変わっていかないもどかしさを感じた時は、

とてつもない罪悪感や焦燥感、自己否定感を感じたものです。


自己成長に夢中になっていたり、

一緒にそこに向かっている人たちの中にいると、

いつの間にか「変わること」「そこにむかって頑張ること」

が当たり前だったり、大切なことになっていたりします。


でも、本当にそれは必要なことですか?


例えば、

自己成長を望んだのは、

癒しを求めたのは、

要らないものを手放すことをしようとしているのは、


人により理由は異なるかもしれませんが、

その根底に「幸せ」を望んでいるからではないでしょうか?


「変わっている」という達成感も、

「頑張っている」というやってる感も、

自我の満足を満たすだけ。


それを満たすことで、

あなたの深い部分から満たされている感覚はありますか?


大切なのは、

あなたが本当に望む状態で在ることではないでしょうか?

謙虚

昨日久々に、宮川公園に行きました。

今年初かな?


目覚めたら、「心豊かな日々」でした。-宮川公園1

やっぱり、すごく好きな場所。


私にとっては

モヤモヤしていたものが少しずつ流され、

自分までなくなっていくような、

そんな場所。


目覚めたら、「心豊かな日々」でした。-宮川公園2

「そのものである」

そんな感覚を思い出す場所。


目覚めたら、「心豊かな日々」でした。-宮川公園3

「そのものである」けれど、

私を体験する私は、

自然の中の一部。


調和の中にあり、

たくさんの恵みを受け取って、

サポートを受け取って生かされている。


感謝ですね。



心からそう思っているのに、

ふと気がつくといつの間にか傲慢さが顔を出す。


「自分」を頑張っちゃったり、

「なんでも自分でやってきた」みたいな想いになったり、

人間様になっている時さえある。



でも、こんなふうに

モヤモヤがなくなっていくとともに自我の力が緩んでくると、

素直になる。


今感じているこの状態を続けたい。



なんて心しても、

また傲慢さ出ちゃうんだろうなぁ~


だから、どこかでちゃんと気づいていることを覚えておこう。



そんなふうに思ったら、

ふと今年鎮守神社で引いたおみくじに書いてあった

「謙虚」という言葉を思い出しました。


目覚めたら、「心豊かな日々」でした。-おみくじ


「謙虚」


「繋がっているそれそのもの(全体性)」であり、

それが故に「個」を理解する。


だから「今ここ」にある状況を受け取って

大切に生きる。



今の私には、謙虚をそんな感じに受け取れる。

可愛く繋がった♪

気づいたら、、、

可愛く繋がってたドキドキ


目覚めたら、「心豊かな日々」でした。-さくマカナッツ

「全」も「個」も

先日、目を閉じていたときに、

ふとやってきた想い。



「全体性」の意識も

「個」としての意識(自我)も

「自分」。



「全体性」の意識に目覚めると、

そして色々知識が入ってくると、

自我がとっても悪者のようになる時がある。

「あっちゃダメ」のような想いが植わっていたりする。


面白い。


なぜなら、それも自我でやっているからです。


そして、水面下で、

まるで自我がないように振舞おうとする。


自我が。


自分なのに、「自分はいませんよ~」って振舞っている。


それはつまり、

自分を否定していることになりませんでしょうか?


「全体性」で在るという立ち位置でいようとして、

自我が自分を覆っている。


つまり自我に振り回されないようにすることで、

逆に「全体性」の意識から遠のいてしまうのです。



「全体性」の意識に目覚めても、

自我は残ります。


自我が暴走の妄想をすることもある。


それまでのように

自分に対する「欠けている」「足りていない」

というところから何か「しよう」としてしまう。

ただ、「全体性」の意識によってそれに気づくことで、

なくそうとしたり、止めようとしなくても、

自然な流れで本来の望む生き方になっていくだけ。



自我も自分の一部。


自我があるから、本来の姿に気づける。

自我があるから、それぞれの体験ができる。


「こうじゃなきゃいけない」

というカタチはありません。


そして今、「どう在るか」なだけ。


自我に対する「これはダメ」を手放したら、

もっと楽に「自分」でいられる。

ゆるんだ自分から、新たな世界が見えてくる。