なんとなく生きてきた二十一年ぶんものツケが、今になって回ってきたのかもしれなかった。
突然に凍てつくような風が吹いて、マフラーに覆われていない顔半分を鋭くかすめた。
僕と同じく横断歩道を渡っていた人たちは、一様にコートやマフラーにあごをうずめて、歩くスピードを速める。
ダメ押しのように、もう一度北風が街を撫でて、僕はコートのポケットに両手をしまいこんだ。
赤信号で歩みを止めたとき、シャッフル再生しているウォークマンがクリスマスソングを流し始めた。
カオル、と、思った。
薫と二人で、この曲を聴いたときのことを思い出す。
進学のために上京してほどなく、僕は薫と付き合い始めた。
子供みたいによく笑う彼女を可愛いとは思ったけど、笑い合っていると安らいだのも確かだけど、三年近くも交際を続けたのははっきり言って惰性だった。
ちょうど一週間前、映画を観た帰りに、僕たちは並んで交差点を歩いていた。
繋いだ左手は温かくて、右耳にはめたイヤホンからは軽やかなクリスマスソングがきっかり半分だけ聞こえてくる。
だけど僕は短すぎる女子高生のスカートのほうに気を取られていた。
いくらなんでもそれは寒くないだろうか、などと、親父くさいことを考えていたのを覚えている。
思考はさらに次元を越えて、ワカメちゃんは足よりも首のほうが寒そうだよな、刈り上げだもんな、なんて思っていると、いきなり苛立った声がした。
「ねえ。なに見てたの」
明らかに苛立っている薫に、僕はなにも言い返せなかった。
「……じゃあ、なに考えてたの」
ワカメちゃんの体感温度について、なんて言えるはずもなく、僕はやっぱり黙っていた。
……もういい。
うつむくようにして、かすかに湿った声で、薫はそう言った。
たっくんって、ほんとなに考えてるのか全然わかんない。
ねえ、あたしのこと好きじゃないって、前から気付いてたよ。
クリスマスまで待とうって思ってたけど、やっぱりダメみたい。
……別れよ? ごめんね。でも、バイバイ。
喚起された思い出と罪悪感がくるくると渦を巻いて、冬めく街頭がぼんやり揺らぐ。
運動神経も頭もそこそこ良くて、これまで「なんとなく」でも生きてこられた。
だけどそれだけじゃやっぱり足りなくて、それに気づかなくて、薫を深く傷つけた。
薫と繋いでいない左手はやけに冷たくて、しっかり両耳にはめたイヤホンから、音楽が溢れだして頭の中をうるさく跳ねまわった。
薫といたときは右にだけつけていて、それが適度だったのに、慣れない今では左耳がじんわり痺れたようになっている。
薫と付き合いだしてから僕は、左半身が妙に退化した気がするのだった。
人垣が動き出して、信号が変わったことを知る。
再び歩き出すと、なにか重たげなものが背中に直撃した。
「……ません」
イヤホンを外して振り向くと、ショートカットの少女が申し訳なさそうにそこにいた。
クリスマスソングが途切れれば、いつもと変わりのない師走の街が広がっている。
「すいません。ギターが重くて」
小柄な身体にそぐわない大きなギターケースを担いでいて、当たったのはそれのようだった。
いいよ別に、と告げて足早に雑踏を掻きわけていく。
ふと腕時計を見れば、授業の始まる時間までいくらもなかった。
キャンパスを目指して歩を速める。薫の残像をなぎ払うように、煙に巻くように。
結局、難しい講義をむりやり詰めこんでも、増えるワカメを風呂に入れたらちょっとしたジャングルになるんじゃないかという話を友達にしても、あれは海藻だからと冷静につっこまれても、どんなときでも薫のことばかり考えてしまう。
メリーゴーラウンドを、頭の中で飼育しているみたいだと思った。
くるくるとくるめきながら、ときにぎしぎしと軋みながら、ペガサスはあくまで回り続ける。
思い出の灯りをともして、儚く切ない軌道をなぞる。
天馬が導くままにさまよっているうち、なぜだか、ゆったりと広い自然公園に辿り着いていた。
夕方の公園はうっすらオレンジ色に覆われて、ウォーキングを楽しむ老夫婦や、ブルドッグと小走りに駆ける女子大生を淡く照らしている。
僕自身も何度かジョギングに来たことはあったし、敷地の真ん中に開けた広場はヨーロピアンなタイルで舗装されていたりもして、わりとお気に入りのスポットだった。
せっかくなのでもう少し居座ることにして、自動販売機でホットコーヒーを買う。
広場に面したベンチに腰を下ろした。ホワイトクリスマスにはならないかな、とすっきり晴れた空を見上げて思う。
コーヒーは熱すぎて甘ったるくて、そんなささいなことなのに泣いてしまいそうになった。
「――そして飛びたいと、思ったの」
え。
唐突に夕空を震わせたクリアな声に、僕は勢いよく振り向いた。
円形に配置されたタイルの、ちょうどその中央に、華奢な肩からギターを下げた少女がいた。
目の前に譜面を立てて、だけどスタンドマイクは立てていなくて、少女は地の声のみを響かせて歌い始めたらしかった。
「……鳥かごを、……信じていれば……から大丈夫」
アコースティックギターの音色に掻き消されて、肝心の歌声が走らない。
聞き取れる歌詞もたぶんあまり上手ではなかったけれど、しなやかに伸びる高音を、彼女の紡ぐ音楽を、もっとずっと聴いていたいと思った。
それにしても彼女は小柄で、ギターを弾いているというよりは、音の鳴る、大ぶりな魚のようなものを抱えているようにしか見えなかった。
茶色がかったショートボブは息を吸うたび後ろに揺れて、英字がプリントされた長袖のTシャツは細さというよりも薄さを際立たせていて、ジーンズを穿いた足は針金みたいだった。
ボーイッシュな顔立ちの少女は切なげな表情で歌っていて、どこか近寄りがたいオーラが際立っている。
サビがラストに差し掛かると、彼女は何かをこらえるように固く目をつむった。
「青空を、信じて――」
鳥と空に関する一曲目は伸びやかなアカペラで締めくくらて、へえ、と思う。
ローラースケートの練習をしていた少年が、ためらいがちに拍手する。
少女は驚いたようにはにかんで、頭を下げた。ボブがなめらかに揺れる。
「ありがとう、ございます」
そのとき、一筋の優しい雷みたいなものが、僕をずどんと貫いた。
歌声より低めの声は、通学途中にぶつかった、ギターケースを背負った子と同じ声だった。
これは偶然か、それとも奇跡と呼ぶのか微妙にはかりかねながら、彼女の方へ近づく。
僕に気付いた少年は、自分は邪魔だと思ったのか、ぺこりと一礼して去った。
「あの」
戸惑うように目を見開いている彼女に、話しかけた。
茶色い瞳は疑問に揺れながらも、まっすぐに僕を見ていて、全力で話を聞いてくれているとわかる。
「俺、今朝、君に会ってないかな」
知らないうちに緊張していたのか、下手なナンパのようなことを口走ってしまった。
「……あ」
彼女も僕を覚えていたみたいだった。
「えっ、今朝の! わ、偶然ってあるんですね」
あっさり偶然という言葉を使って、彼女は無邪気にはしゃいだ。青白い肌がほんのり色づく。可愛いな、とごく自然に思った。
「なんとなくここに寄ったら、弾き語りしてんなって。で、どこかで見た顔だなって」
なんの言い訳をしているんだろう、僕は。
「そうなんですか。大学の帰りとか、ですか?」
「そうだよ」
「へえ、わたしもですよ。一年です」
そう答える彼女の背は、大雑把に見積もっても百五十センチ程度だった。
童顔ではないけれど線も細いし、丸みを帯びた頬も加算して、大学生にはとても見えない。
「ほんと? 高校生ぐらいかと思ってた」
「よく言われます。牛乳、毎日飲んでるのになぁ」
薄くか細い眉を寄せる。
「いいじゃん、小柄な方が可愛くて」
「ほんとですか」
かと思うと、花開くようにぱっと笑う。面白いくらい表情が自由自在に切り替わる子だった。
「じゃあですね、そんな……あの、お名前は」
「達哉」
「そんなタツヤさんのためにもう一曲いきまーす。『牛乳行進曲』」
なんだか嬉しそうに言うと、じゃらーん、とギターをかき鳴らす。
牛乳、行進曲……と思ったけれど、拍手を送った。
イントロが始まった途端がらりと雰囲気が変わり、緊張の粒のようなものを撒き散らしていた彼女も、素の顔に戻ってふわりとはにかんだ。
いろいろと物凄いタイトルはこの際気にしないことにして、僕は優しげに跳ねるメロディーに全神経をゆだねる。
とろけるようなキャンディボイスで、彼女は牛乳を飲み続ける女の子の歌を奏でた。
女の子は伸び悩む身長と伸びしろのない夢を抱えていて、ただひたすらに牛乳を飲んだ。
水で植物が育っていくように、牛乳を養分に伸びて、いつか遥か高みで夢を咲かせると信じて。
リズムも歌詞も単調だったけど、僕は明るい音色にすっかり聞き惚れてしまった。
ポジティブで温かい歌を、彼女は時折、悲しげに笑いながら歌う。
「頑張るよって今日も、わたしは、牛乳を飲む」
口もとをほころばせたまま、眉を下げて、そっと目が伏せられる。
金縛りに遭ったみたいに、彼女を見ていた。
まつ毛がゆっくり動き、目が閉じて、薄い瞼に走る血管が見えて、目尻に細かな皺が寄って、
どうしてだろう。
こうして透き通る歌を聴いていれば、ぐるぐる巡って僕を取り囲む何もかもから、離れていられる気がした。
穏やかに暮れていく空の下、冷ややかに躍る風と、僕と彼女しかいないみたいだった。
ミルキーな歌が見えないバリアのようなものを築いて、くたびれた都会の空気は僕らの前に断絶していた。
薫のことなんて、遠心力でもって追いやられていく。
高速で旋回するメリーゴーラウンドを回すのは、もう薫じゃない。
稚拙で懸命な行進曲が、追い風となってメリーゴーラウンドをそっと後押しする。
どうしてだろう。
ただ愛おしかった。好きということとは違って、愛ということでもなくて、ただ唐突に、愛おしいと思った。
希望に溢れた歌で彼女の守る、半径五メートルの世界がただ愛おしかった。
その円の中に今、観客としてでも含まれていることが、ただ嬉しかった。
「……あの、タツヤさん?」
気付かないうちに、演奏は終わっていたらしかった。
ちょっと困ったように首を傾げた彼女が、僕の顔を覗きこんでいて、どぎまぎする。
「あ……ごめん、別のこと考えてた」
「じゃなくて……」
彼女はなんとハンカチを差し出してきた。つぶらな瞳のウサギがこちらをじっと見つめる。
泣いているのか、と思った。
僕は、泣いているのか。
「ごめん。ありがとう」
目にハンカチを押し当てると、柔らかく涙が吸収されていく。
「それ、タオル地なんで、結構いいと思いますよ。泣くときに重宝しますよ」
戸惑ったのか彼女もよくわからないことを言っていたけど、今はその優しさがただ沁みた。
「ねえ」
「はい」
「メリークリスマスの『メリー』って、メリーゴーラウンドの『メリー』と同じ単語なんだよ」
「エムイー、アールアール、ワイ?」
宙に綴りを書くように彼女が指を動かす。
「そう。メリーって、陽気な、って意味なんだって」
「へえー」
なんでそんなことを言っているのかわからなかったけど、彼女は感心したように相槌を打ってくれる。
今日がクリスマスだからとか、メリーゴーラウンドについて考えていたからとか、そのくらいしか理由はなかった。
「メリークリスマスって、クリスマスおめでとうって意味だと思ってました」
おもむろに彼女が弾き出したのは、『ジングルベル』だ。
「俺もそう思ってたよ」
「じゃあわたしたちって、毎年、陽気なクリスマス♪ って言い合ってるんですね。お互いに」
「そういうことになるなー」
もうすっかり暗くなった公園に、スローテンポなジングルベルの音がこぼれる。
忘れていこう、と思った。
辛い記憶は自主的に忘れられるものではないけど、幸せな記憶で一時的に塗りつぶすことならできる。
薫の思い出の破片の上に、聖夜に迷いこんだ音符が沈殿していけばいい。
そしてその上をがむしゃらに走り抜ければいい。
「ハンカチさ、洗って返すから」
「はい」
「だからさ、メルアド教えてもらえないかな」
ジングルベルが途切れて、はっきりした声が答える。
「……はい」
辺りの温度が一時的に上昇した気がして、何かに導かれるように空を仰いだ。
雪が降り出すような奇跡まではやっぱり起こらないみたいだったけど、十分すぎるくらいに幸せだと思った。メリークリスマス、とつぶやいてみる。
陽気な予感に満ちた第二ラウンドはまだ、始まったばかりだった。