絵筆がキャンバスを滑るたび、がさがさと音がした。
筆先に浸した油絵の具がアイボリーがかった素地を青く青く染めていく。
油絵やデッサンや石膏像がひしめく美術室は、とにかく色彩というものが凄まじく溢れていて、私は授業でここに来るといつも、ひっくり返したパレット、と思う。
古びた床板をきしませながら先生は、ゆっくりと教室中を歩き回った。そうして言った。
「なんでも好きなものを書きなさい。静物画でも、抽象画でも。
大切なのはね、心の赴くままに、筆を躍らせることだからね」
好きな、という単語にほんの少しだけ肩が跳ねた。
「つまりね、絵っていうのはダンスみたいなもんで――ほう、小出は下塗りが上手いね、几帳面だ」
思いがけず褒められたので、ありがとうございますと返しておく。
ていねいに塗っていたのは几帳面だからでもなんでもなく、何を描くか決めるのを一瞬でも遅らせたかったからだ。
「せんせーいっ」
美術室の後ろのほうから、鈴の音みたいな声が響いてきた。
「なんです?」
「それって、人物画とかでもいいんですかー? 例えば、似顔絵とか」
「ああ、構わないよ」
人物画。今度はスカートにくるまれた膝がびくりと揺れる。
――だけど下地を青く塗っている時点で、私の描きたいものなんてひとつしかないのだ。
キャンバスの上に平たく伸ばした青は、少し黒みがかったその色は、凛としたあの背中を思い起こさせた。
いまにも夕闇に溶けこみそうな、紺色のブレザーに包まれた後ろ姿がありありと浮かんでしまって、そうすると私はてきめんに息苦しくなる。
ドキドキして心が苦しい、なんて可愛いイメージではなくて、肺をくうっと押し潰されている感じに。
いっそ記憶ごとひねり潰してほしい気もしたけれど、そんなのは現実的じゃなかった。
そして内臓が締めつけられるごとに、会いたいなどと思ってしまうのだった。
午後の授業はなんといってもだるい。
食べ終えた弁当がお腹の底にでんと居座っていて、教壇からは世界史の授業が降り注いでくる。睡魔がこちらに手を差し伸べてくるのが見えるようだ。
『眠いー』
ノートの隅っこにささっと落書きする。
勢いづいて、先生をデフォルメした似顔絵を描く。
立て続けに不細工なウサギのイラストを描いた。
だらしなく開いた口もとからふきだしを伸ばしたところで、何と入れるか迷った。
眠い、はもう書いたし、スタイリッシュな台詞も思いつかない。
なんとなくシャーペンを走らせると、あり得ない文面ができあがっていて焦った。
『会いたい』
丸っこい四文字に、すうっと心が凪いだ。何もかもが凪いだ。
授業が沈殿していくばかりの教室も、スカートから滑りこんでくる隙間風も、友達とお揃いのシャーペンも、すべて掻き消えるようだった。
私という存在がいま、ノートの隅に集約して息づいている。
――会いたい
* * *
消えてしまえばいい、ゴミ箱みたいな学校も、そこに閉じ込められたホコリみたいなクラスメイトも。底のほうでへたばっているガムのくずみたいな私も。
ゴミを根絶やしにしたいなら、入れ物ごと燃してしまわなきゃダメなのだ。
夕空を切り裂いて、ブランコを漕ぐ。
ひと漕ぎごと近づく太陽が、いっそ全部燃やしてくれればいいと思った。
――このまま太陽が落っこちてくれば、全部灰になっちゃうんだけどな。
「うわ、物騒」
どこからか笑い声がした。ブランコから降り立ち、さっと辺りを見回す。
橙色がたちこめる公園の真ん中、すべり台にもたれかかる少年がいた。
彼は隣町の中学の制服を着ていた。紺のブレザーは、うちの学校の野暮ったい学ランとは違って、なんだか輝いてみえる。
「物騒て……え?」
「灰になれとかなんとか。言ってたじゃん」
上の空で全部つぶやいてしまっていたみたいで、それを見知らぬ少年に聞かれていたかと思うと頬が熱くなった。
なんとなく彼へ歩み寄っていく。
「別に本気じゃないよ。学校なんて消えちゃえって、普通に思わない?」
彼は儚げに笑った。すべり台の剥げかけた塗装を爪でこすり始める。
「……君は」
夕日を浴びて茶色く見える髪が風になびいた。
「いじめられてる、の?」
さあっと心が冷えたのは、何も冷たい秋風のせいではないと思う。
「違うよ、だけど」
中学に入ってすぐ、教室には特有の空気が満ち溢れていた。
誰もがこぞってクラスメイトをふるいにかけ始めた。仲良くなれそうな者にはにこやかに近寄り、フィーリングの合わない者からは遠ざかる。
そんな中、淡々と自分を貫いていた私だけ、ぽつりと残った。
「みんな、醒めきった私が気持ち悪かったんだって思う。
どこのグループにも入れなかった。入りたかったわけじゃないけど、なんか寂しかった」
「わかるよ、醜く見えたんでしょ」
クラスメイトが、と付け足した彼の横顔がやけに大人びて見えて、少しだけ心が跳ねる。
「そうなの」
きれいな上っ面で接して、そのくせ裏ではどす黒い本音を吐き出していて、そんなクラスメイトたちがたまらなく歪んで見えた。
それが大人になるということなら、私は子どものままでいい。
私が出した結論もまた歪んでいた。
だから、常識できっちりならされた「学校」という枠に、私はうまく収まらなかったのだ。
「でもね、醜いのはほんとは私なんじゃないかって、思うんだ」
藍色を帯び始めた空気がぴんと張った。
ああ琴線に触れたんだ、と思ったときにはもう、彼は苦しげな顔をしていた。
「ごめんね、えっと」
「いいんだ、違う」
会話にならない会話をでたらめな軌道で交わす。
彼はなぜだか私に背を向けた。
「自分だけが不幸だっていう、そういう考え方、やめたほうがいいと思う」
まっすぐ、すべり台を見据えた形で彼は言う。
「みんな不幸なんだよ。それと同じくらいみんな幸せなんだよ」
違う、と感じていた。少しずつ深まっていく闇の深さはいつもとどこか違うし、私と彼とが抱えている闇の深さも、あきらかに違った。
紺のブレザーをまとった背中は、そのまま夕闇に溶けていきそうな気がする。
ダメだ、と唐突に思った。
放っておけば、彼がこのまま消えてしまう気がした。
捕まえなくては、ほんの端っこでも。
「ねえ」
ん? と彼は言う。
「今日初めて会った私に、なんでそんなこと言ってくれるの?」
「……ああ、ごめん。押しつけがましかったな」
糸を摑め。か細くとも。
「じゃなくて」
赤い糸なんかでなくても、たとえ蜘蛛の糸だとしても。
「嬉しかったの、ありがとう」
彼は私に背を向けたままだったけれど、雰囲気というか重苦しくしょいこんでいた荷物というか、そういうものがするりとほどけていくのがわかった。
中身のないような話をしただけで、なんだか脱皮でもしたみたいに気分が軽い。
「どういたしまして」
彼の声が柔らかく響いた。顔こそ見えないが、笑っているのだと思う。
「いや、待って。満足したの私だけだから。お返しになんでも相談していいよ」
慌ただしく畳みかけると、今度こそ小さく笑い声が聞こえた。
そのとき、ふっ、と気づいたことがある。
花開くように、天気雨が降り注ぐように、放り投げられたように唐突に、私はいつしか恋に落ちていた。
ゆるやかに、いきなり、好きだと思った。
「相談なんてないよ。だけど」
「だけど?」
「うん、なんていうか、俺も頑張るから、君も頑張れ」
くっきり澄んだ夕闇に、ブレザーの輪郭が曖昧に溶け出している。
泣きだしたいくらい、美しかった。
青空と境界線を分かち合う水平線にも似た美しさだった。
同じくらい美しくて、同じくらい儚くて、同じくらい手が届かなかった。
軽く空を仰いだ彼はもうここではないどこかを見つめていて、意識はきっと私とは違う世界に飛んでいる。
芽吹いた瞬間から、実りはしないと決められた花だ。
「俺、そろそろ帰るよ」
「あ、うん、そうだよね」
引き留める理由もない。丸めた手に、くっと力が籠もる。
「……なんかさ」
「ん?」
「君とは初めて会った気がしないな、なんか」
芽吹いた瞬間から、実りはしないと決められた花だ。
けれど、実ろうと実るまいと、一度芽吹いた花は咲き続ける。
「私もね、そう思ってたところ」
「そっか、じゃあさ」
小さくついた嘘を疑いもしないまま、彼はそんなことを言った。
「またいつか会おうよ」
きっといつまでも、咲き続ける。
* * *
彼の顔も声も、記憶の中でかすんでしまったけれど、あの日の風景と流れていた空気と、なにより見つめっぱなしだった彼の背中だけははっきり思い出せる。
三年前、ささやかに恋をした。
遠ざかっていくのを見ているしかない拙い恋だった。
「小出はなにを描いているのかな」
迂回してきた先生が、にこやかにキャンバスを覗きこむ。
ささやかだった。拙かった。
けれど決して弱々しくはなかった。簡単に散りはしなかった。
「花です。花を描いてます」
自分自身に宣言するように、きっぱりと言った。
「紺色の? これだと背景と同化しちゃって駄目だ。バックは白くしなくちゃ」
「後光がさす感じにしたいんです。花がバーッと光る感じ」
「後光かい。というと、神様みたいな、あれかい」
ぴんとこないとみえ、先生は不服そうに頭を掻いている。
「はい。光で花のシルエットが浮かび上がるんです」
「……まあいいか、頑張りなさい」
お手上げ、といったふうにひらひら手を振って、先生は美術準備室に引っ込んでいく。
油が浸みこんで艶やかに光る筆先に、夜色の絵の具をたっぷり含ませる。
しゅっと消えた美しい夢の続きを、きっと描いてみせる、と決めた。
過去を塗りなおすことはできない。だけど、塗り変えることはできる。
ここから終わらせる。
あるいは、ここから始める。
かすかに残る素地めがけて筆を滑らせた。柔らかにしなった絵筆は夢の軌道を描いて、真っ白に呆けたキャンバスを埋めていく。埋めていく。埋めていく。どこまでも埋めていく。