阪神淡路大震災から29年
こんにちは
2022年に、ヘーベルハウスで家を建てたRenです。
自己紹介はこちらをどうぞ。
マムさんの阪神淡路大震災被災記録から、当時、東京にいた私を振り返ります。
あの日、1995年、私は大学1年生でした。
都内の大学でよくある、1年時のみ遠方のキャンパスで、毎日2時間半以上かけて通学していました。
1限の講義のために朝5時に起きて通学するし、携帯はまだ一般に普及していない時代。
お昼に学食のテレビを見て、どこで戦争が始まったんだろう?と思ったら、阪神淡路大震災でした。
叔母は被災地に居住していたけど
当時、叔母が兵庫県尼崎市に居住していまして。
叔母の義父が建てた(=オーナー)鉄筋コンクリートのマンションに暮らしていました。
義父は超神経質な人だったそうで、旧耐震基準の時代に、H型の筋交を入れて建築したそうです。
無駄にお金をかけていると言われたそうですが、おかげで、周りで多くの家屋や建物が損傷する中、全く無傷だったそうです。
叔母は、家具も固定してなかったけど倒れなかったし、食器も割れなかったと言っています。
その話を後から聞いて、愕然としたのが母と私です。
はじめて地震が起きるとどうなるか知る
今でいう相対的貧困家庭、というのでしょうか。
当時は、戦前に建てられた、家の中(敷地内ではなく玄関の内側)にマンホールがある家に住んでいました。
意味不明ですよね?
東京23区内でもそのような家があります
窓が開かないとか閉まらないとか、バスが通ればミシミシ揺れるとか、そんな家でしたし、さらに舗装されていない崖の上にありました。
大地震が起きれば、家は潰れ、崖が崩れるのは確実でしょう。
そして、家具は何もかも全く固定していませんでした。
子供の頃から、関東大震災はおおよそ70年おきだから、いつ起きてもおかしくないと聞いてはいましたが、火を消して、机の下に隠れるくらいしか知りませんでした。
大地震が起きたら何が起きるのか、はじめて目で見て知ったのが阪神淡路大震災でした。
災害対策マイナス100くらいの現実からのスタートです。
突っ張り棒で冷蔵庫やタンスを固定してみたり、それくらいですが。
貧乏だったので、貴重品なんて両親の財布?がせいぜいでしたし、食料の備蓄なんて、それより前に今週生き延びる食料調達で精一杯でできませんでした。
なお大学へは、祖父母の支援に、給付奨学金をいただき、さらに貸与奨学金も借りました。
しかし、そこから母が粘って、数年後に、当時の耐震基準のマンションへ脱出しました。
その過程で、私もきょうだいも順に社会人になり、徐々に徐々に、災害に備える余裕ができました。
千里の道も一歩から
2022年に家を建てる機会に恵まれ、災害対策を第一優先としました。
今の我が家をみると、めっちゃ備えているとか、余裕があるからできるとか言われます。
29年かけて先人に学び、その時その時、やれることを積み上げてきた結果です。
どれほど小さくても、一つ対策すれば、危険性が一つ減ります。
文字通り、千里の道も一歩からです。