悟りへの道 -42ページ目

悟りへの道

今にある 
-笑う門には福来る、有難いことに気づく人は幸せである、後悔より未来へ1歩、いいんだよ-
仕事、本、感じたこと、学び、今は、悟り的考え、等いろいろ書いています。

奇跡記録(とても運が良かったことの記録):

 

●ドアノブが直った♪

 

勝手口側のドアの

ドアノブが

 

急に!

とれた

 

なんとか鍵は回せるが

「あーどうしよう!」

 

と防犯上の

心配が頭をよぎった

 

しかし、

どうして外れたか

折れたのか

 

いろいろ原因を考え

試行錯誤していたら

 

はめられた!

 

ありえない初体験が

今日も良い方向へいき

ついているなぁ

 

 

 

●兄弟から相談の電話あった件

 

なぜか

違う兄弟から

代わる代わる

 

相談の電話がある。

 

 

一方からあったら

また一方からある

 

それが、

ここ3回ぐらい続いている。

 

 

そして

愚痴や悩みが

 

似ているのだ。

 

 

お互いにそのことを

伝えると、

 

両者とも

その悩みとは違うというところも

似ている。

 

 

正誤は分からない。

 

 

しかし、

話を聞いていると

 

シンプルにおさえるべきところが

みえてくる。

 

 

両者ともに

そのシンプルな部分

重要な部分だけを伝えたら

 

少し

光を見出してくれたようだ。

 

 

そんな視点をもえたことに

ついているなぁ、

ありがたいなぁ。

 

 

 

私もみなさんも

ますます健康で幸多き人生を生きます。

 

 

今日、両親について気づきがあった。

父に対して、私は、こんなイメージをもっていた。

 

・機嫌が悪いとすぐ怒る

・兄弟喧嘩していると、

 年上の兄弟の方を怒る

・怖い(優しくない)

 

幼い頃、

気持ちを分かってもらえず理不尽に感じていた。

 

 

 

 

 

最近は、

自分の子供のころの記憶は、

 

自分の

未熟な幼い経験の少ない

 

視点、価値観によるモノサシなので

再考が必要だとは気づいてはいた。

 

 

 

 

ふと、今日、

「本当に、父は怖かったのかな?」

 

と思った。

 

 

 

 

 

昔は、

社会人は

週休1日など

今より休みが少ない時代だった。

 

父もそんな勤務体系だった気がする。

 

 

 

 

 

父は当時、

30代などで若かったし、

体力はあったと思う。

 

 

 

 

しかし、

 

今思えば、

 

・仕事で毎日疲れていたであろう

・子供も何人もいて責任を感じていたであろう

・帰宅後や週末はゆっくり静かに休みたかったであろう

 

と思う。

 

 

 

 

 

 

幼い時は、

そんな風に

 

父の立場を思いやれるなんて、

 

まったくなかった自分。

 

 

 

 

 

わがままなタイプでなく

おとなしい自分ではあったが、

 

どこかで

・ほかの親と比較し

・怒られれば優しくないと思い

・思い通りにならないことを不満に思う

 

そんな子供の視点は十分あったと思う。

 

 

 

 

 

 

もちろん

子供の気持ちを理解し

優しい言葉でさとす

 

そんな対応を

30代の父親でも

 

出来る方はいるだろう。

 

 

 

 

 

 

でも、

30代といえば

 

まだまだ成長途中。

 

親としても

人間としても

 

だと思う。

 

 

 

 

 

仕事と子育てしながら

人生を学ぶ最中の

年代だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

そういう視点が

出てきた。

 

 

 

 

その年代の父が、

 

仕事で疲れ、

仕事での悩みの1つでもあったら、

 

帰宅後

子供が騒いでいたら、

 

うるさいぞ!

と怒鳴りたくもなっただろう。

 

 

 

 

 

 

 

その年代の父が、

 

週末になり

疲れがたまり寝ていたら

 

兄弟げんかを子供がしていたら、

 

うるさい!お姉ちゃんなのに何やっている!、

ぐらい言いたくなるだろう。

 

まず、そんな理解が、自分の中に起きた。

 

 

 

 

 

 

 

そして、

もう1つ。

母親のことにも気づきがあった。

 

 

 

 

 

 

やさしくて

家事もよくやってくれ

家事の文句ひとつ言ったこともない

父親が大好きな母。

 

 

 

 

 

母は、

その”怖い父”になにも言わず、

 

母もたまに

怒鳴られていたので、

 

”母やかわいそう”、

 

と小さいころは思っていた。

 

 

 

 

 

 

大人になって、

 

母はかわいそうではなかったなぁ、

と少し気づくようになってくるのだが、

 

小さい頃は気づかなかった。

 

 

 

 

 

 

そして、

 

母も

若かったので

成長段階で仕方がないが、

 

母の対応ひとつで

 

父が怖く感じなかったかもしれない、

 

さらには

父に子供ながら理解と感謝も

できたかもしれない、

 

と思ったのだ。

 

 

 

 

 

 

父に怒鳴られた時、

 

母にこう言われたらどうだったろう?

 

 

 

・お父さん怖かったんだね

・お父さん疲れているのかな

・お父さん家族のために1週間働いてくれているんだよ

・お父さんのそれは、とても大変なことなんだよ

・お父さんに、ありがとうしようね

・お父さんが寝ているときは

 ゆっくり寝てもらって疲れとってもらおうね

・起こさないようお母さんと静かな楽しい遊びしようか

 

というような声掛け。

 

 

 

 

 

 

 

そんなことを

母に言われていたら・・・、

 

もちろん同居していれば

 

祖父母

叔父叔母でも

 

いいとは思う。

 

 

 

 

 

 

 

しらなかった視点

みえなかった視野

を広げてもらったら、

 

・大人にはそういう事情があるのか

・お父さん怖かったけれど、

 家族のために頑張ってくれているから

 疲れているんだ。

・働くって大変なんだな

 そんな中頑張ってくれているんだ

・疲れているとイライラしちゃうことがあるんだな

・お父さんが休んでいても

 あらたな楽しみをみつけて自分を楽しませよう

・お父さんに元気になってもらいたい

 

こんな

考えをもてたように思う。

 

 

 

 

お父さんは、

怖い、嫌だ、男の人怖い、でなく、

 

お父さんには、

お仕事頑張ってくれていて、感謝、

自分で別で楽しくしていこう!へ。

 

 

 

 

 

 

そう、

母の対応が違っていたら、

 

父への印象が変わっていた、

と思ったのだ。

 

 

 

 

 

でも、

その母も

 

その時点では

そういう視点がもてず

 

子供に

そういう言葉がけができなかった

 

のだと思った。

 

 

 

 

 

母が、

その視点がもてなかったのは、

 

母の母親や

誰か大人から

 

そのように

言ってもらう機会がなかった、

 

のだろう。

 

 

 

 

 

 

 

さらに広げて考えると、

何かを悪い、

誰かを悪い、

 

と思うとする。

 

 

 

 

 

 

 

でも、その人も

さきほどの母のような存在が

近くにいたら、

 

悪いという印象を

もたなかったかもしれない。

 

 

 

 

 

さらに

その母のような存在の人が

 

さらに大人に

視点を広げてもらえる機会があれば、

 

・・・

 

 

 

 

広げていくと

無限になるが、

 

 

 

 

つまり、

 

本当に、

それは

悪かったのか?

 

ということになるのではないか?

 

 

 

 

 

 

 

私が書いたような

親への勘違いをしている人は

たくさんいると思う。

 

 

 

 

 

でも、勘違いしてというか、

そうという視点しかもてない状況だったら、

仕方ないともいえる。

 

 

 

 

 

世の中、ある意味

勘違いのしあい

 

つまり、

違う物差し

(視点、価値観、常識)

 

で測りあい、

 

互いに一部しかみえずに

過ごしているのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

諸行無常と

世の中常なるものはないというが、

 

視点においても

 

常なるもの(正しき絶対なるもの)

 

はないのかもしれない。

 

 

 

 

 

視点について

何もこだわる必要がないのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

機会があれば、

父にそんな気づきによる思いも

 

感謝も含め

 

話してみたい。

 

 

 

 

 

 

視点を広げ

楽に

柔軟に

幸せに。

 

 

 

 

 

 

 

私も、みなさんも、

ますます健康で、豊かで幸多き人生であります。

つい数年前まで、

「天職」を探したい、

とこだわって

求めてきた自分がいた。

 

だいぶ錯覚にとらわれていたように思う。

 

 

 

 

自分の思考や価値観の

考察をしていくと

 

若い頃の

狭い幼い視点

限られた知識

 

によるモノサシで

 

判断してきたことを

 

大事な価値観として

大事にしてきたことに気づいた。

 

 

 

 

うすうす

そう思っていたが、

 

昨日時間をかけて

考察したことで

 

「確信」になった。

 

この話はまた

機会があったらしたいと思う。

 

 

 

 

 

 

そんな幼い頃の

狭い価値観を

 

つい最近まで握りしめていた

ということ。

 

 

 

 

 

そういうことは

この世の中に多数あると思う。

 

 

 

 

 

多数でなく、

私もそうだったように

 

ほぼ”全て”の人が

 

幼い視点で

思い込んだモノサシで

 

生きている気がする。

 

 

 

 

 

なぜ大人になっても

変えられないのか?

 

 

自分のモノサシを

大人になったら再考するという

ことが

 

今の世の中では

 

「常識」

ではないからだと思う。

 

本当は

大人の必修角科目として

20才

30才など節目に

 

再考することが

本人のためにも

世の中全体のためにも

常識になることが大事であるように思う。

 

 

 

 

学生時代は、主に

・知識(学歴)

・お金(良い学校、良い会社、よい給与)

・地位・名誉

 

が大事だと習い、

 

大人になっても、それに

・仕事

・健康

・恋愛(結婚)

・楽しさ(娯楽、刺激)

 

が加わるぐらいで、

心が大事などとは

一切でてこない。

 

 

 

 

 

 

それらの基準を

比較、比較、そして、比較し、

 

思い通りにならないことへ

 

怒り・嫉妬

自己否定

 

の苦しさにとらわれ、

思考と感情にとらわれ

 

前より人よりもっとを求め、

刺激を求め、

 

人生を送る。

 

 

 

 

 

 

そんなイメージが

人生になっていないだろうか。

 

人生はそんなものだと

思い込んでいないだろうか。

 

 

 

 

 

 

本当は、

 

モノサシの再考や

他人とはモノサシが違う事を理解し、

 

比較しすぎていることに

いや比較自体する必要があるかに

疑問を抱き、

 

自分の思い通りにしたい

そうなるべきだとの思い込みに気づき、

 

平安な心で

今にありながら

出来事、物事、自分の思考、感情、体を見ていく。

 

 

 

 

 

そんなことを

大人の道徳として

学ぶ機会があるべきな気がした。

 

 

 

 

 

小学校でならった道徳

・みんな仲良く

・明るく

・元気に

 

小学校からすりこまれた

・成績よいことが価値あり

・運動が得意なことに価値有

・容姿がよいことに価値あり

・それ以外はたいして評価されない

 

という視点。

 

 

 

 

これが本当だという

モノサシになっている人が

ほとんどだろう。

 

 

 

 

それは

本当に本当か?

 

 

 

 

 

それを再考する

静かな心

 

それさえも

TV

ネット動画の騒がしさ

 

見えなくされている

とさえ思う。

 

 

 

 

「道徳」という言い方が

適切でないような気もするが、

 

「初期仏教」的な考え、

 

「人間の本質論」的な考え、

 

「悟り」への考え、

 

それを大人のための授業として

世に広まることが

 

大事ではないのかなぁと

思った。

 

 

 

 

天職をもとめてさまよい

今をみてこれなかった

自分の学びの先にあった

 

静かな心で

今にあれなかったことに懺悔の気持ちをもちつつ

 

感じたこと。

 

 

 

 

 

私もみなさまも

笑顔で健康で豊かでますます幸多き人生であります。

 

 

 

 

タイトルのことは

過去にも自覚していて

どこかのブログにも書いたと思うが、

 

あらためて自覚したことを

書いておきたいと思う。

 

 

 

 

 

思考を見つめて見つめて

 

さらに最近は

自分の動きを見つめて見つめて

 

過ごすようにしている。

 

 

 

 

 

先日、親が

「買ってあげたスマホをなくした」

と朝の8時半から連絡してきた。

 

※ 結論を先に言うと見つかった。

 

 

 

 

しかし、

見つかるまで

親自身はそれ以上の対応ができないからと

 

ネットで調べたり

携帯会社に連絡し

停止したり

立ち寄った店に連絡したり

親に何度もれんらくしたり

・・・

 

予定していたことができず

みつかるまで

結局、2時間ぐらい時間がかかった。

 

 

 

 

 

自分しかスマホ探しができないので

やってあげたのだが、

 

・なんでなくすの?→ 手間をかけさせて

・スマホ代まで払ってあげているのだから

 → しっかりしてよ

・親にスマホもたせたからなぁ →面倒がおこる

・・・

 

などという思考が

パパパッと出かかったのに気が付いた。

 

 

 

 

その時に

イライラしかかった。

 

 

 

 

さっきまで、

「仕方ない、まあやってあげるか」

で淡々としていたのに。

 

 

 

 

●いくつも面倒なことを頭に浮かべかけた

●思考に意識がいきかけた

●焦って「早く済ませたい」と行動しかけた

●複数のことを同時にしようと急いでいた

 

こんなことが背景にあった。

 

 

 

 

 

 

そう、

出来事自体が

苦しいわけではないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

「思考」がでて

イライラしかかった。

 

思考が苦しみの原因で、

思考がなければ苦しくなかった。

 

 

 

 

 

さらには、

その前に焦っていると我を失い思考が出やすい

「体の動かし方」もあった。

 

 

 

 

 

 

そして、

その「思考」には

・自分の「モノサシ」こそ正しい

・自分の思い通りにしたい、

という

 

ほとんどの人がもっており

これを基本に生きている

自分のモノサシが絶対正しいという

間違った信じ込みがある。

 

 

 

 

 

 

 

話を戻すと

 

あぁ思考がでた!と気づけた時点で

これでイライラしかかっているなぁと、

 

思えた。

 

 

 

 

 

 

少し焦って

急いで動いていた自分にも気づいたので、

 

落ち着いた動きで

1つ1つ出来ることをしよう

決して焦って先のことを考えすぎない

スマホを親が亡くさないようにすることは大事だが

スマホを持たせるのをすすめたのは自分だ(縁起)

自分にも何かしらの改善点があるはずだ

 

そんなふうに考え、

 

平安な気持ちにもどり

スマホ探しをするように切り替えられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日も

大掃除をするとき、

イライラしかかった。

 

思考がいっぱいでていた。

 

それを落ち着いた動きに変え

することを1つ1つ書き出し

ゆっくりと1つ1つ用意し

1つ1つの掃除に集中し

決して急ぐことなく

平常心でこなしたら

 

大掃除も

 

大自然でくつろいでいるような

ゆったりした気持ちで

 

気づけばずっと早く

掃除が終わっていた。

 

 

 

 

 

 

●ゆったりした動きを大事にしているか

●焦って次へ早く効率的にと思い

 物事をこなそうと(妄信)していないか

●思考に気づける速さで生きていれているか

 

 

 

 

 

毎日学びだなぁと

本当に思う。

 

 

 

 

 

動きを大事にし

思考をとらえることを大事にし

 

また平安な自分を

さらにつくっていきたく思う。

 

 

 

 

 

 

 

私とみなさまが

さらに健康で豊かで幸多き人生でありますように。

 

 

この2年間は激動の2年だった。

 

今日、過去の自分のブログを

読み返してみた。

 

最近”悟ってきた”と思っていたら

 

あの頃から

 

「自分の思考を見つめる(見張る)」

スタートを切っていたのだな、

 

と思った。

 

 

 

 

 

あの頃から

 

自分の思考や

自分の思い込みに

 

気づき始めていた文章をみて

結構驚いた。

 

 

 

 

 

そして

あぁそういえばと思い出したことがあった。

 

 

 

 

 

2年前のちょうど9月ごろ、

寝る前と

起きた時

 

希望する人生を短い

「単語」

にして

 

唱え始めていた。

 

 

 

 

 

内容は、

健康、家族、お金など

各方面のことも唱えていたが、

 

こうも

唱えていた。

 

そして、今も

気づけば唱え続けている言葉がある。

 

 

 

 

 

●悟り悟り悟り

●仙人仙人仙人

●真理真理真理

 

 

 

 

この3つ。

 

 

 

 

 

最近では、

ちょっと書くのが恥ずかしいので

書かないが

 

唱えていることがある。

 

それも

気づけば

ある意味叶ってきた。

 

 

 

 

 

話を戻すと

 

●悟り悟り悟り

●仙人仙人仙人

●真理真理真理

 

この3つも

ある意味叶っているのかもと

思った経験がある。

 

 

>●悟り悟り悟り

 

悟ったというと、

反発がありそうだが

悟りには52段階あるというので

初歩の段階ぐらいにはいると思いはじめているのは

許していただきたい。

 

ただ

少々「悟り」について

分かってきたことは確かだと思う。

 

そしてものの見方が変わった。

 

 

 

>●仙人仙人仙人

 

これも

はッ!としたことがあった。

 

兄弟から

半年前ぐらいだろうか、

 

「〇〇(私のこと)、仙人みたい!!」

 

と驚かれて

そう例えられた。

 

心の中で、

アッ!叶ってしまったかも、

と思った。

 

 

 

 

>●真理真理真理

 

物事の真理を知りたいと思っていた。

 

以前のブログで

こんな記事を書いたことがある↓

 

その2~その5 まであるが、

今は

少し考えが違っているのだが、

 

ただし、「その1」に書いたことは

今でもそうだと思っている。

 

 

 

心がなぜか苦しくて

何を得ても不足感が

ぬぐえなかった自分。

 

外に答えをみつけて

色々なところを訪ね、求めたが

どこにも”救い”がなかった。

 

”真理”は

もう外にはない。

 

もう外に求めることは

決してしない。

 

そう決心した時でもあった。

 

 

 

 

 

そして

毎日、

 

悟り、仙人、真理

 

と唱え続け

外に逃げずにいたら

 

現在の状況になった。

 

 

 

 

外に答えはないという

 

絶望感というか

諦め感というか

孤独感というか

 

その絶望の中に

幸運の種があったなと思う。

 

 

 

 

真理は

本当にシンプルだと思う。

 

 

 

一瞥体験とか

ワンネス体験とか

1つだったキラキラ体験というか

 

そういうものは

体験していない。

 

 

 

 

しかし、

自分を

見て見て見て

 

自分の言葉で

考えて考えて考えて

いけば、

 

物事の真理がわかってくる。

 

苦が減り(苦ととらえられなくなる)

心の平安が増えていく。

 

心の持ち方というか

心のとらえ方というか

物の見方というか

本当の自分というか

 

押えるべきところは

本当はシンプルで少ない。

 

 

 

 

 

そんなことを

この2年で学べたと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

今日、鏡の法則で有名な

野口さんの動画が目についたので見て見た。

 

 

 

 

昔の自分だったら

よい動画だと思ったかもしれない。

 

たぶん、

幸せになりたくて食いついて見ていたと思う。

 

 

 

 

 

でも

批判でなく自分の今の感覚で書かせていただくと

 

●多いなぁ

●複雑だなぁ

●各所、真理にかすっているけれどずれているなぁ

(これだと、たぶん、また皆さん苦しくなるだろう)

●よい知識とかよいコツとかじゃもうないのだけれどなぁ

●もし観客のみなさんがこれを聞いて生かしたいなら、

 自分で1つでも考えて府に落とすことが大事だなぁ

●”自分”の課題~対処にまで落としたら、日々の実行するのが大事だなぁ

●その次にまた問題からたまた課題が見つかり、自分の内側をみつめ、自分がどうしてそう思ったのか、どうしてそう対応したのか、自分のモノサシは何だったのか、人に何を期待していたのか、それは正しいのか、などにまで落とし(自分の信じてきたことを省みて)、また自分の”言葉”に落とし込み、課題、対処にまで落とし込み実行、その繰り返しで成長していくことが、大事ではないのかなぁ

 

そんなことを思った。

 

 

 

 

 

あくまで例えとして

”野口さん”の動画

だけあげてしまっていることは

申し訳ない。

 

 

 

 

言いたいのは、

 

こういうコツとか知識で

皆さんの気持ちを楽にしようと

いう動画や本等が

 

本当に今だ多いと思うということ。

 

 

 

 

発信者・著作者のご本人の多くは

真理を

知らないだけで、

真剣にやってくださっているとは思う。

 

 

 

 

 

これも起こっていることだけなのかもしれないし、

ここからさらに自分が学べばいいだけなのかもしれないし、

野口さんのような方がいいとか悪いとかでもない。

 

 

 

 

 

このような世に発信されている

複雑さをよりシンプルに

さらに学んで

日々精進していきたいなとは

思った。

 

 

 

 

長くなったうえ

話がタイトルより飛んだが、

より精進していくことは努めたい。

 

自分およびみなさんが

より健康で豊かで幸多き人生でありますよう。

 

ありがとうございました。

 

奇跡記録(とても運が良かったことの記録):

 

●シロヤモリを見かける

 

「ヤモリ」は「家守り」ともいい

家を守ってくれる

よい生物だと言われている。

 

1,2か月前だろうか、

自宅で

 

ヤモリ、そして、シロヤモリも2回

を見かけた。

 

家にヤモリがあまり出るのは

どうなのかなぁ

ということは置いておいて、

 

特に「シロヤモリ」は

運が非常によくなり、

 

特に

金運爆上がり

になると言われている。

 

その

「シロヤモリ」の赤ちゃんを

玄関で見かけた!!

(※ヤモリってとてもかわいい顔しています)

 

金運の赤ちゃんが

さらに大きく育つということだなぁ。

ありがたいわ(*^-^*)

 

 

 

●親を「名医」に診てもらえた

 

高齢の親が背骨の圧迫骨折をしたのだが

かかった総合病院の医者が

 

何も説明したい古いタイプのお医者さんで

痛みもとれなく

不安のまま1ヵ月たったとのこと。

 

自分が以前かかり

良く説明してくれ

予後もよかった先生のところに

急遽つれていくことになった。

 

 

 

すると、

触診をして各所の不具合もみてくれるは

レントゲン撮影前にだいたいの診断をつけるは

レントゲンをみながら骨のしくみ~この病気についての

詳細の説明をするは

今後も治療と経過の見立てもしてくれるは

 

親が大満足で

「先生のような名医に診てもらえて本当にありがとうございます」

とドクターにお伝えしていたほどだった。

 

 

 

こういう先生に診てもらえ

親も気が楽になり

 

ありがたいことです。

 

 

 

 

 

自分、そしてすべての皆様が

健康で豊かでますます幸多き人生でありますよう。

 

 

 

人の苦しみの原因が

最近分かってきたように思う。

 

度々書いているが、

 

●モノサシ(自分の価値観、常識が全てとの勘違い)

●比較(他人や自分、今よりもっと人よりもっと)

●自己愛(してくれない、もらって当たり前、思い通りにしたい、思い通りにならない)

●ホメオスタシス(変化したくない、めんどう、未経験への不安、何が起こるかの不安、責任の重いことへの負担)

 

が大きな原因だと思っている。

 

 

 

 

 

これらにより

 

自分の利をうばったり害する人

および、物事があると

 

すぐに「苦しい」となってしまう。

 

利をうばう

害する

と考えるのも本当は勘違いなのだが。

 

 

 

 

逆に考えると

 

「苦しくない」相手とは、

 

自分と関わる際想定内というか”安定さ”があり

自分を大事に”してくれ”

自分の”思い通り”に他者よりは動いてくれ

自分のモノサシと”近い価値観”がある

 

人ということになる。

 

つまり、

自分の過剰な自己愛という欲望を満たしてくれる人。

 

 

 

 

 

愛する人の死。

 

不謹慎な話を書くが、

物の見方なので、

腹を立てたくない方は以下は決して見ないでほしい。

 

 

 

 

物事の見方が変わってきて

 

でも、

人の死については

どこか感情的に考えてしまい、

 

どう考えればいいのかとよく思案してきた。

 

 

 

 

 

>苦しくない相手とは

>自分の過剰な自己愛という欲望を満たしてくれる人。

 

と先ほど書いた。

 

 

愛する人がなくなれば、

誰しも

それはそれは深い悲しみを抱くと思う。

 

 

「愛する人がいなくなって、悲しい」

「愛する人がいなくなって、淋しい」

「愛する人にもっとこうしてあげたかった」

 

最後の

「愛する人にもっとこうしてあげたかった」

はあると思う。

これは、後悔ということでここでは区別しておく。

 

 

 

 

しかし、

 

「愛する人がいなくなって、悲しい」

「愛する人がいなくなって、淋しい」

は、

 

 

 

 

相手を愛していたから悲しいようだが、

 

本当のところは、

 

「自己愛を満たしてくれる手段の1つがなくなった」

悲しみなのではないのだろか?

 

 

 

 

そんなことありえない、

ひどいことをいう、

 

と思う人もいるかもしれない。

 

 

 

 

しかし、本当だろうか?

 

 

 

 

そのくらい、

自己愛の充足を本当は人は最重要としていて

クレクレ星人になっているのが

見えなくなっているだけではないのか?

 

 

 

 

 

 

 

例えば、

親友の死があったとする。

 

その悲しみの理由はなにか。

 

・ 一緒に馬鹿やって楽しい事をしたのに、もういない

・ よく語り合ったのに、もういない

・ いるだけで安心し心がおちついたのに、もういない

・ 本当にお世話になったのに、もういない

・ 何でも唯一相談できる友だったのに、もういない

 

 

 

 

相手を大事に思っているとは思う。

 

しかし

・気楽に  バカを一緒にできる

・難なく  語り合える

・簡単に  心が落ち着く

・普通以上に  世話してくれる

・容易に  なんでも相談できる

 

その他よりずっと入りやすかった

「手段(機能)」

がなくなったから

 

悲しさが起きているのではないか?

 

 

 

 

「人間」だから特別ということではなく、

 

「物」を失っても、

 

何かの

「手段や機能」が

満たされなくなったことに

 

人は

落胆し途方にくれているのではないか?

 

 

 

 

 

 

「苦しみ」の究極は、

人の死ではないかな、

と私は思ってきた。

 

 

下記のストレスランキングでも

 

 

50あるランキング順位の中で

 

上位3位までは

配偶者(パートナー)

の死と

 

死がトップ3を占めている。

4位は、病、とのこと。

 

 

 

 

 

愛する人の死が

「悲しい」

とはどういう思考なのかなと

思ってきたが、

 

少し疑問が解けたように思うとともに、

 

愛する人の死さえも

自分を満たす手段を失った悲しみ苦しみならば、

 

ますます人と言うのは

世の中を

自分中心の見方でとらえている

 

という考えも強くした。

 

 

 

 

 

 

以上、悟り的見方を書かせていただいた。

 

 

 

 

 

失礼があったらお許し願いたいが、

 

現実世界に戻り、

お亡くなりになられた愛する方がいる方の心の安らぎと

そしてお亡くなりになられた方のご冥福を

心よりお祈りしております。

 

よまれた皆様が幸多き人生でありますよう。

 

 

 

奇跡記録(とても運が良かったことの記録):

 

●雨に降られないかもしれない

 

最近、自分含め万物万人に

良き事がある設定をかけている

 

その影響か、

雨に降られないことがよくある

 

「降られない」というのは、

雨は降るのだが、

家に着いたとたん振り出すことが

最近4-5回は続いている

 

逆に、

途中で雨がふってきて

まいった!

ということが減ったように思う

 

ついていてありがたいなぁ

ありがとうございます

今日、同じ症状あり。

印刷できるようになったので、対応をメモしておく。

 

■印刷できない

 

状況:

〇 AのPCからは印刷できないが、BのPCからは印刷できた

  → プリンターに問題はない

  → AのPCのドライバーが古い等不具合の可能性あり

 

〇 AのPCを再起動してみたが、印刷できないまま

  → AのPC自体の問題ではないと予測

 

 

対応:

〇 以下の富士通のHPを見て

  ドライバーを入れなおしてみた

 

 

 

 ●Ctrl+I /プリンターとスキャナー

 /対象プリンターのアイコンクリック

 /「デバイスの削除」クリック

 

 /上部にある「プリンターまたはスキャナーの追加」クリック

 /削除されたプリンターのアイコンが表示される

 /そのアイコンをクリック

 /「デバイスの追加」をクリック

 

 /追加される

 

・・・> これだけで印刷できたので完了

     追加しただけでドライバーも最新のものに

     なった様子(事実は不明だが)

いろいろと

日々、

思考を

見て考察していたら

 

自分の物差しで測り

人と比べつつ

 

やはり一番のポイントは

 

●人に認められたい

●自分は大事にされるべきだ

 

が多くのことの根底に

何かしら関わっている

思考である気がした。

 

 

 

 

 

 

余談だが、

 

それは他人も

おそらく思っていることで

 

そこを十分感じさせる

対人対応をすることが

 

どれだけ大事なことかも

あらためて

実感した。

 

 

味方になり

理解者になり

十分認めるなり、と。

 

 

 

 

 

ただ、

相手の立場や努力は

十分認めつつも

 

場合によっては

いうべきことは伝える

ことは重要だと思っている。

 

認めつつも

自己十分感(自分は十分常に認められるべき人間)には

注意が必要だと思っている。

 

 

 

 

 

ちょうど

昨日

日本一嫌われ者の医師「内藤聡」Dr.の

ブログをはじめて読んでいた。

 

すると

日本人のことだったか

精神疾患のことだったかもしれないが、

 

”自分はものすごく認められるべき人間だ”

※言葉は違っていると思うが。

 

という

思いの人が大変多いという

記載があった。

 

本当にその通りだと思う。

自分にもそういうところがあると気づき

これを書いているぐらいである。

 

 

 

 

 

 

『心がスーッとなるブッダの言葉』

著者アルボムッレ・スマナサーラ

 

の本にも書いてあった。

 

 

 

「上司が挨拶したのに挨拶し返されず

 とても傷ついた。」

例があったとしたら、

 

自分が挨拶をしたら

上司も挨拶を返すべきという傲慢さが

あなたにあったのだ。

 

どう行動するかは

他人の自由なのだ、・・・

 

という記載があった。

 

そうだと思う。

辛いだろうが、そうだ。

 

 

 

 

私は、それをモノサシと読んでいる。

自分は、人に挨拶することは当然と思っていた。

 

でも、それは自分のモノサシでしかないのだ。

 

相手は、同じモノサシを持っているわけではない

ということを理解しないといけない。

 

かつ、

自分は普通にがんばっているし

挨拶もして

挨拶されて当然、

失礼なことをされるはずがない十分な人間、

こんな私に挨拶しないなんてひどい、

こんな思考もこの人には出ていたと思う。

 

自分が価値があると思っている。

まわりが大事にすべきと思っている。

もちろんその価値はあると思うのだが、

他人がそう思うか、

他人がそう行動するか、

とは一致しないと思っていないといけない。

 

つまり

自分が感じているほどの価値感で

他人は自分を

扱わないことがある、

と知っていないといけないのだ。

そういうモノサシの広がり(視野の広がり)を

持っていないといけないと思う。

 

 

 

 

 

 

カウンセリング的に

 

よくある話で

”ひどい上司だね”、

という部分を共感するのではないのだ。

 

”そうだったんだぁ。それは嫌だったね。

 朝から挨拶ぐらいしてくれてもって、

 私も思っちゃう。”

言うとしたらこちら。

 

ひどい上司だね、

と言ってもいいが、

 

本当のポイントは

 

自分は大事に扱われるべき人間(常に)、

が崩されることもある、

 

というところだと思う。

 

 

 

 

 

まとまらないが

今日はこの辺で。

 

 

 

 

 

●自分を認めて欲しい、

 自分は大切にされるべき、と人は思っている

●他人への態度でもそれを大事にして接する

●自分は大事にされるべき人間、であるのだが

 その自分の思いと(自分が悪くなくても)

 世間の扱いが違うこともある

 そういうこと、他人のモノサシ、好き嫌い

 が存在する