信頼って心の扉なんだなぁ

 
 
ふと思った。
 
 
 
「信頼している」は扉を開けている状態
 
「信頼してない」は扉を閉じている状態
 
 
 
7年前に私が別居して家を出る前
ギクシャクしていた夫とバトルになると
決まり文句のように
 
「もう信頼がない!」
 
と言い合った。
 
 
その時の状態を
 
お互いに
心の扉をギュッと閉じて
鍵をかけていた
 
とすると とても納得がいくんだよね。
 
 
 
扉を閉めていたら 
 
扉(姿)は見えても
向こう側(心)は見えない
 
受け渡しがない
何も交流しない
 
与えようともしないし
受け取ろうともしない
 
 
 
実際  同じ家に暮らしていたけれど
何をどう考えているのか
お互いに話そうとしなかった
 
なるべく顔を合わせないように
最後はご飯の時間もずらしていた
 
夫はお金を出し渋るようになり
私は受け取ることを諦めた
 
 
 
家の中に「開かずの扉」があるのは不自然だ
 
それも 2つ
 
 
だから 子供たちは何も言わなくても
すべてわかっていた。
 
 
 
信頼というものは目に見えないけれど
 
信頼しているか  
信頼していないか
 
扉が開いてるか  
閉まっているか
 
風通しがいいか  
空気が淀んでいるか
 
それは わかるもんね。
 
 
 
別居後に参加したリトリートセミナー
 
心模様を描くワークで
私はこんな絵を描いた。
 
 
 
 
白い扉をそーっと開けると
色とりどりのまばゆい光が射し込んできて
こちら側にいる私を明るく照らしていく
 
そんなイメージの絵。
 
 
この時は「女性性の扉」と解釈したけれど
これって もっと広い意味での
「信頼の扉」だったんじゃないかな。
 
 
 
「信頼する」「信じる」って
もちろん言葉にして使っていたけれど
軽く使い過ぎていたな と思う。
 
軽く使える状況しか知らなかったというか。
 
 
「信頼しているよ」「信じているよ」
 
って簡単に言えた。
 
 
すんなり言ったのは
心から信じていた相手だったし
お互いに喜びの気持ちを乗せ合える
安心できる関係性があったから。
 
 
でも そうではない状況の中で
本当に「信じる」 
本当に「信頼する」
っていうのはとても怖いことだった。
 
 
息子が倒れて救急車で運ばれた
息をしてなかった
それでも大丈夫だと信じられるか?
 
 
 
不機嫌になることが多かった夫
ずっと黙ってきたけれど
こっちだって嫌なんだ!と怒れるか?
 
 
 
イベント出展前日 
ご予約はたった1つ
しかも大ハプニング発生!
それでも落ち着いていられるか?
 
 
 
母 危篤 
もって数日の命との宣告
そんな事態でも母の生命力を信じられるか?
 
 
 
 
そんな 怖くて 不安定で
覚悟のいる状況があって
気持ちが揺れる中で
 
信頼の扉を開ける
 
ってことを体感で知っていったように思う。
 
 
 
自分を  相手を  状況を  未来を
信頼する  信じる
 
 
とても怖かったけれど
扉を開けたら 
向こう側には確かにキレイな光があった。
 
 
みんなで笑えて
安心という心地良い風が吹いていた。
 
 
どれも 開けてみなければ
経験できず わからなかったこと。
 
 
 
「しっかり戸締り」の癖がついてるから
ついパタンと閉めて鍵かけそうになるけどね。
 
 
これまでの光や風を思い出しながら
信頼という心の扉を開け放していたい。
 
 
 
オープーーーン!!
 
 
 
 

自分も人も出来事も 信じて大丈夫

 

天に向かって 大きく手を広げ

その恩恵を受け取っている姿を想像してごらん

 

「天は私に必要なものを与えてくれる」

 

そのように委ね すべてを感謝して受け取る人に 

天は惜しみなくパワーを与えてくれるでしょう

 

同じく 人・出来事・未来の展望にも

与えられるイメージで対しましょう

 

信頼する気持ちと姿勢が

信頼に値する出来事を連れてきますよ

 

 

~ たまゆら占いより ~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

魂響書占 たまゆらしょせん 恵理子