「毛利勝永」
父・森吉成の代から豊臣秀吉に仕えていた。吉成が豊前・小倉六万石の領主となりと、内一万石が勝永に与えられた。尚、発給文書では毛利吉政と署名されている。
大坂冬の陣では、幸村と同じく積極策を唱えたものの却下され、西丸ノ西・今橋を守備した。夏の陣では、道明寺の戦いで敗退した後藤基次らの敗残兵を収容しつつ、自ら殿軍を務め幸村隊とともに無事撤退した。
豊臣方の敗色が濃厚となる中、幸村らとともに家康本陣への突入を実行。勝永の戦いぶりは際立っており、家康の心胆を寒からしめた。この時の活躍に関して、江戸中期の文人・神沢杜口は「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」と記している。
幸村隊が壊滅すると、勝永は敵の追撃を防ぎつつ大坂城内へ撤収。その後、主君・秀頼の介錯を行い、自らは静かに腹を切って自害した。
豊臣家に忠誠を尽くしきった生涯であった。享年三十七歳。
「明石全登」
明石掃部頭守重(全登)は直家の時代から宇喜多家に仕えていて、磐梨郡(赤磐郡)保木城の城主であり最高禄高(三万三千百十石)の客将であった。妻は宇喜多直家の娘。
慶長四年(1599年)に「備前家中騒動」が起こって重臣の多くが出奔すると、執政として宇喜多氏を取り仕切った。
翌慶長五年の関ヶ原の戦いで宇喜多秀家が西軍に与すると、宇喜多勢八千を率いて先鋒を努め、福島正則を相手に善戦した。
関ヶ原敗戦後に、明石全登(てるずみ、たけのりとも)と名を変え牢人となる。
大坂夏の陣では大和口迎撃の前衛に配置され、後藤隊壊滅後の勢いづく敵をくい止めて防戦に努めたが、銃弾を受けて負傷する。
天王寺・岡山の戦いでは、小倉行春(蒲生氏郷の従兄弟でキリシタン)と共に、精鋭三百余人をもって船場から迂回して、背後から家康本陣を衝くという秘策を実行することにした。
船場の市街から出撃して戦機を伺うが、予想以上の徳川軍の進軍速度などで作戦は互解する。これを知った全登は自らの手勢のみで敵中に突撃。奮闘したが小勢であったため、たちまち壊滅したといわれている。その後、全登の消息は断たれ不明である。
キリシタン武将の明石全登の画像
「大坂城落城」
七日午後四時、天王寺口と岡山口の両方で豊臣方が敗北したため、徳川方は大坂城に突入した。
大坂城の東北に陣を敷いていた京極忠高・石川忠総らは備前島へ進撃し、天満方面に陣を敷いていた池田利隆も同じく進撃を開始した。
豊臣秀頼は敗北を知って、出陣して戦死しようとしたが、速水守久に大坂城からの脱出を勧められ出陣を取り止めた。
その後、内通者が城内の台所に火をつけ城に火の手が上がった為、これを見た徳川軍は城内に殺到。豊臣方の牢人たちは次々と逃げ出し、大坂城は徳川方の手に落ちた。
大坂城に戻っていた幸村の長男・大助は、秀頼が出陣を断念し、父幸村戦死の知らせを聞いて、父の言いつけに従って秀頼とともに自刃する覚悟を決める。
徳川方は、その日のうちに大坂城へなだれ込み、火がかけられた大坂城は深夜に焼け落ちた。
この時、秀頼の正室で将軍秀忠の娘・千姫や常高院は大坂城を脱出していた。
千姫は父の秀忠に面会し、秀頼の助命を嘆願したが一蹴され、秀頼の助命はかなわなかった。家康は、この時点で秀頼や淀殿を助けるつもりでいたようだが、秀忠に拒否された。
翌八日、淀殿・秀頼母子は焼け残った糒蔵に籠っていたが、井伊直孝・阿部正次が糒蔵を取り囲み、間断なく鉄砲を撃ち込んだ。
堪りかねた淀殿・秀頼は自害し、付き従っていた大蔵卿局・大野治長母子や毛利勝永、幸村の長男・大助など約三十人が殉死した。午後二時頃の事であった。
尚、大助は「我は真田左衛門佐信繁の倅なり」と叫んで切腹したという。享年十三~十六歳の諸説あり。
こうして豊臣家は滅亡し、大坂夏の陣が終わったのである。
真田家の秘宝:これが父昌幸から贈られた鹿角の前立ての兜か
有名な晩年の幸村画像
「真田三代記」「影武者:穴山小助の最後」へ続く