日本軍の攻撃を前にして、先に完勝ともいえる戦果をあげた李舜臣は、司令官の職を奪われていた

和平を望んでいる小西行長は、戦争遂行者である加藤清正の渡海の日時を、朝鮮側にひそかに告げ、「朝鮮水軍の力で清正を討ち取ってもらいたい」と申しこんだ。

朝廷はこの情報を信じ、李舜臣に攻撃するよう命じたが、李舜臣はこれを敵のいつわりではないかと疑い、攻撃しなかった

清正が無事上陸してから、小西行長は「朝鮮ではどうして迎え撃たなかったのですか残念なことだ」と朝鮮側に伝えた

 

李舜臣が命令に従わず、清正をとり逃がしたというので、朝鮮の朝議は沸き立った。李舜臣に反対する者たちは、ここぞとばかりに攻撃を強めた。

ついに李舜臣は逮捕され、獄に下った

李舜臣が解任され、水軍の司令官には元均が任命された

元均は李舜臣の定めた制度を皆廃止し、舜臣の信任した副将、士卒を皆追放してしまった

 

元均率いる朝鮮水軍は、七月七日藤堂高虎、脇坂安治の日本水軍に遭遇した。朝鮮水軍の兵士たちは、一日中漕いできたために疲れきっていた。日本水軍もかかると見せては引き、朝鮮水軍を翻弄した。

 

元均は夜半、風で四散した船団をまとめて加徳島まで戻ったが、のどが渇いた兵卒は先を争って船を下り、水を得ようとした。そこに加徳島に駐屯していた日本兵が斬り込み、四百人の水兵が殺された

固城にいた都元帥の権慄はこの失態を怒り、元均を呼び寄せ杖刑に処し、さらに前進するよう督令した。元均は漆川島に憤りをいだいて帰り、毎日酒を飲んでばかりで、諸将と軍議もろくにしなかった。

 

七月十五日夜半、日本水軍の大船団が急襲した不意を衝かれた朝鮮水軍は大敗北を喫し、元均は陸に逃げて島津義弘の軍兵に殺された

休戦期間中の三年間に李舜臣がつくり上げていた朝鮮水軍は、この一戦で壊滅してしまった

 

八月に入って、朝廷は再び李舜臣を司令官に起用するが、大部分の艦船を失った朝鮮水軍はしばらく半身不随の状態に陥る

全羅道南部の制海権は完全に日本水軍のものとなり、日本軍の水陸合わせた急進撃がはじまった

 

これより先、明の副総兵楊元は漢城を経て全羅道に下り、六月半ばに南原城に入った。

 

日本軍は、明軍の根拠地となった南原城に猛攻を加え、八月十五日激戦の末に南原城は陥落した

秀吉の命令通り(秀吉は老人も子供も女も、僧侶も身分の低い者も、皆殺しにせよと命じていた)の虐殺が実行され、城中の人間が老若男女を問わず殺された

 

南原城陥落に際しては、島津義弘、藤堂高虎のもとから、打ちとった敵兵の鼻が切られて軍目付のもとに差し出されている。それに対して「鼻請取状」が発行され、数が確認されたうえで、軍目付から秀吉のもとに送られた。

赤子までも殺して鼻を塩漬けにした。殺さずに鼻だけ切った場合もあり、戦後鼻のない男女がこの地方に多くいたという

鼻の数で戦功が決められた。

 

 

 

イラストは安宅船で船主に大筒を置き正面から砲撃した。右下は左から安宅船、関船、小早。

 

 

 

「宇喜多秀家:李舜臣の反撃と蔚山城の戦い」へ続く