日本軍総大将宇喜多秀家は、海陸の戦況が険悪となってきたので、諸陣の大名を漢城に集め軍議をひらいた

黒田官兵衛、小早川隆景らは、石田三成の釜山撤退策には同意せず、漢城防衛策を取り、明軍を待ち受けることに決した。

漢城防衛の諸隊は、平山・牛峰・開城・長湍・監津鎮・高陽に防衛拠点を置き、明軍来襲に備えた。

冬がくると、日本軍の士卒は厳しい寒気に悩まされ、凍傷になった。食料にも窮してきた

 

文禄二年正月五日、李如松の率いる明軍五万一千人が平壌城へ襲いかかった日本守備軍は小西行長ほか総数一万五千人である

明軍はすべて巨大で強健な馬に乗った騎兵である。彼らは鋼鉄の鎧をつけ、鋼鉄の膝当てで足を保護しているので、日本軍の鋭利な刀槍によっても、まったく損傷をうけることがなかった

 

日本軍はよく戦ったが七日の夜には城を捨てて漢城へ退却していった

小西軍は、飢えと寒気により凍傷、落伍して死ぬものもあり、命からがら漢城に逃げ帰った者も、別人のごとくやつれ果てていた。

負傷者、落伍者は捨てていかれた。

漢城の宇喜多秀家は諸将と軍議をかわし、明軍を漢城城外で迎撃することに決した

明軍は数百門の強力な大砲をそなえていて、その砲撃を受ければ塁壁は破壊され、一発で数十人が殺傷される。

籠城していてはとても勝ち目がないと見て、野戦を行い白兵攻撃を挑むよりほかに道はなかった

 

碧蹄館の戦い

李如松率いる明国騎馬兵団は、漢城に向かい南下してきた。

漢城の日本軍先手は、第一隊 立花統虎、高橋統増 三千人。第二隊 小早川隆景 八千人。第三隊 小早川秀包、毛利元康、筑紫広門 五千人。第四隊 吉川広家 四千人。

本隊は、第五隊 黒田長政 五千人。第六隊 石田三成、増田長盛、大谷吉継 五千人。第七隊 加藤光泰、前野長康 三千人。第八隊 宇喜多秀家 八千人。

漢城の留守将は、小西行長、大友義統である。

 

先手の二万人は、正月二十六日の子の刻(午前零時)に漢城を出て、開城へ向かった。夜明けに立花隊の斥候が明軍と接触し戦闘がはじまった

日本軍は碧蹄館(へきていかん)という谷間の左右の高地に布陣していた

明軍は百門の大砲を放ち、騎馬兵を突撃させた。

日本軍先手の四隊は、小早川隆景の指揮のもと明軍に猛烈な射撃を加えたのち、刀槍をふるい白兵戦を挑んだ

明軍は浙江・河南の兵を開城に残し、二万余の兵力であったので、日本軍先手にじりじりと押されていた。

 

宇喜多本隊も総攻撃に移った

明軍将兵の武装は堅固で、体躯は強大である。宇喜多秀家の家来国富源右衛門は、家中で聞こえた大力者であった。

彼は敵兵に三度斬りつけたが、刃が立たないので組みついた。相手は格段の膂力で、たちまち組み敷かれ押えつけられ動けない。

源右衛門は脇差を抜き、下腹を二度刺したが切っ先が通らない。あやうく死ぬところを明輩に助けられ、ようやく討ち取った

 

数において勝る日本軍は、明軍を碧蹄館の谷間に追いつめた。ここで明国の名将李如松の軍勢は壊滅的打撃を受けてついに敗走する

日本軍は敵の首級六千余を得たが味方の戦死者も二千余に及ぶ激戦であった

 

 

文禄・慶長時の朝鮮国全図

 

 

 

「宇喜多秀家:普州城の戦い」へ続く