天正十八年春、十六歳のお豪は備前島屋敷で、秀家の嫡男八郎秀隆を生んだ

秀吉が早速お祝いにおとずれ、豪姫にいたわりの言葉をかけた。

秀吉は秀家としばらく語り合い、杯を交わした。

「この屋敷は、備前宰相にふさわしき眺めだが、国元の城は造りなおさねばならぬだわ。島津攻めで下向いたせしとき、石山の城に泊まり、あらためて思うたが、いささか西にかたより本丸を高き場所に置いておる。こののちは、城は政庁といたすげな。されば東の平地に本丸を置き、南に大手門をひらいて、そのほうが官位にふさわしき大城を普請いたせ。儂が縄張りを思案してやるほどにのう」

 

秀家は備前五十七万四千石の太守として、大坂屋敷で豪奢な生活を送っていた。

大坂で消費する経費は、国元のそれをはるかに上回っていた。前田家から豪姫に従ってきた家老中村刑部は、諸事派手好みである。

宇喜多家の財政は、国家老の浮田左京亮詮家が管理していた父の忠家は秀家とともに大坂にいて、補佐役をつとめていた

 

詮家は大坂から新城普請の指示をうけると驚き、岡山城修築の絵図面を前に、腕を組み言葉もなかった

詮家はそれまで秀家から命じられるままに、大坂屋敷での経費を支払っていたが、築城普請を実施する段階になって、秀家の浪費を批判しはじめた

上方の家老たちは、詮家の批判が当を得ていないと言い、上方と国元の家老たちの意見が対立したが、秀吉の命令にそむくわけにはゆかない。岡山城改修普請は間もなく開始された

 

 

小田原城攻めの豊臣勢は、天正十八年二月上旬から出陣を始めた。月末には宇喜多秀家が京都から出陣した。宇喜多勢九千人(うち水軍一千人)である

秀吉の催した軍勢の総数は二十六万余であった

 

三月二十九日豊臣勢は、箱根山中城へ攻めかけた。秀吉は宇喜多秀家ら本陣勢四万人を率い、秀次、秀勝の後方につづく

山中城の守将松田康長、北条氏勝、間宮康俊は総勢四千余人の軍兵を率い、必死の防戦をした

宇喜多秀家は、秀吉に従い、激戦を目の当りにした。

山中城は昼まえに落城した。城兵の戦死者が五百余人で、三千余人が逃走した

 

豊臣勢は次に、伊豆韮山城を攻略した。北陸からは前田利家、上杉景勝らが南下して、松井田・箕輪・鉢形などの諸城を陥落させ、さらに小田原の海上は中国・四国の水軍が封鎖した。

 

秀吉は湯本に着陣すると、石垣山に城を築いた。天守、本丸、二の丸、三の丸を備えた本格的な城郭である石垣山城は八十余日を経て完成した

秀吉は六月二十七日に本営を城内に移した。

北条氏の命運を見た、関東・奥羽の諸大名が小田原にきて、秀吉に帰服の意志をあきらかにした

小田原を訪れたのは、南部信直、相馬義胤、結城晴朝、多賀谷重経、佐竹義宣、宇都宮国綱、伊達政宗らであった

佐竹は百万石を領する常陸の太守であったが、北条攻めに軍勢を派遣し、秀吉への服従を誓った。

伊達家の当主政宗も、遅ればせながら石山城に伺候し、秀吉に謁見した

 

七月五日、北条氏直はついに降伏した

 

小田原征伐が終わったのち、豊臣政権に楯つく勢力はすべて平定された。秀吉は日本国ニ千二百万石の大名を支配する専制君主となった

 

 

昨日の岡山城天守閣

旭川沿いは花見客が多くて駐車する場が無く、仕方なくこの角度から撮影。

 

 

 

「宇喜多秀家:文禄の役」へ続く