ご訪問ありがとうございます。

今回は、前に名前の出てきたヤマトトトビモモソビメ(「古事記」ではトが1つ少ないんですよねーヤヤコシ)について入門編です。

前々回の「海部氏系図」の「勘注系図」にあったこの皇女ですが、

畿内でもスーパー古い巨大古墳とされる「箸墓」の被葬者であるということで、
邪馬台国の畿内説ではこの人が卑弥呼!?ということになっています。

それでは、この女性がどんな人であったかというと…

その実、知らないまま語っておられる方が多いのではないかという気もします。

それで、今回は「古事記」「日本書紀」に実際にあたってみようと思って、入門編としたのです。

さて、果たしてこの人は「卑弥呼」と言って良いのでしょうか?


では「日本書紀」から見ていきましょう。

彼女のお父さんは、第7代の孝霊天皇です。いわゆる「欠史八代」に当たり、皇居名と系譜、陵墓の記載以外には記事がありません。

ちなみに、銅鐸系ではないかと私が疑っている「日子坐王」の曽祖父にあたる方です。仮に系譜だけでも正しいとすると、3世紀末から4世紀初頭にいたのではないかという、第10代崇神天皇より3代前ですから、
確かに3世紀中期以前の人物です。

お母さんの細媛は磯城(しき)縣主(あがたぬし)の娘で、そのためか都は、奈良県磯城郡田原本町にあるのですが、ここが唐古・鍵遺跡のある町なのです。

唐古・鍵遺跡で有名なのは、土器に描かれた高楼(高殿)で、絵のままに復元されています。
しかし復元というのは、本来遺構が出た上にするもんなんですけどね…^^;

まあそれは置いといて、

ここからは銅鐸の破片、銅鐸の工房あとではないかという弥生時代の青銅器鋳造炉跡、河内・近江・紀伊・尾張・吉備の土器なども出土し、
広範囲にわたる交易が行われていたように見えます。

そのあとに出現する纏向遺跡では、
箸墓のような大型の前方後円墳を要するだけでなく、
NHKによると大型の宮殿が2棟あって、崇神天皇紀の大和の国魂を天皇の大殿からでしたという記事に対応しているといい、

またこの前のヒストリアでは銅鐸の破壊が行われているらしいので、ここら(というのは崇神天皇の時代)で政権交代があったとすれば、
欠史八代というのも、とんでもないデタラメとするのはためらわれますね。彼女は唐古・鍵遺跡で生まれたのかもしれません。

そうすると、この孝霊天皇皇女のヤマトトトビモモソビメは、はたして纏向にいた崇神天皇が「初国知らし」た、その国の姫かということさえ疑問になってきます。

では、彼女は一体どんな人かというと…
生まれとは違って彼女の活躍は、全て「日本書紀」の崇神天皇のところに書かれているのです。

不思議なことに「古事記」には書かれていない・・・これも彼女の位置の不安定さといえるような気がします。

では、まず「日本書紀」の方から見ていくことにしましょう。

崇神天皇5年(以前にお話ししましたが、崇神天皇の治世の伝承
は5年から始まります)のことです。
この年は国内に疫病が蔓延し、民の半ば以上が亡くなるという事態が起きます。
翌6年には、そのために耕作が行えないなどの影響が出たためと思われますが、土地を離れて流離するもの、あるいは命令に背くものも多く、「その勢い、徳を以って治めること難し」という状況になります。
そこで、天皇は早朝から夕刻まで神々に、自らを責めて祈られました。

さて、これより先に、天照大神、倭大國魂(ヤマトノオオクニタマ)の二柱の神を、天皇はその大殿の中にお祀りしておられました。

しかし、その神々のご神威が強いことを畏れ多く思われて、ともに住むことを不安に感じられ、
天照大神は皇女の豊鍬入姫(トヨスキイリビメ)に託されて、
大和の笠縫の村に祀られました。


これから後、天照大神はここは気に入らない、あそこがいいと遍歴を繰り返すというのが「倭姫巡幸」というわけです。

この豊鍬入姫の時にここがいい!といって最初に移ったのが
丹後国の「籠神社」ということになります。

そこで、真名井神社におられた、外宮の豊受大神と知り合われたのです。

一方、倭大國魂の方は、同じく皇女の淳名城入姫(ヌナキノイリビメ)に託されたのですが、この皇女は髪が抜け、やせ衰えてしまい、祀ることがかないませんでした。

7年の2月15日になって、天皇は
「皇祖はみんな国を開き、王威を高めたのに、私の代になってからは災害ばかりです。私の政治が良くないので、神々が私に罰を与えているのでしょうか?これを占わないではおかれません。」と

亀の甲羅(というのは中国的で、実際は鹿の骨じゃないかといわれてます。)を焼いて占をすることになり、

神淺茅原(カムアサジハラ=桜井市茅原or桜井市笠の浅茅原)にお出ましになり、八十萬神を集め占われました。

すると、そのときに神が倭迹々日百襲姫命(ヤマトトトビモモソビメ)に憑りつき、
「天皇よ、なぜ国が治まらないと悩むのだ?もし私をよく敬い祀るのなら、必ず国は平穏になるだろう。」とおっしゃいました。

天皇は
「そのようにおっしゃるのは、いずこの神であられるのか?」と問うと、神は
「私は倭国(ヤマトノクニ)の域内にいる神、大物主神(オオモノヌシノカミ)という」とおっしゃいました。

そこで、神意を得たと天皇は大物主神を祀るのですが、効果は上がりません。なんで・・・(´・ω・`)

そこで天皇は川で身を清め、宮殿も清潔にして祈られ
「私は、神を敬うのはまだ十分ではないのですか?どうして我々の祀りを神々は受けてくだされないのか、ひどいです。願わくば、また夢のうちに教えて、神々の恩愛をお示しください。」とおっしゃいました。


定説では崇神天皇は新王朝の創始者ということになっています。
そのために土着の神の気に入らないのでしょうか?なんだかかわいそうになってきます。 

この晩の夢に、一人の貴人が現れました°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°
大殿の入口に向かって立ち、自ら大物主神と名乗り、

「天皇よ、また悩まなくてもいいのだ。国内が治まらないのはお主のせいではなく 、私の意志なのだ。」


(;゚Д゚)えええ!

「もし我が子、大田々根子(オオタタネコ)をして私を祀れば、たちどころに国は平安になる。また海外の国も自然と服従するだろう。」とのたまわれました。

これがいつのことかは書いてないのですが、
次の行になって

7年8月7日、倭迹速神浅茅原目妙姫(ヤマトトトビモモソビメのことらしい)・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績(ヲミ)君の3人がともに同じ夢を見て、

「昨夜、夢で一人の貴人が出てきて、
大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にすると、必ず天下泰平になる。」といわれました。


といいます。

そして11月13日の条では、天皇がその通りにし、また占いでそのあとも、ほかの神々をも祀る神社を定め、その領地なども手配したところ疫病も止み、国中が平穏になり、五穀も無事に実って、人民もにぎわった、と書かれています。

つぎの話は崇神天皇10年の9月27日で、

四道将軍のひとり、大彦命が和珥(ワニ)坂(奈良県天理市和爾町)で
少女に出会います。

少女は
「御間城入彦はや おのが命(を)を弑(し)せんと 
 ぬすまく知らに 姫遊びすも」と歌います。

「ミマキイリヒコはなあ、自分の命を絶とうと
 時をうかがってるのも知らずに、若い女と遊んでるよ」


という意味です。若いコと遊んでたのか^^;

大彦命は気になって
「お前が言ってるのはどういうことか?」と聞きます。
けれども少女は「なんか言ったわけじゃないよ。ただ歌っただけ」
そういってもう一度同じ歌を歌って、あっという間に消えてしまいます。怪しすぎw

大彦命はただちに引き返してこのことを天皇に申し上げます。
するとそれを聞いた百襲姫(聡明、叡智、よく未然を知る=予知能力ね、といわれています。)は

「これは天皇の庶兄(異母兄)武埴安彦(タケハニヤスヒコ)の謀反の前兆です。
私は妻の吾田媛が香久山の土を領巾(ひれ=乙姫様なんかが持ってる長いショール、呪具とされる)に包んで
「これは倭の国の代わりにするもの(´∀`*)ウフフ」といいながら持って帰ったと聞きましたよ。すぐにピンときたんです。早く作戦を立てないと、後手に回ってしまいますよ。」

といい、天皇は大彦命と和珥氏の祖ヒコクニブクを遣わして、武埴安彦を木津川から楠葉に追い詰め勝利します。


以前ヤマトタケルのところで指摘した「和珥氏による淀川水系の庶兄叛乱鎮圧伝承」の代表的なものです。


これが「古事記」になるとどうでしょうか?

まず、疫病のため民が死に絶えそうになったというまでは同じですが、

夢を見たのは崇神天皇ただ一人で、ほかの3人は出てきません。

そのあとで、大田田根子が大物主の子孫だということで、
三輪山の神婚譚が出てきますが、

「日本書紀」ではこれの主人公が倭迹迹日百襲姫です。

また、「古事記」の方は、大彦命が聞いた謎の歌も、謎解きをするのは天皇自身になっています。

つまり倭迹迹日百襲姫の話は全くないのです。

また「日本書紀」を見ても

3人一緒の夢を見たとか・・・
歌の謎ときも、吾田媛の話を聞いてたから・・・???

という具合で、何か大活躍をしてるかどうか、よくわかりません。

そして、箸墓という名のもとになった「三輪山伝説」も
「古事記」では活玉依姫(イクタマヨリビメ)が主人公になっているのです。

これを書くと少し長くなりますので、次回は三輪山伝説を通して、もう少し倭迹迹日百襲姫のことを考えてみたいと思います。



ご訪問ありがとうございます。

元治元年6月5日、といっても旧暦なので、本当は祇園祭の宵山、もう7月半ばの頃になるのですが…

三条の高瀬川にかかる三条小橋のたもと、池田屋という旅籠に集まっていた過激派浪士を、新選組が捕縛のために切り込んだ事件、
あの有名な「池田屋事件」が起こりました。

前々から、純和風の建築を作りたいと思っていたのですが、
ただテーマもなく建てても面白くないので、
「あ、池田屋がいいや!」と思って、
「蒲田行進曲」の階段落ちの階段も作れるもんね、と再現してみました。




ピグで、歴史の場面を再現するって、結構大変で、まず衣装が揃わなくちゃならないのですが…
さすがに新選組は人気があるので、助かりました^^;

とにかく、柱と梁でできた建築なのでその感じを残しつつ、中も見えるようにしました。

去年は7月14日がちょうど祇園祭の宵山(巡行の前夜祭みたいな感じで賑わいます。大阪の梅田から浴衣着た人で溢れかえるので、最近は行けずにおります^^;)だったので

「革命記念日」と重なってることに気づいたピグ友さんが、
ベルばらとコラボした4コマ漫画をピグで作ってくれました。



まさかの展開ですwww

かつてベルばらや土方歳三にはまっていたこともあるので(/ω\*)
わたし的にはドンピシャでしたw

それで五稜郭には2回も突撃しようとしたのですが…

一度目には(スキーのついでだったので)冬の夕方ということで…
2度目は台風の直撃の風雨で( ̄▽ ̄;)!!

二度とも撃沈し゚゚(゚´Д`゚)゚

未だ五稜郭には入れていません…

どうも歳さんには、愛されてないようです…ww

話がそれてしまいましたが…かんじんの「池田屋事件」については

こちら(Wikipedia)で読んでください。

経緯

古高俊太郎邸跡(京都市下京区西木屋町四条上る)
幕末の京都は政局の中心地として、尊王攘夷・勤王などの各種政治思想を持つ諸藩の浪士が潜伏し、活動していた。会津藩と薩摩藩による「八月十八日の政変」で長州藩が失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていた。尊王攘夷派が勢力挽回を目論んでいたため、京都守護職は新選組を用いて、京都市内の警備や捜索を行わせた。

5月下旬ごろ、新選組諸士調役兼監察の山崎丞・島田魁らが、四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する枡屋喜右衛門(古高俊太郎)の存在を突き止め、会津藩に報告。捜索によって、武器や長州藩との書簡などが発見された。古高を捕らえた新選組は、土方歳三の拷問により古高を自白させた。自白内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ動座させる(連れ去る)」というものであった。しかし、自白したのは自分の本名が古高俊太郎であることのみ、という説もあり、古高俊太郎について述べられた日誌には自白内容の記述がされていないことから自白は本名のみであった可能性が高い。

さらに、長州藩・土佐藩・肥後藩などの尊王派が、逮捕された古高奪回のための襲撃計画を実行するか否かを協議する会合が、池田屋あるいは四国屋において行われることを突き止めた。

戦闘

亥の刻(22時ごろ)すぎ、近藤隊は池田屋で謀議中の尊攘派志士を発見した。近藤隊は数名で突入し、真夜中の戦闘となった。20数名の尊攘派に対し当初踏み込んだのは近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名で、残りは屋外を固めた。屋内に踏み込んだ沖田は奮戦したが、戦闘中に病に倒れ戦線から離脱した。また1階の藤堂は油断して鉢金を取ったところで額を斬られ、血液が目に入り戦線離脱した。

襲撃を受けた宮部鼎蔵ら志士たちは応戦しつつ、現場からの脱出を図った。裏口を守っていた安藤早太郎・奥沢栄助・新田革左衛門達のところに土佐藩脱藩・望月亀弥太ら浪士が脱出しようと必死で斬りこみ逃亡。これにより奥沢は死亡し、安藤・新田も1か月後に死亡した。望月は負傷しつつも長州藩邸付近まで逃げ延びたが、追っ手に追いつかれ自刃した。同じく戦闘の末に脱出に成功した土佐藩・野老山吾吉郎の調書が、2009年に高知県が購入した土佐京都藩邸資料(高知県立坂本龍馬記念館蔵)から見つかり、事件前後の様子が明らかとなった。太刀や袴を失い(普段から新撰組は本物の太刀を持ち、敵の刀を切断したり、刀に裂傷を与える鍛錬をしていた)、同僚の石川潤次郎が現場で闘死していたことにも気づいていなかったことから戦闘の激しさが偲ばれる。

新選組側は一時は近藤・永倉の2人となるが、土方隊の到着により戦局は新選組に有利に傾き、方針を「斬り捨て」から「捕縛」に変更。9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げた。会津・桑名藩の応援は戦闘後に到着した。土方は手柄を横取りされないように、一歩たりとも近づけさせなかったという。

この戦闘で数名の尊攘派は逃走したが、続く翌朝の市中掃討で会津・桑名藩らと連携し、20名あまりを捕縛した。この市中掃討も激戦となり、会津藩は5名、彦根藩は4名、桑名藩は2名の即死者を出した。

その後新選組は、夜のうちに帰ると闇討ちの恐れがあるために夜が明けるまで待機し、翌日の正午、壬生村の屯所に帰還した。沿道は野次馬であふれていたという。

桂小五郎(のちの木戸孝允)は、会合への到着が早すぎたため、一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話しており難を逃れた。談話中に外の騒ぎで異変に気づいた桂は、現場に駆けつけようとしたが、大島友之允に制止されたため思い留まったと、桂の回想録『桂小五郎京都変動ノ際動静』には記されている。ただし、鳥取藩士・安達清風の日記によれば、大島は事件前の5月28日に京都を離れ、6月5日の当日には江戸におり、6月13日になって事件のことを知ったとされており、大島が桂を止めたというのは事実でない可能性がある[1]。それとは別に、京都留守居役であった乃美織江は、手記に「桂小五郎義は池田屋より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷へ帰り候由…」と書き残している。




今回も、趣味にお付き合いしてくださってすみませんでした(;^_^A


ご訪問ありがとうございます。

新天皇のご即位に伴う記事などで、しばらく中断しておりましたが、
丹後国に戻ってまいりました。

令和改元前後の連休中には、毎日200を超えるアクセスをいただき、大変ありがとうございます。
天皇制だけでなく、先日の縄文人女性や古墳群の世界遺産登録などに向けて、
古代史に興味を持っていただく方が増えれば、私としてもとてもうれしいことです。

さて、
表題にいきなり卑弥呼と持ってきましたがw
「海部氏系図」に「卑弥呼」と書いているわけではありません(/・ω・)/

邪馬台国畿内説で「卑弥呼の墓」ではないかといわれている、初期古墳でも特に築造年代が早い「箸墓」の被葬者とされている「ヤマトトビモモソビメ」のなまえがでてくるのです。

それは「勘注系図」の方のいわゆる注釈というか、分注のようなところなのですが

「勘注系図」には先日あげた「本系図」があまりに単純で直系しか記していないので、傍系の兄弟たちや、女性たちを加えて書かれたもので、現存のものは江戸時代初期の書写とされています。
ですから、原本は伝えるところによるとまあ古いといえば古いのですが、この系図はまた「亦の名」的な別名が多く、それが書き加えられた年代がいつだったかというのも、問題となるところです。

それというのも「一本云」という伝承では、推古朝、養老5年(721)、仁和年中(885-889)の三度にわたって編纂されたということになっており、それだけでも加筆があったと思われるのに、

原本ができてから貞観年中(859-877)に編纂された「本系図」の方が単純で不備が多いなど、その編纂が「本系図」に先立つとは考えられず、
そうなってくると内容も信頼できるか、ぶっちゃけ怪しいということになります。

前回もお話したのですが、平安時代の成立とされている「先代旧事本紀」の尾張氏の系図とそっくりでありながら、
尾張氏の断絶の部分を和珥氏の建振熊命を使ってうまくつなげ、
「古事記」「日本書紀」の天皇の世代に合致させている「本系図」は、

乱れのある尾張氏の系譜に比べると、より新しい編纂時期を考えることができるわけですが、

内容の単純な「本系図」が分注の多い「勘注系図」より後に成立するとも思われず、その信ぴょう性となると疑問符がつくのは致し方ないことだと思います。

それでも、やはり「卑弥呼の系図」といわれているのは間違いないので、

簡単にその内容をまとめてみようと思います。

さて、「勘注系図」では、彦火明命九世孫の世代にに日女命(ひめみこと)という女性が出てきます。
ところが・・・尾張氏系譜でも同じ世代に日女命がいるのですが、どうして「勘注系図」だけが「卑弥呼の系図」と騒がれるのかといえば、

この人のところに「日神」と記され、亦の名を「倭迹迹日百襲姫命」「神大市姫命」と書いてあるからなのです。

この倭迹迹日百襲姫は超初期古墳であり、近畿説の論者に卑弥呼の墓とされる箸墓の被葬者なのです。

わたしは、どちらかというと東遷説ではあるけれど、卑弥呼時代に大和にすでに邪馬台国があった確率は、半分以下の感じでいるので、

箸墓=卑弥呼の墓とはあまり思ってないのですが。
どちらにしても内容が疑わしい系図の、しかも大和から離れた場所に伝わる(どっちかというと銅鐸圏的な位置ですし)分注レベルのことを
あんまりうのみにするのは危険だと思います。

それどころか、海部氏系図は、現地の信仰と乖離した感じがします。

次回はそのあたりについて、お話してみたいと思います。

またのご訪問をお待ちしています。


ご訪問ありがとうございます。

アメーバピグでも模様替えで平安時代の貴族の館「寝殿造り」を再現しようとしたのですが,
寝殿造りの規模というのはめちゃくちゃ大きいので、端っこの方から渡り廊下で池に出ている泉殿のイメージで作ってみました。

これはよく日本史の教科書などに載っている寝殿造りの図を参考に書いたものなのですが



母屋(おもや)といわれる寝殿を中心に、正夫人の住む「北の対」、子女の住むそのほかの対の屋などが渡り廊下でつながっています。

そこで、母屋にいるお父様が「おもうさま」、対の屋にいるお母様が「対の屋様」で「おたあさま」と呼ばれるわけです。

また正夫人のことを「北の方」「北政所」というのも、寝殿造りの構成からきています。

寝殿の前には池があり、船を浮かべたりしていたのですが、

各貴族の館に大きな池があるということになると、その水はどこから引いたのか気になりますね。

じつは京都は盆地なので、いわゆる扇状地にあたり、その地下には膨大な伏流水があるとのこと・・・池の水はその地下水から得られていたといいます。

今でも京都のお豆腐がおいしいのは、その伏流水のおかげだそうです。

さて、その池に張り出して作られたのが泉殿や釣殿で、夏にここで涼む様子が「源氏物語」にも描かれています。

ピグでは、簀子縁、庇の間(マネキンがいるところ)その奥の母屋(もや)、御簾や蔀戸も頑張って再現したのですが、スペースがなくめっちゃちっちゃくなってしまいました。それで、泉殿風に水の上に建てたわけです(〃艸〃)



マネキンたちがちょっといちゃいちゃしていますが(#^^#)
洋の東西を問わず、生産に携わらない貴族たちは恋愛の方に興味が行くようで、

和歌や小説の発展は、そういう時代であったからこそなのですね。

なんとなく「源氏物語」のイメージで作ったらこうなりましたwww

「源氏物語」といえば、紫式部ですが、
私は清少納言が好きなので(お友達になりたいwww)
いつか清少納言のことも書きたいです。

その時はよろしくお願いします。

ご訪問ありがとうございます。

先日、信号待ち中の保育園児の列に、衝突された乗用車が飛び込み、幼い命が失われるという事故がありました。

それが、いつも建部大社に参拝するときに渡る交差点を少し北に行ったところでしたので、
ほんとうに驚き、胸がつぶれる思いをいたしました。

滋賀県の方は、大阪に比べると運転マナーがよく、石山駅の駅前でも、横断歩道を渡ろうとすると、みなさんきちんと止まっていただけますので、まさかという印象でした。

亡くなられたおこさまのご冥福と、お怪我をされた皆様の一日も早いご回復を心よりお祈りいたしますとともに、
このような痛ましい事故がおきませんよう、切に願うばかりです。



このような悲しいニュースが続くなかで、
大阪の毎日放送「ちちんぷいぷい」で、今日のトップニュースは

大阪の百舌鳥、古市古墳群がどうやら世界遺産に登録される可能性が高まってきたようで、
ヘリから仁徳天皇陵を撮影していましたので、久しぶりに胸が躍る気分になりました。

堺市の百舌鳥古墳群にある仁徳天皇陵は墳丘の大きさとしては世界最大の墳墓ですが、
藤井寺市の古市古墳群の応神天皇は、土の量(体積)ではそれを上回るとされ、
そういう点では両方ともエジプトのクフ王ピラミッドや、中国の秦の始皇帝陵と肩を並べうる遺産であるのですが

一番のネックは「調査をしたことがない」Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン
ということでしたので、遺産といっても調査が行われていなければ、はっきり言って古いのかどうかも証明できないわけで><

同じ南大阪で地元の熱意も見えるところにいるので、とっても心苦しいのですが、
これは無理かも~~~(´・ω・`)と思っていたので
内心かなり喜んでしまいましたwww

もしユネスコから調査をしろといわれても、
宮内庁は「陵墓は遺跡ではなく、祭祀の対象である」という立場で、絶対調査はさせてくれませんから、もうこれは絶対無理で、

今年になってから堺市がやっとこさ外堀まで入れてもらってトレンチなどを掘れたらしいのですが、それも三重の一番外ですからねぇ^^;
本格的な調査などは全くできませんもの

ですから、そこを何とかクリアできて世界遺産に登録していただけるのは、本当にうれしいですので、実現を祈りたいと思います。

もちろんわが日本武尊白鳥陵古墳(前の山古墳)も、古市古墳群のひとつとして登録されることになるわけですが、

こういう古墳ってじゃあ調査もせずになんで○○天皇陵とかわかるの?というと

いちおう「古事記」「日本書紀」に陵墓名は、たとえば仁徳天皇陵なら「百舌鳥中陵」とか言う風に地名で書いてあるからですが、

天皇家は代々陵墓を祭祀していたため、「古事記」「日本書紀」で決まってからは、それがずっと伝来しているということになります。
で、途中で「延喜式」のような細かいことを決めた法令集などに、また場所も書いてあるのですが、

律令制が崩壊し、応仁の乱などでお公家さんたちも京都から避難するような事態が起こったりすると、やっぱり途中でわからなくなることもあり、

国学が盛んになって「尊王思想」が強くなる幕末から、天皇制が確立する明治の初めに、もう一度陵墓の見直しがされ、ここでいっそう陵墓の比定がややこしくなります。

ヤマトタケルで言えば、能褒野陵などは、いままで本家争いをしてきた2つの古墳ではなく、全く別の丁子塚が白鳥陵になったり、(多分立派だからw)
古市古墳群のほうでも長く伝承されてきた「白鳥神社古墳」ではなく、6世紀の様式の「前の山古墳」が比定されることとなります。(多分立派だからw)

で、前の「白鳥神社古墳」は、上に近鉄の古市駅ができちゃったりしているわけです(´;ω;`)

まあ、ヤマトタケルの場合は鳥になって飛んで行ったので、中身がないお墓ということで、どーでもいいのかもしれませんがwww
ほかの陵墓も似たり寄ったり、必ずしも古代から伝承されてきたままとは言えないのです。

ですから、天皇陵というのはいろいろと問題が多いと言えるのですが、
今のままでは陵墓は宮内庁の管轄なので、調査は本当に期待できないというしかありません。

ただ、継体天皇陵、欽明天皇陵、斉明天皇陵に関しては、文献に一致する古墳が比定されている陵墓以外に確認されており、
(簡単に言えば、普通に発掘したらそこが天皇陵だった!!!とわかったってことですね)
その場合も宮内庁は「祭祀の対象は変更しない」という立場(よくわからんけど)
なので、改めてそこを陵墓指定しないということなので、
継体天皇陵らしい「今城塚古墳」なんかは発掘し放題で、現在は復元されて歴史公園として、市民の憩いの場となっています。

なんだかねえ"(-""-)"と思いますが、世界遺産を機に、せめて陵墓と断定できていない「陵墓参考地」(いやひょっとしたらこれ御陵かも?的な古墳)だけでも調査をしていただけたら、と古代史に縁のある人間としては思ってしまいます。

それと、これは昨夜のNHKニュースで知ったのですが、

国立科学博物館を中心とした研究チームで、縄文人女性のゲノム解析が100%できたそうで、これもいろいろと深い研究成果が待たれるところですが、

ニュースによると、フィリピン~台湾~南西諸島の東アジア沿岸部の人たちの遺伝子と重なる部分が多いようで、
やっぱりポリネシア系に近いんでしょうか?

今、考えている丹後の伝承も、弟橘媛にまつわる神事も、天孫降臨後の日向三代も
海の匂いがプンプンします。
こういう伝承の故郷が、ゲノム解析という最新の科学で立証されるのも時間の問題かもしれませんね。








この前の「ちょっと休憩」で取り上げた三種の神器のうち、草薙剣についての考察です。

この前はどこに書いたのかわからなくなって(ノ∀`)アチャー

リンクを貼らずに投稿しましたので、よろしければよんでみてくださいませ。


ちょっと休憩~三種の神器

テーマ:
ご訪問ありがとうございます。

一連の退位礼も滞りなくおわり、明日の剣璽渡御の儀をもち、いよいよ令和の新時代を迎える運びになりました。

先日の伊勢神宮参拝から剣璽を侍従の方が捧げ持たれて随行されている様子が、テレビでも報じられ、本日も退位礼ではっきりと映されておりましたので、

「三種の神器」について少しお話をしておこうと思います。

まず「剣璽」という言葉ですが、
「剣」は天叢雲剣(草薙剣)の形代である神剣、「璽」は「玉璽」、八尺瓊勾玉のことをさします。

「三種の神器」はご存知のように鏡、剣、玉であるわけですが、

鏡つまり「八咫鏡」は本来のものは伊勢の内宮にあり、
これは内宮の火災で被災し、今あるのは元と少し形状が違っている可能性があるのですが

原田大六氏が指摘されたのですが、福岡県糸島市にある「平原遺跡出土の大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)(直径46.5cm)が

・ 「延喜式」や「皇太神宮儀式帳」で言うところの、鏡を入れる桶代の内径「一尺六寸三分」(約49センチ)に合致する。

・ 「神道五部書」などで「八葉八頭花崎形」とある。

というふうに一致するところが多く、同型のものではないかという推測もされています。

一方で、これは伊勢内宮のご神体であり、天皇陛下のご身辺に置かれるものではないので、
その代わりに宮中賢所(内侍所)に形代の神鏡が祀られてあり、
今朝参拝された「賢所」というのは、この神鏡をさします。

これも形代なので名称は「八咫鏡」ですが、
天皇の身辺にはなく、賢所にあったことが災いし、
平安時代の960年、980年、1005年に起こった内裏の火災で被災し、1005年には、焼損がひどく灰の状態のままでおかれることになったようです。

このころの政府は、かの有名な藤原道長が首班であったのですが、
道長は神鏡の改鋳に積極的であったようですが、公卿の反対が強く、断念されたということで、

源平合戦のおりには、三種の神器も安徳天皇とともにいったんは壇ノ浦の海に入るのですが、神鏡の櫃が浮き上がり、源氏に回収されてしまうのは、灰となっていたので軽かったのかもしれません。

次に「剣」ですが、これはもうヤマトタケルで散々述べていたことですが、
もともと熱田神宮にあった「草薙剣」を新羅僧道行が盗み出し、その後宮中に置かれていたのが、天武天皇の晩年に天皇のご病気が「草薙剣の祟り」ということで、熱田神宮に返されたという経緯があり、その後持統天皇の即位には鏡剣がささげられていますので、
それが今日に伝わるものの元であると考えられます。

ただ、それは安徳天皇とともに壇ノ浦に沈んでしまい、その後は伊勢神宮から代わりの剣が奉納されたと伝えられています。

「草薙剣」はもともと出雲神話の八岐大蛇の尻尾から出たものですから、
北九州系鏡文化の象徴としての「八咫鏡」と
出雲銅剣文化の象徴としての「草薙剣」は
「高天原」と「葦原の中つ国」の統合の象徴ではないかと考えられなくはないと思います。


さて、壇ノ浦では箱ごと浮き上がって、難を逃れた「八尺瓊勾玉」ですが、
これだけは本物が天皇の身辺にあります。

勾玉については
「日本書紀」第一の一書と「古事記」にのみ記録があり、
天照大神に「私だと思って」と言って渡された八咫鏡と比べると不安定ではありますが、

もともとは立派な装身具ということで、天皇の位の付属品として伝えられ、

賢所の鏡のようなご神体的な意義は低いのかもしれません。

そうすると、玉璽と同様に寝所近くにに置かれる剣のほうも、ご神体ではなく護身具であると考えられ、

熱田神宮のご神体「草薙剣」とはすこし意味合いが違うのか…

そうするとわたしの「草薙剣」が本来「熱田神宮」のものであった、という」こともあながち間違いではないという気もします。

このように謎の多い「三種の神器」ですが

202年ぶりの生前譲位の機会にまみえるというのは、わたしにとってはまたとない機会になりますので、おりにふれてこういう話題を取り上げてみたいと思います。










ちょっと休憩~おすすめ!

テーマ:
ご訪問ありがとうございます。

天皇陛下の伊勢神宮御参拝も無事に終わられ、帰京の途につかれたという事ですが、

御参拝は習わしの通り外宮から内宮の順でした。
その外宮こそ、かの丹後の真名井神社から遷座された豊受大神の祀られている宮なのです。

やはり丹後は重要なポイントであったのでしょうか?

さて、本題に入りましょう。

今日は、これからの展開のために買った書籍をご紹介したいと思います。

筑摩書房から出ているちくま新書の「古代史講義」、880円です!

ここのブログに来てくださっている方にはぴったり!

帯の宣伝にあるとおり、教科書レベルから最先端の研究に踏み出せる本だと思います。




これを皆さんに読まれてしまうと、「水無瀬さんのいうこともちょっとねーーー」と思われたり、

鋭いコメントがついたりするのではないかとひやひやですが^^;

それくらい専門のお話が分かる(それも私の把握してない最先端の成果も)良書です。

たしかにまったく初めての人には、系図や地図が出てきて、ややこしいのかもしれないのですが

ここのブログで鍛えられたあなた!あなたなら大丈夫です!

ぜひ読んでいただきたいです!

鋭いコメントもつけてくださって大丈夫、ちゃんと答えるか、謝りますから(^-^)

この本のいいところは
最前線の学者の先生方が、自説をろうろうと展開するのではなく、
現存する史料や、最新の考古学の成果をまとめ、提示することと
問題点の指摘
また、問題のとらえ方の視点を示してくださっているという点です。

わたしはよくシンポジウム本を買うのですが

シンポジウムの基調講演というのは、だいたい聴衆(そのへんにいる古代史ファン)に分かるように、テーマについての基礎的な知識や
これまでの学説、そこから見える問題点などを解説することが多く、
自説は最後に簡単に・・・という構成が多いのです。

それで、最後に高名な先生方によってシンポジウムが行われるわけですが、
そこでの討論もお互いの意見をぶつけ合うものになりますが、そこも聴衆がいてこそですから、論拠もはっきり言わないといけないし、
それも活字化されているので、聞き間違いや誤解も少なく理解できるので、重宝なのです。

この本は、その中の基調講演のような感じで、

各テーマのご専門の先生方に、詳しく解説していただいているので、内容は大変高く、説き口が易しいというのも魅力です。

さて、わたしも丹後のお話に首を突っ込んでしまいまして、

かといってヤマトタケルほど詳しい知識があるわけでなく、
「海部氏系図」には「卑弥呼らしい人」まで出てくるので、
邪馬台国も絡んで大変なのですが・・・

ここの邪馬台国のところを見る限り、大まかな道筋を間違えてはいないとちょっと安心する部分もあります。

でも、ここに載っている弥生時代というのは
本当に最新の考古学に基づいた弥生時代なもので、少し頭を整理しなければなとも思います。

それで、一応この本を読み込んで(といっても邪馬台国の部分はかなり短いのですが)また、お話を続けていこうと思います。

その間は、ほかの話題やちょっと休憩が入ることになりますが、

どうぞしばらくお待ちいただけますようお願いいたします。

その間に、この本を読んでいただいけると、面白いと思います。





ご訪問ありがとうございます。

丹後国の謎がこんなに大きいとは思わず、最初は入門編にしていたのですが、
表題を改めることにいたしました。

どうも丹後には「古事記」「日本書紀」とは全く別の、海洋系の神話世界が広がっているような感じで、入門編という感じではなくなってきたのです。

そこで、いよいよ、天橋立まで行った成果をと思うのですが、これはなかなかたいへんです!

そこで、とりあえずこのまえからお話ししている「籠神社の海部氏系図」を見てみることにいたしましょう。(「元伊勢籠神社御由緒略記)による)
後で再掲しますので今はざっとでいいですよ!(^^)v

正哉吾勝勝也速日天押穂耳尊(マサカアカツカツヤハヤビアメノオシホミミノミコト)【天照大神子、ニニギ尊父】
     |
(始祖)天照国照彦火明命(アマテルクニテルヒコホアカリノミコト)
     |
(児)天香語山命(アメノカゴヤマノミコト)
     |
(孫)天村雲命(アメノムラクモノミコト)
     |
(三世孫)天忍人命(アメノオシトノミコト)〔一名倭宿祢命…神武朝〕
     |
(四世孫)天登目命(アメノトメノミコト)
     |
(五世孫)建登米命(タケトメノミコト)
     |
(六世孫)建田勢命(タケタセノミコト)
     |
(七世孫)建日潟命(タケヒガタノミコト)〔孝昭朝〕
     |
(八世孫)市大稲日命(イチオオイナビノミコト)
     |
(九世孫)大那毘命(オオナビノミコト)
     |
(十世孫)小縫命(オヌイオミコト)
     |
(十一世孫)天御蔭命(アメノミカゲノミコト)〔開化朝〕
     |
(十二世孫)宇介水彦命(ウケミズヒコノミコト)〔崇神朝〕
     |
(十三世孫)宇介津彦命(ウケツヒコノミコト)〔垂仁朝〕
     |
(十四世孫)小登與命(オトヨノミコト)〔景行朝〕
     |
(十五世孫)建稲種命(タケイナダネノミコト)〔成務朝〕
     |
(十六世孫)大倉岐命(オオクラキノミコト)〔成務、仲哀朝〕
     |
(十七世孫)明国彦命(アケクニヒコノミコト)〔成務、仲哀、応神朝〕
     |
(十八世孫)難波根子建振熊命(ナニハネコタケフルクマノニコト)〔仲哀、応神、仁徳朝〕
     |
(十九世孫)建振熊宿祢(タケフルクマノスクネ)〔応神、仁徳、允恭朝〕
     |
(二十世孫)海部直都比(アマベノアタイツヒ)〔安康、雄略朝〕
     :
   (以下略)

面白いことに安康、雄略朝には「直」(あたい=地方豪族に多い姓)を名乗っていて、「日本書紀」の傾向に一致します。この辺りから「氏姓制度」が始まっているのです。

この後、大化の改新があった孝徳朝からは、代々の名乗りが「海部直○○祝」(はふり)となっていて、ここの家系が籠神社の宮司に専任することになったことがうかがえるのですが、
その家系が現在の宮司さんの82代目(八十一世孫)「海部直光彦祝」氏まで続いていて

しかも本系図の範囲の平安初期までは、代々丹後国庁の認可を受けていたらしく、1代ごとに丹後国印が押印されているというすごいものです。

ところで、この系図の評価についてですが、

「上宮記逸文」のような、代々の当主を書き連ねる「竪系図」の形を残したものとしての価値は十分にあるのですが、その内容となると、いろいろと問題が見えてきます。

一つは「先代旧事本紀」にある尾張氏の系図に酷似した部分があることです。

そこで、尾張氏の系図とこれを並べてみることにします。右に加えたのが尾張氏の系図です。

正哉吾勝勝也速日天押穂耳尊(マサカアカツカツヤハヤビアメノオシホミミノミコト)【天照大神子、ニニギ尊父】
     |
(始祖)天照国照彦火明命(アマテルクニテルヒコホアカリノミコト)≒?天照国照天火明櫛玉饒速日尊
     |
(児)天香語山命(アメノカゴヤマノミコト)               =天香語山命 
     |
(孫)天村雲命(アメノムラクモノミコト)                =天村雲命
     |
(三世孫)天忍人命(アメノオシトノミコト)〔一名倭宿祢命…神武朝〕  =天忍人命
     |
(四世孫)天登目命(アメノトメノミコト)            瀛津世襲(オキツヨソ)命(甥)
     |
(五世孫)建登米命(タケトメノミコト)    建筒草(タケカクサ)命(またいとこに建斗米命)
     |
(六世孫)建田勢命(タケタセノミコト)           =建田勢命(またいとこの子)
     |
(七世孫)建日潟命(タケヒガタノミコト)〔孝昭朝〕     建諸隅(タケモロズミ)命(甥)
     |
(八世孫)市大稲日命(イチオオイナビノミコト)         倭得玉彦(ヤマトエタマヒコ)命
     |
(九世孫)大那毘命(オオナビノミコト)           弟彦(イロトヒコ)命
     |
(十世孫)小縫命(オヌイノミコト)          淡夜別(アワヤワケ)命〈従弟に小縫命〉
     |                         :
(十一世孫)天御蔭命(アメノミカゲノミコト)〔開化朝〕
     |                         :
(十二世孫)宇介水彦命(ウケミズヒコノミコト)〔崇神朝〕
     |                         :
(十三世孫)宇介津彦命(ウケツヒコノミコト)〔垂仁朝〕
     |                         :
(十四世孫)小登與命(オトヨノミコト)〔景行朝〕      乎止與(オトヨ)命〔成務朝〕
     |
(十五世孫)建稲種命(タケイナダネノミコト)〔成務朝〕  建稲種(タケイナダネ)命〈ミヤズヒメ兄〉
     |
(十六世孫)大倉岐命(オオクラキノミコト)〔成務、仲哀朝〕   男綱根(オヅナネ)命
     |
(十七世孫)明国彦命(アケクニヒコノミコト)〔成務、仲哀、応神朝〕尾治弟彦連(オハリノオトヒコノムラジ)
     |
(十八世孫)難波根子建振熊命(ナニハネコタケフルクマノニコト)〔仲哀、応神、仁徳朝〕 尾治金連
     |
(十九世孫)建振熊宿祢(タケフルクマノスクネ)〔応神、仁徳、允恭朝〕  尾治坂合連
     |
(二十世孫)海部直都比(アマベノアタイツヒ)〔安康、雄略朝〕     尾治佐迷連
                       ※この世代に尾張目子媛(継体元妃)


さて、どうでしょう?
尾張氏の系図が載っている「先代旧事本紀」じたいが平安時代初期の成立とする意見もあり、また偽作は序文だけでその内容は古い部分も含んでいるという指摘もあります。

素人としては何とも言えないのですが、尾張氏のほうが天皇家の世代とずれがあり、天皇家の系譜が当ブログの「ヤマトタケル」で述べたように、多くの作為が加えられているとすれば、むしろ尾張氏の方が作為が少ないとも思えてきます。

そこで海部氏と尾張氏の系図を比べていくと(十世孫)小縫命と同世代の淡夜別命の次、小登與=乎止與命との間に尾張氏のほうは大きな断絶があります。
(乎止與命の血統は明記されていないのです。)

その間の海部氏の系図には
(十二世孫)宇介水彦命(ウケミズヒコノミコト)〔崇神朝〕
(十三世孫)宇介津彦命(ウケツヒコノミコト)〔垂仁朝〕
(十四世孫)小登與命(オトヨノミコト)〔景行朝〕   とあるのですが…

(十二世孫)宇介水彦命(ウケミズヒコノミコト)や(十三世孫)宇介津彦命(ウケツヒコノミコト)はともかく、

(十一世孫)天御蔭命(アメノミカゲノミコト)〔開化朝〕は、開化天皇の皇子、あの日子坐王の妃である息長水依比売のお父さん、野洲市の三上山の三上祝(ミカミノハフリ)がお祀りする御上神社の祭神天御蔭神と名も世代も同じということになり、

その子が「水依比売」(ミズヨリヒメ)という名の水性の女神ないしは巫女なら、
その兄弟が宇介水彦であるというのも違和感はありません。

つまり、ここは海部氏が尾張氏の系図をもとに「古事記」「日本書紀」との整合性をもたらすために、何らかの加筆を行った部分ではないかと、疑うことができるのです。

しかも、ここで日子坐王系統の神様の名が出てくるのは、ちょっと驚きです。それも野洲ですからねぇ^^;

また、尾張氏のほうは「連(むらじ)」という姓が付くのが結構早いのですが、

継体天皇の元(はじめ)の妃、尾張連草香の娘の目子媛(めのこひめ)の世代から考えると
弟彦連は允恭~安康朝の人物で、晩年に氏姓制度が確立したのなら矛盾はなく、

むしろ「古事記」「日本書紀」に世代が合っている「海部氏系図」のほうが新しいということもできます。

そこでこの部分を見てみると、いましたよ、難波根子建振熊という人物です。

この人物は「古事記」「日本書紀」では

夫お仲哀天皇を失いながら、三韓征伐を果たし、日本に帰って応神天皇を産んだ神功皇后が、乳児の応神天皇とともに九州から凱旋する際、

応神天皇を亡き者にしようとした仲哀天皇の皇子カゴサカ王とオシクマ王の反乱が畿内でおきます。彼らの母親は前皇后大中姫、ヤマトタケル一妻系譜の末端の彦人大兄の娘で、そのえにしでしょうか。二人に協力したのは、イナヨリワケ王の子孫犬上君倉見別でした。

大阪市北区(大阪駅付近)の兎我野で、反乱の成否を占う狩りの途中に、兄カゴサカ王を失ったオシクマ王は、京都府の宇治で皇后軍を迎撃するも失敗、さらに京都府と滋賀県の境の逢坂でも敗走し、ついに滋賀県の瀬田川で身を投げます。

それを討伐したのが「和珥(ワニ)氏の祖 難波根子建振熊」で、なんと日子坐王は母も妃も和珥氏の女性で、神功皇后も日子坐王系息長氏なので、

この事件はまさに、ヤマトタケル系VS日子坐王系の戦いであったのですが…

それは置いといて(これも面白いと思うんですが^^;)

この建振熊さんは活躍の舞台が、瀬田川(琵琶湖から流れ出て、淀川になって大阪湾にそそぎます)から宇治という淀川水系!

かの継体天皇がうろうろしたところ(* ´艸`)

和珥氏の本拠ともいえるところです。

この人は、和珥氏なんですよね…「古事記」「日本書紀」にも「和珥氏の祖」としか書いてないし(-ω-;)ウーン

どうもここのずれも、その子の建振熊宿祢(同名!)ともども「古事記」「日本書紀」に合わせて加筆された疑いが濃いと言えます。

ただね…その加筆がどうも日子坐王の系図と近い気はするんですよねえ…

そうするとめったやたら加筆したのではなく、基本的には尾張氏の系図を用いながら
和珥氏とか日子坐王に何らか親しさを覚える…海部氏はそういう位置の豪族であったと思っています。

では尾張氏とは何かというと

この氏族は崇神天皇(4世紀初頭、前期古墳時代)以前、つまり弥生後期までは葛城の高尾張にいて、その後美濃・飛騨(岐阜県)に移住したのち、乎止與命のころ尾張国造家となって
のちに熱田神宮宮司家として京都で公家としても存在しました。

源頼朝の母はここのお嬢さんになります。

祖神は天火明命で、これを祀るのは尾張一宮の真清田神社、
氏族として祀っていたのが熱田神宮の熱田大神と草薙剣ということになります。

葛城付近は銅鐸も出ていますし、それ以前には后妃も出しており、崇神天皇のころに大和を出たとなると、

賀茂氏のように古い氏族であった可能性もあり、
同じく高天原出身でありながら、先に大和へ降臨し、のち神武天皇に屈服した饒速日命の子孫物部氏とも重なってきます。
(実際に饒速日命と天火明命を同一神とする伝えもあり、同族だともいわれています。)

いわゆる欠史八代、鳥越憲三郎氏のいう「葛城王朝」のころに后妃を輩出しているのも、
物部氏と似ていますし、物部氏が東海地方に勢力を広げたことは谷川健一氏の指摘されたところですが、尾張氏はその後を追って、東海地方に進出したような気もします

つまるところ彼らは、大陸から来た弥生系の人々でありながら、いわゆる大和朝廷成立以前に畿内にいた古い部族であったということになり、

私はその人たちこそが、銅鐸の祭祀を行っていた人々であったと思うのです。

海部氏がどのようにして尾張氏と結びついたのかはよくわからないのですが、
北近畿は銅鐸圏といえますし、丹後も出雲と越を結ぶ重要な地域でもあるので、
そういった縁から、かつて大和にいた銅鐸の雄族の系譜を借りたものではないか、

あるいは銅鐸よりもまだ古い時代の人々を、尾張氏や物部氏とは別に移住した一族が支配するようになって、海部氏を名乗ったのではないか、

というように考えることもできるとは思います。

わたしはどちらかというと、後者の考え方を取りたいのですが
それは、このまえ天橋立を訪れたときの感覚に沿うもので、

ここは大変に古い、独自の伝承を保持しているのに、この系図はなぜか
独自性が感じられないと思うからです。

あの海の匂いのする真名井神社や籠神社と
この系図はとても異質な感じがします。

では、籠神社の独自性とは何でしょうか?

これはまた、次回のテーマということで、今回は系図についての検証にとどめておこうと思います。

次回もぜひご訪問くださいませ。
いよいよ元号が「令和」(れいわ)と決定しました。

出典は意外と万葉集!

巻5の序の一節
「時に、初春の令月にして、気淑(よ)く、風和らぐ」からとられたようです。
優しい感じの元号になりましたね。

さて、なぜ日本には元号があるのかというと、これは中国の影響で、

中国の皇帝は、(というより、「皇帝」「emperor」という存在は「神から与えられた統治権を持っている」という前提があり、

「ナポレオンの戴冠式」の絵にローマ法王がいるのも、本来「神聖ローマ帝国」の皇帝の座は神のご意志のもとに授けられるという前提があったからです。(ナポレオンはそれを自分の手で戴冠しちゃったのですが^^;)

それは中国でもやはりそういうことで、そこから「徳のない人が皇帝になれば、天が皇帝を交代させる」という「易姓革命」の思想が生まれ

前王朝の最後はたいがい暴君か治世が乱れ、新王朝の建国者は聖君に描かれるということになりました。

「日本書紀」でも、仁徳天皇の聖帝化や武烈天皇の暴君伝承は、万世一系の歴史書が作られる前に、こういった易姓革命で歴史が語られたことがあったという傍証になるのです。

さて、このように天から預かった権威で世界を統治するのが「皇帝」であったので、

時の流れについても、その管理は「皇帝」に任されていました。

したがって元号は「皇帝」の決めるものであり、「皇帝」以外はそれを持つことは禁じられていたのです。

さて、日本では古くは中国の冊封体制のもとで、「漢の倭の奴の国王」とか「親魏倭王」の称号を「皇帝」から与えられていました。倭王武の時でさえ、それは変わりませんでした。
したがって「王」は皇帝に任命される存在であったのです。

しかし、7世紀の初め、日本はそれまでの「倭」ではなく「日本」として、中国に対して独立した存在であるということを示し始めます。

それが「日出づる処の天子…」で有名な聖徳太子の遣隋使派遣の際の国書にあらわれた態度であったわけです。「天子」というのは天によって統治権を授けられた、まさに「皇帝」を意味する言葉で、それをより強調した呼称が「天皇」であったわけです。

ところで、わたしたちは最初の元号は645年に定められた「大化」であるとならいますが、

蘇我氏のころ、「法興」という年号が存在したことが「法隆寺金堂釈迦三尊光背銘」や「伊予国風土記逸文」にあり、これは存在したことが間違いないとされています。

特に光背銘は、止利仏師(鞍作鳥)が当時彫ったものなので、信憑性は高いものなのです。

もしかしたら、蘇我氏や聖徳太子は、
「天子」であるという宣言のもと、法律を定めたり(十七条憲法)、元号を決めるという
「天子」の権利を行使していた可能性があります。

ところが、大化の改新というか乙巳の変のクーデターで蘇我氏が滅んだため、
元号の開始が「大化」まで下げられてしまった可能性もあるのです。

この後、元号が常時用いられるようになるのは、律令制が完成した「大宝」からになり、
ここで天皇を中心にした政治体制が完成したと言えます。

それでも元号はしょっちゅう変えられていましたが
明治以降は天皇の権限強化のために、一代に一元号となり今日に至ります。

さあ、新しい御世はどんな時代でしょう。いい時代であることを祈念していきたいと思います。