この三輪町もそうですが、この辺りの地名と大和の地名が一致してることは、安本美典さんたちも指摘されていますが、(朝倉もそう)
ここから大和に人の移住があったとしても時代が特定できないので、(安本さんのいう)「神武東遷」の証拠とはならないという反論があります。
確かに九州から大和に移動するのはこの後もあります。
この三輪町もそうですが、この辺りの地名と大和の地名が一致してることは、安本美典さんたちも指摘されていますが、(朝倉もそう)
ここから大和に人の移住があったとしても時代が特定できないので、(安本さんのいう)「神武東遷」の証拠とはならないという反論があります。
確かに九州から大和に移動するのはこの後もあります。
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さて、北部九州の制圧を成し遂げた神功皇后の行動を、順次見ていきましょう
夏4月3日、(皇后は)北方の火前=肥前ヒゼン国(佐賀県、長崎県)の松浦県マツノアガタに到って、玉島タマシマ里の小川のほとりでお食事をされた。
ここで、皇后は針を曲げて釣針をつくり、ご飯粒を餌にして、裳の糸を抜きとって釣糸にし、河の中の石の上に登っ て、釣針を投げて誓約ウケイをして、
「朕(私)は西の財宝の国を求めようと思います。もし事を成すことができるなら、河の魚よ、釣針を飲みなさい。」とおっしゃった。
そうして竿をあげると、そこで鮎を得た。
その時皇后は、
「珍しい魚ですね。」とおっしゃった。それで当時の人は、そこを名づけて梅豆羅国メズラノクニといった。
今、松浦マツラというのは、訛ったのである。
これ以来その国の女の人は、四月の上旬になる度に、釣針を投げて年魚アユをとることが今も絶えない。
ただし、男だけでは釣っても魚を獲ることができない。
松浦は「魏志倭人伝」の「末盧国」と考えられますから、4世紀には松浦であって、メズラではないだろうと思います。
こういう巡幸タイプの神話はtヤマトタケルでも「常陸国風土記」に見られ、原型はその土地の神様の話なので、
オキナガタラシヒメの一部は、北部九州の女神の信仰が入っているように思います。
皇后は神の教えがその通りであることを知られて、さらに天津神国津神の祭祀をして、自ら西方を討とうと思われた。
ご訪問ありがとうございます。
なんと7月7日は七夕🌌だというのに「光る君へ」は都知事選で放送休止だったので(^^;)
ここで清少納言をちょっとあげておこうと思います(;^_^A平安時代飢餓状態ですw
皆さん、脳内再生でどうぞ((*_ _)ペコリ
さて中宮定子(高畑充希さん)の職御曹司シキノミゾウシ時代は2年ほど続き、その間一条天皇(塩谷瑛久さん)が内密で内裏に招きいれた20日間ほどを除くと、
前回お話したように、
定子と天皇は会うことはありませんでした。
道長が世のために働く、というドラマだからしょうがないのですが、
伊周、隆家はあんなもんだとしてもw
一条天皇はちょっとかわいそうと言うか……
あそこまで変えないで欲しいなと( ̄▽ ̄;)
清少納言推しとしては、
一条天皇が政治をほっぽって定子と会ってたというのは嘘ですからねーo(* ̄○ ̄)ゝ
と、そこは強調したい❗
一条天皇は、定子は愛しながらも、道長のゴリ押しには、
政治のために己れを通さなかった、バランス感覚を優先した君主でした。(良いか悪いか、正しいか間違ってるかは別ですが💧)
次の三条天皇は、道長のやったことを逆手に取って、ゴリ押しする道長と全面対決するわけですが、
この分ではどれだけひどい君主に描かれるか、かなり心配です💦
まあ、でもそれはそれで、物語としては面白いので、都知事選が8時前に決まったも同然だったので🎊
やってほしかったよーo(T□T)o
ということで、今回から斉信に次いで、よく登場する藤原行成ユキナリ(渡辺大知さん)に注目しましょう❗
時代はまだ職御曹司シキノミゾウシ時代です。
多くの貴族が定子を無視する中、行成は蔵人頭クロウドノトウ(事務官の弁官を兼ねる頭弁トウノベン)として、一条天皇と定子の間を行き来していました。
能吏でもあり、権力におもねらない実直な人柄の行成は、
職御曹司の窓口であった清少納言とはかなり親しく、自室に下がっている時ならまだしも、里に下がっていても、清少納言(FSウイカさん)に取り次ぎを頼んだとかかれています。
その二人の間のエピソードとして有名なのが、
百人一首にも採られている
夜をこめて 鳥の空音は はかるとも
世に逢坂の 関は許さじ
という歌でしょう。
頭弁=行成さまが、私たちのいる職御曹司に参上して、わたしとお話をなさっているうちに、夜もすっかり更けてしまった。
(行成)「明日は主上の御物忌みで、殿上の間に籠もらなければならないから、丑の刻(午前2時)になったらまずいぞ。」
といって、宮中に参上なさった。
翌朝、蔵人所の紙屋紙(事務用の紙)をたくさん使って、
(行成)「後朝キヌギヌの朝は心残りが多い心持ちがいたします。一晩中、昔語りでもしながら夜を明かしたかったのに、鶏の声にせき立てられまして。」と、
たいそう美しく、本当でもないことをたくさんお書きになっている。
まず、主上の御物忌みとは、当時はいろいろ日が悪い、方角が悪いと迷信がありまして、陰陽道などでそれを計算し、外出や仕事をするのを慎んだり、「方違カタタガえ」といって、住居を変えたりしました。
それで安倍晴明(ユースケ・サンタマリアさん)なんかが活躍していたわけですね。
で、天皇にも物忌みの日があるので、その時は宮中に出入りするのは憚られて、だいたい日の変わった後ぐらいには、天皇のおられる清涼殿にある「殿上の間」という詰所に、側近は詰めておかないといけなかったようです。
で、行成は2時までには行かないと!と言って、少納言のところを出たわけです。
当時、男性が女性を訪問して、朝になって帰って行く、一晩恋人と過ごした後の切ない朝を「後朝キヌギヌ」といい、その切なさを和歌などにして、カノジョに贈るわけですが、この場合は当然、雑談をしていて、
「ヤバッ、夜勤の出勤時間だ~💦」と言って出勤しただけなのです。
それにもかかわらず、行成はまるで後朝の文のように、名残惜しさを綿々と連ねて、少納言に届けたのです、事務用の用紙でw
要は、「後朝ごっこ」を仕掛けてきたわけですね❗
ドラマで見ていると渡辺大知さんの行成は真面目でおとなしそうですが、清少納言とこんな遊びをやれる、頭がキレる人だったようです。
お返事に、
(清少納言)「夜更けに鳴いた鶏というのは、『孟嘗君』のと同じ、鳴き真似だったのではありませんか?」
と申し上げたところ、すぐさま、
(行成)「『孟嘗君の鶏の鳴き真似は、函谷関の門をあけて、三千人の食客とともにかろうじて逃げた。』とあるが、
私が越えたとのは逢坂の関ですよ。」
ときたので、
ええとσ(´・д・`)
ここから解説いるなあ💦
中国に司馬遷の書いた「史記」という歴史書がありますよね。古文でなんかやったはずです。
「鴻門之会」とか「四面楚歌」とか記憶にありますよね( ・∀・)
その中に出てくる孟嘗君モウショウクンという人は、斉という国の使いとして、秦の国に行き、捕らえられそうになったのを逃れて、夜半に「函谷関カンコクカン」という関所まできますが、夜なので関所が閉まっています。ヤバイ((( ;゚Д゚)))
そこで一行の中に鳥の鳴き真似の上手い人がいて、鶏の鳴き真似をしたところ、(当時は時計がないので)朝がきたと勘違いした関守が開門し、一行は無事脱出したという故事を踏まえています。
つまり行成が、
「鶏の声に急かされて、早く帰ってしまったから、名残惜しかった。もっとあなたとゆっくり語り合いたかったのに。」
と後朝ぽい手紙を寄越したのに対し、
少納言は
「あらー、鶏がねw……
それにしてはまだ真夜中だったような気がするけど、 あれは「孟嘗君の鶏」ってことねw」と返したのです。
すると行成は
「孟嘗君の鶏は、夜中に函谷関を開けさせて三千人をかろうじて逃がしたんだよね。 でも、それは中国の関所で、 日本は「逢坂の関」なんだから、あなたと私が「逢う」関でしょ?❤️」と言ったのです。
どこまでも後朝のように振る舞う行成に
(清少納言)
夜をこめて 鶏の虚音は はかるとも
よに逢坂の 関は許さじ
夜更けに鶏の鳴きまねをして朝が来たとだまそうとしても、逢坂の関は優れた関守がいますから、函谷関とは違うのでそんなことでだまされて門を開けることはありません=あなたと結ばれることはありませんよ。
と申し上げた。
すると、またすぐに、
(行成)
逢坂は 人越え易き 関なれば
鶏鳴かぬにも あけて待つとか
逢坂の関は皆が越えやすい関だから、鶏など鳴かなくても、いつも門を開けて待っているとかいう話ですよ
という返歌があります。
清少納言は
「函谷関は鶏の鳴き真似をしたら開くけれど、私は身持ちが固いのよ❗ 」と切り返したのです。
それに行成も
「どなたにもモテモテのあなたですから、逢坂の関は「逢う」だけあって、鶏が鳴かなくても、開いてるんでしょう?」と帰ってきます。
これは少納言が身持ちが悪いというよりは、いろんな人にモテてるじゃありませんか?という褒め言葉です。
結局、これからどうなったかというと
という手紙のうち、行成様からの最初の一通は僧都の君が、額を床につけて、持っていかれた。
後の二通については、中宮様に差し上げる。中宮様は
「それでも逢坂の歌は、詠みぶりに圧倒されて、返歌をしなかったのは残念ね。」とお笑いになった。
とあります。僧都の君とは定子の弟で、出家した隆円ですが、
和様の書道の名手と言われた行成の書は、当時お手本としてみんな欲しがったのです。
定子の弟君に土下座して頼まれた清少納言は、最初のものは隆円に差し上げてしまいました。要は遊びなので、公開OKなのです。
その後、行成も少納言の手紙を回りに見せています。やはり公開OKで、
「うまく行った歌を見せられるのも甲斐がありますわ。でも私があなたの歌を見せびらかさないのは、同じくらいの思いがあってこそよ。」と、少納言は言ってますが、定子には見せてますねw
その後、例の源経房ツネフサ(道長の妻、明子の弟、源高明の子で、道長の養子になっていた。)とのやり取りで、
「頭弁=行成が先日の手紙で褒めていたよ。自分の想い人が褒められるのは嬉しいね。」というので、少納言も
「今日は嬉しいことが2つありましたわ。1つは頭弁が褒めてくださったこと、もう1つはあなたの想う人に入れていただいたことです。」と答えています。
長徳の初め頃、この人との付き合いが、清少納言を「道長派」だとするイジメに発展したようですが、あの長い里居の時も、経房は清少納言の居場所を知り、また中宮のもとも訪ねていたようなので、非常に信頼をおいている間柄と言えます。
本心なのか、リップサービスか判然としませんが、経房は恋人に近い存在かもしれませんね。
さて行成とはこの後どうなるのでしょう?
職御曹司の中宮定子の生活と共に、二人の関係を見ていきましょう。
次回もまたご訪問くださいませ。
ご訪問ありがとうございます。
この辺りの記事はちょっとなのですが、邪馬台国関連で、長くなってしまいました。
羽白熊鷲についても、記事量はわずかなのですが、場所が場所だけにただの叛乱記事としてすませられないのですが、
次の田油津媛タブラツヒメについては、卑弥呼説、卑弥呼の後裔説がつきまとうので、より詳しく検証してみようと思います。
25日、(皇后は)場所を移して
山門県ヤマトノアガタに行き、土蜘蛛ツチグモである田油津媛タブラツヒメを殺した。
ご訪問ありがとうございます。6月のお部屋のまとめです。
ご訪問ありがとうございます。
前々回「光る君へ」では、まさかの
「斉信(はんにゃ 金田さん)に騙された~」とボヤく道長(柄本佑さん)が出てきてびっくりでしたが、
まあ、斉信がうまく長徳の変を利用してのしあがったのは、史実と考えられるので、そーゆこと
なんですね(o´艸`o)♪
さて、「枕草子」を読む限りでは、
清少納言は斉信に関しては、すごく誉めているのですが、(見た目も、機転の利くところも、自分のいったことをずっと覚えている記憶力も)
定子に「あなたの推しだものねw」と言われるくらいに褒めまくったわりには、
「出世して蔵人頭じゃなくなったらもう会えないから、恋人になろうよ~💕」という斉信のお誘いには、なぜか
「恋人のことを人前で褒めるなんて、カッコ悪いわー」とピシャリと断ってしまいます。
といって、清少納言は恋人を作らないかというと、そんなことはなくて
いろいろな歌集から藤原実方と恋愛関係にあったということが推測できます。
これについては、またお話しするとして
今日は次のエピソードを見てみましょう。
人と物いふことを碁になして、近う語らひなどしつるをば、「手ゆるしてけり」「結(けち)さしつ」などいひ、「男は手受けむ」などいふことを人はえ知らず。この君と心得ていふ……
(人の男女のことをいうのに碁に例えて、攻め手を許してしまった、とかもう手がない、とか、男はハンディをもらってるよみたいにいうのを、他の人は知らなくて斉信さまとはツーカーで話しているの……)
自分のことじゃなくて、人の男女の仲って、要は噂話なんでしょうか?
どうも趣味が悪いけどw人間関係に敏感な斉信らしくもあります(^^;)
こんな話で盛り上がりながら、いざとなったらピシャリとは、確かに斉信もびっくりかw
ここにはもうひとり、宣方ノブカタの中将という、いつも斉信とつるんでいる貴族がでてきます。
源宣方とは源雅信の子、つまりあの倫子さま(黒木華さん)の弟でありまして、右大臣の子というハイソな貴公子ですが、けっこう笑い倒してるので大丈夫かしら?
後年、清少納言が紫式部にめちゃくちゃディスられたのはそのせいだったりしてw
この宣方、斉信の朗詠が素晴らしいと、いつも清少納言が褒めるので、斉信に歌い方を習ってそっくりに歌い、
「え⁉️誰⁉️」と女房らの関心を引きます。
そしてあろうことか、この碁の隠語の意味までも斉信に教えてもらって、清少納言に
「碁盤侍りや。まろと碁うたむとなむ思ふ。手はいかが。ゆるし給はむとする。頭の中将とひとし碁なり。なおぼしわきそ」
(碁盤はありますか? 私と碁を打っていただきたい。手はどうします? 先手を許してくださいます? 頭中将とは同レベルの碁です。分け隔てしないで!)
とお誘いしますが、
少納言に
「誰とでもそんなことしませんよ❗」とピシャリ‼️
斉信はさすがに碁にかこつけて、こんなあけすけには言わないですよね(;^_^A
急にこれを言われたら「は?」ってなるよね💦
しかも宣方はそれをまた斉信に報告w
斉信は喜んだみたいですけどね。
斉信も後で断られるけどねw
雅び度 0 ↘️↘️↘️
こうして、斉信の方はかっこいいのですが、
長徳の変(996年4月24日)その日に、伊周と隆家が左遷され、順送りで空席になった参議に滑り込み、宰相中将になります。
長徳の変がそもそも、斉信の妹四の君に通っていた花山院を、三の君に通っていた伊周と弟隆家が射たということで、
花山院も僧体で女性のところに通っていたとあっては表沙汰にもできずにいたものを、公にしたのは現場にいた斉信ではないかと言われていて、
それをドラマに取り入れたのが最初のシーンということになります。
もっともドラマではホワイト道長なので、斉信があることないことを言ったことになっちゃったけど、
実際は道長がチャンス❗とばかりに伊周の追い落としを行ったのでしょうね。
さて、それに対して、清少納言が一条天皇に話したということが「枕草子」に書かれています。
(斉信さまが)宰相=参議になられたのを、主上の御前で、
「あの方は詩をとても趣深く吟じられたものを。『蕭會稽之過古廟』なんかも、他の誰が吟じようとなさるでしょう?
しばらくの間だけでも(天皇の秘書の蔵人頭として)主上のお側にお仕えすればいいのに。残念なことですわ。」などと申し上げたら、(天皇は)たいそうお笑いになって、
「そこまで言うのなら、参議にはしないよ!」などとおっしゃるのも面白い。
というのが、宣方の中将の話の中に出てくるのです。
この時期がとても難しくて、
長徳の変の時は、伊周の左遷は当然急に決まって発表されたわけで、斉信の参議任命も公表されたときには決まっていたので、清少納言がこんなことを言う暇はありませんよね。(そもそも女房風情が止められるものでもないし、)
ましてや長徳の変前後は、道長と通じていると誤解されていた少納言は、女房らの無視にあい、長期の里下がりをして、
定子からの内密の手紙を受けて、秋、または翌年春にようやく再出仕を果たすという時期になります。
そしてその間の定子は、職御曹司から里邸の二条宮、さらにその焼亡を受けて、小二条宮(叔父高階明順アキノブ邸)に移り、一条天皇には会うことはありませんでした。
そして長徳3年(997)の4月に伊周らの罪が許されると、定子の謹慎も解けますが、
かといって落飾した后を後宮に入れて良いものかという、公卿の反発も強く、
内裏の外の中宮職の中にある職御曹司に入るのです。
ところで、ドラマでは定子を寵愛するあまり、一条天皇が職御曹司に入り浸っているように描かれていますが、
実際は、定子と一条天皇は、この時は会えなかったと考えられます。
翌年12月にも、長女の脩子内親王の袴着ハカマギ=3歳の祝いが宮中で行われますが、この時も中宮は参内していません。
では、二人はいつ会ったのかというと、
そのあと長保元年(999)1月3日に、
「枕草子」にのみ、中宮の参内が見えます。
これは他の記録には見えないのですが、
「枕草子」に誤りがないことは、
11月7日に敦康親王が生まれることからもわかります。
この日は道長の長女の彰子が入内し、ほとんどの公卿が道長の方に集まるという中での寂しい出産でしたが、
6月14日に内裏が焼亡し、天皇は一条大宮院を「今内裏」として移られると、
さすがに定子も宮中に入り、
「清涼殿」に擬された寝殿の北側の御殿(対の屋)に住まわれることになります。
まさに天皇の「北の方」であることになりますね。
おそらく、清少納言が一条天皇に斉信のことを申し上げたのは、「今内裏」になってからでしょう。
それくらいの時間が経ったからこそ、軽い調子で斉信の昇進について言えたと思いますが、やはりそんなに前のことを言うのは、斉信の昇進がどうしても心にひっかかるものがあったように思います。
斉信の華やかさを、道隆亡きあとの定子の後宮の光源として利用していた清少納言ですが、決してその光に目を眩ませることはなかったのだと思います。
さて、戻って1月3日の定子の参内ですが、赤間恵都子さんの推測によると、
この前段に式部丞忠隆という人物が主上の使いで来ているのですが、この参内こそ一条天皇自らが内密に定子を呼び寄せたのだとされています。
つまりこの日まで、一条天皇と定子は会えなかったのです。
したがってドラマのようなこと
一条天皇が職御曹司に入り浸るとか、
政務を顧みないとか、
道長が抗議のために辞表を出すとか
(病気で辞表は出しています。)
は、一切なかったわけですが、
(たぶん「源氏物語」のオマージュとして桐壺更衣のイメージを定子に重ねているので)
ドラマとしては仕方ないかな~(^^;)
でもちょっと一条天皇(塩野瑛久さん)も定子(高畑充希さん)もかわいそう(;^_^A
お二人があまりに美しいので、「違うぞ」とは突っ込めないんだけど~💦
本当は恋心を耐えに耐えて、3年近い日を過ごした二人なのです。
この辺りのことはまた書くとして、定子が堂々と宮中に住まうのは「今内裏」に来てからなので、
この話はその頃と、わたしは推測します。
次からは職御曹司時代に出てくる藤原行成について、お話しすることにいたします。
またのご訪問をお待ちしております。
ご訪問ありがとうございます。
今回から仲哀天皇、並びに奥さんの神功皇后の九州征伐になります。
まずは本文を読んでみましょう。
3日月15日、天皇は南海道(紀伊=和歌山県、淡路=淡路島及び四国全域)を巡察された。
その時は、皇后と百官を(敦賀に)留めおかれて、行幸に従うのは2、3人の高官と、官人数百人として、簡単に出発された。紀伊キイ国に行かれて、徳勒津トコロツ宮(和歌山市新在家)に滞在された。
この時に、熊襲が背いて貢物を献上しなかった。
そこで天皇は熊襲国を討とうとして、徳勒津より発って、船で穴門アナト(山口県下関市)にお出かけになった。
その日に、使いの者を敦賀ツルガに遣わされて、皇后に命じ、
「すぐにそこの港から出発して穴門でお会いしましょう。」と言われた。
夏6月10日、天皇は豊浦津山口県下関市)に泊まった。
皇后は敦賀から出発して、淳田門ヌタノミナト(福井県三方郡)に至り、船上で食事をされた。時に、鯛が沢山船のそばに集まった。
皇后が鯛に酒を注がれると、鯛は酒に酔って浮かんだ。漁師たちは沢山その魚を得て、喜んで
「聖王=神功皇后のくださった魚だ。」と言った
それでそこの魚は6月になると、いつも浮き上って酔ったようになるが、このためである。
夏になると赤潮でも発生するのかな?
秋7月5日、皇后は豊浦津に停泊された。この日に、皇后は如意珠ニョイノタマを海から拾われた。(如意の珠とは仏舎利から出て、何でも願いが叶うという宝珠)
9月、行宮アングウ=仮宮を穴門に建てて住まわれた。これを穴門豊浦宮という。
8年春1月4日、(天皇は)筑紫ツクシ(福岡県)にお出ましになった。
岡県主オカノアガタヌシの先祖の熊鰐ワニが、天皇の行幸を聞いて、立派な賢木サカキを抜き取って、大きな船の舳トモに立て、上枝に白銅の鏡をかけ、 中枝には十握トツカ剣をかけ、下枝には八尺瓊(勾玉)をかけて、周芳スオウの沙麼サバ(山口県防府市佐波)の浦にお迎えに参上した。
御料の魚や塩をとる区域を献上し、
「穴門より向津野大済ムカツノオオワタリ(大分県宇佐市向野)に至るまでを東門ヒンガシノミトとし、名籠屋大済ナゴヤノオオワタリ(福岡県北九州市名籠屋崎)を西門ニシノミトとし、没利モトリ島(山口県下関市六連島)、阿閉アヘ島(藍島)を割いて御化粧料とし、柴シバ島(洞海湾)を割いて御料地とする。逆見サカミの海(北九州市若松区)は塩地として献上します。」と申し上げた。
この「岡」という地は、岡水門オカノミナトという名で、神武天皇がここから出発されています。(福岡県芦屋町)
ここから見るに、関門海峡は岡県主の支配下にあったようで、かなりの豪族だと分かります。
実はここは遠賀川の河口で、ニギハヤヒの東遷以前の物部氏の本拠地だと推測されています。
定説まではなっていませんが、「魏志倭人伝」にいう「不弥国」ではないかという説もあります。
(熊鰐ワニは)さっそく海路の案内をして、山鹿ヤマガ岬から回って岡浦に入った。
しかし港に行くと船が進まなくなった。
(天皇は)熊鰐に
「熊鰐は清らかな心があって参上したと聞くのに、なぜ船が進まないのだろうか?」と問われた。
熊鰐は(;´゚д゚)ゞ
「船が進まないのは私の罪ではありません。この浦の入り口に男女の二神がいます。男神を大倉主オオクラヌシ、女神を菟夫羅媛ツブラヒメといいます。きっとこの神の御心によるのでしょう。」と申し上げた。
天皇はさっそく祈祷をされ、舵取りの倭国の菟田ウダの人、伊賀彦イガヒコを神主として祀らせると船は動いた。
皇后は別の船に乗っておられ、洞クキ海(洞海湾)よりお入りになったが、潮がひいて進むことができなかった。
熊鰐はまた戻って洞海から皇后をお迎えしたが、船が進まないのを見て恐縮し、ただちに魚池、鳥池を作って、魚や鳥をことごとく集めた。
皇后はこの魚や鳥の遊ぶのをご覧になって、怒りの心もようやく解けた。
潮が満ちてから岡津に泊られた。
熊鰐さん、なんかめちゃくちゃたいへんそう💦気を遣うよね~💦
また、筑紫(福岡県)の伊都イト(糸島市)県主の先祖、五十迹手イトデが、
天皇がお越しになるのを聞いて、大きな賢木を引き抜いて、船の舳臚トモに立て、上枝には八尺瓊(勾玉)をかけ、中枝には白銅鏡をかけ、下枝には十握剣をかけ、穴門の引島ヒコシマ(彦島)にお迎えした。
そして
「手前がこの物を奉りますわけは、天皇が八尺瓊の勾っているように、絶妙に天下をお治め頂き、また白銅鏡のように、明瞭に山川や海原をご覧頂き、十握剣とをひっさげて、天下を平定して頂きたいからでございます。」と申し上げた。
なるほどこれが三種の神器の意味でしょうか?
ちなみに彦島は、壇之浦の戦いで平家の本拠地になるところです。
天皇は五十迹手をほめられて、
「伊蘇志イソシ=勤勉である。」とおっしゃった。
当時の人は、五十迹手の本国を名づけて伊蘇イソ国といった。
今、伊都イトというのは、これが訛ったものである。
これはこじつけでしょう。「伊都国」と言えば、あの一大率が置かれ、代々王がいた、というあの伊都国です。
「原の辻・三雲交易」の中心であった場所でもあります。
卑弥呼の時代では、諸国の監察や、貿易の中心であった「伊都国」ですね。
そもそもそこの豪族が「イトデ」と名乗っているので、ここは伊都国だと思われます。
21日、(天皇は)儺県ナノアガタにお着きになり、橿日カシイ宮(香椎宮)に滞在された。
次は「奴国ナコク」に当たるとされる「儺県」、福岡市の博多湾にあった国で、
「博多湾貿易」の中心地でした。
ここで末羅マツラ国以外の、魏使の寄港した北部九州の港湾都市が次々と出てきました。
また、玄界灘側から瀬戸内に入る関門海峡も、仲哀天皇の支配下に入り、大和王権は半島への進出を可能にしたわけです。
思うに、最初に敦賀の気比ケヒに仲哀天皇がいたのも、大陸や半島との交易をにらんでのことだったかも知れないのですが、
瀬戸内海から北部九州の港を押さえる方が、海を渡りやすいということもあり、
北部九州の制圧に乗り出したとも考えられます。
注目していただきたいのは、ここが景行天皇の九州征伐では空白地帯、手付かずであったことです。
しかし、かつてここを支配していた邪馬台国はどうなったんでしょう?
もし大和に邪馬台国があったなら、今さら仲哀天皇に各国の王が服属するのも不思議ですよね?
「日本書紀」は崇神朝以来、
丹波、越、出雲、南九州、南関東、北関東と順序だてて全国平定を記していますが、
それですら物語化されて、誇張があると批判されています。
それなのに3世紀に既に傘下に入っていた北部九州が、4世紀半ばごろと思われる仲哀朝に服属したなどと書くでしょうか?
仮に「日本書紀」がいうように神功皇后が卑弥呼ならそれもあり得ますが、
纒向遺跡と関連付ける現在の大和説には全く符合しません。
けれども北部九州説だと、少なくともこの時代までは、邪馬台国には侵しがたい勢力や権威があり、大和王権には手が出せなかったという説明がつきます。
また沖ノ島の祭祀など、4世紀後半から大和王権が玄界灘の交易を掌握するという、九州考古学の成果とも合致します。
「日本書紀」は天皇の支配を正当化する書物です。ですから内容をそのまま信じる、いわゆる皇国史観については、危険であると考えるべきですが、
その「日本書紀」がわざわざ支配していた地域を、ようやく服属したと書くでしょうか?
天皇家に有利な記事に疑いの目を向けるのは、正しいことだと思いますが、
天皇家に不利な記述まで、嘘っぱちとするべきではないでしょう。
神武天皇ははるか東の大和を目指しましたが、日向に程近い北部九州の中心は無視していました。
景行天皇も九州の中南部は征伐したのに、北部九州には手を出しませんでした。ヤマトタケルも熊襲を暗殺したのみで、南関東の征討に向かいます。
はっきり書かないけれど、明らかに北部九州には侵しがたい勢力があったと思われるのです。
それが玄界灘の交易を押さえていた邪馬台国ではなかったのかというのが、わたしの大きな疑問です。
こういう見方で持って、続きを読んでいきましょう、
秋9月5日、(天皇は)群臣に熊襲を討つことを相談するように命じられた。
その時、神がおられ、皇后に憑依してお教えになり、
「天皇はどうして熊襲が従わないことを憂えられるのか?そこは荒れて瘦せた地だぞ。どうして挙兵して討つに足りよう?この国よりも勝って宝のある国、例えば乙女の眉のように、港のはるか彼方に見える国がある。目も眩むような金、銀、色鮮やかな文物が、その国にはたくさんある。これを栲衾タクブスマ新羅シラギ国という。もし、篤く私を祀れば、刀に血塗ることもなく、その国は必ず服従するであろう。そしてまた熊襲も従うであろう。
天皇の御船、及び穴門直践立アナトノアタイホムタチが献上した名付けて大田という水田、これらのものをもってお供えとなさいませ。」と託宣された。
天皇は神の言葉を聞かれたが、疑いの心がおありになった。そこで、高い丘に登って遥かに大海を眺められたが、広々としていて国も見えなかった。
天皇は神に答えまつりて、
「私が見渡しましたが、海だけがあって国はありません。どうして大空に国がありましようや?いったいどこの神がいたずらに私を欺くのでしよう?
また、我が皇祖、多くの天皇は、あらゆる天津神、国津神をお祀りしてこられました。どうしてまだ祀らずに残っておられる神がありましょうや?」と仰せになった。
神はまた皇后に憑依して、
「私が水に映る影のように、鮮明に上から見おろしている国を、どうして国が無いと言って、我が言葉をディスるのか!?王よ、そう言って最後まで信じないのであれば、そなたその国を得ることはないであろう。ただし、皇后は今、初めて妊娠されている。その御子がそ国を得られるであろう。」と託宣された。
天皇はそれでも信じられず、無理に熊襲を討たれたが、勝てずに帰ることとなられた。
9年春2月5日、天皇は急に病気になられ、翌日に亡くなられた。
時に、年52歳であった。
皆、天皇が神のお言葉を採用されなかったので早く亡くなられたと知った。
一に云わく(別伝)、天皇は自ら熊襲を討伐され、賊の矢に当たって崩御された。
「古事記」では、天皇が琴を弾き、皇后が神憑り中に、疑いの言葉を発し、
促されて嫌々に琴を弾き始めるとまもなく、事切れたということになっています。めっちゃ祟り~((( ;゚Д゚)))
別伝の熊襲に討たれたというのもショッキングな話で、本当らしくもあり、といって仲哀天皇の実在性には疑問も多いので、これには悩まされる研究者も多いでしょうね。
どちらかというと、あんまりいい役回りではない天皇です(^^;)
お父さんのヤマトタケルも不遜な発言で災難を招いていますが(>o<")
似たのかしら?w
でもおっしゃってることは論理的なので、わたしは嫌いじゃないです。リアリストなんでしょうね。
ここで皇后と大臣オオオミの武内宿禰タケシウチノスクネは、天皇の喪を秘して天下に知らされなかった。
皇后は大臣と、中臣ナカトミノ烏賊津イカツノ連ムラジ、大三輪オオミワノ大友主オオトモヌシノ君キミ、物部モノノベノ胆咋イクイノ連、大伴オオトモノ武以タケモツ連に詔して、
「今、天下の人は天皇が亡くなられたことを知らない。もし人民が知ったなら、勤めを果たさないかもしれない。」と言われ、
四人の大夫に命じられ、百官を率いて宮中を守らせた。
密かに天皇のご遺骸を収めて、武内宿禰に従わせ、海路から穴門にお移しした。
そして豊浦宮で、殯を行い灯火を焚かないで弔われた。
22日、大臣、武内宿禰は、穴門から帰って皇后に御報告した。
この年は新羅の役によって、天皇の埋葬は行われなかった。
7世紀になって、斉明天皇が福岡県の朝倉で亡くなられた時は、もしかしたらこんな感じだったのでしょうか?
さて、熊襲を討つなといわれた神功皇后ですが、この後も九州での戦いが続きます。
しかも前線基地は朝倉市、安本美典さんが数々の考古学資料を挙げて、ここが邪馬台国❗と主張されている朝倉市です。
はたしてどんな戦いが繰り広げられるのでしょう?
次回のご訪問もぜひお待ちしております。
ご訪問ありがとうございます。
今月、大阪松竹座で上演中の「ヤマトタケル」を見てきました。
「ヤマトタケル」を通しで観るのは、実は初演以来、ン十年ぶりです。
その時はまだ宙乗りのできる劇場が大阪になくて、京都の南座でしたが、
卒論を書いて間無しでテンション最高⤴️⤴️な時で、絶対見ないと~と思い行きました(ノ゚Д゚)八(゚Д゚ )ノイエーイ
その後、途中何度か機会はあったんですが、見逃していまして、
猿之助丈の「事件」とかもあって、
今後「ヤマトタケル」は見られないんではないかと思っていた(*T^T)
今回は見られて本当によかった~
このスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」は、現代にマッチしたストーリー、スピード、スペクタクル(3S)を掲げて、
三代目市川猿之助、つまり昨年亡くなった猿翁さんが、
哲学者で当時古代史界で旋風を巻き起こされていた梅原猛さんに脚本を依頼して作られたもので、
昭和61年(1986)に新橋演舞場で初演、
私は6月の京都南座で観劇しました。
番附(プログラム)を見ますと、梅原猛さんの初演の時の寄稿が再掲されていて、
「ヤマトタケルは猿之助さんであり、私だ。」というお話が載っていましたが、
当時はピンとこなかったのでしょうか?
今聞くと
なるほどね~、二人とも異端児だったからねえ(*-ω-)と同意w
居場所がなくて天翔って行きたかったのね~💦(いえいえ、お二人とも素晴らしい業績を残しておられますよ!)
当時の歌舞伎は、宙乗りなんて品がないみたいな感じだったんです。今みたいに新作歌舞伎でアニメなんかの歌舞伎化がバンバンされるようになったのは、それこそ「ヤマトタケル」の成功があってこそなのですヾ(≧∀≦*)ノ〃
本当は江戸時代の歌舞伎なんて、前にご紹介した「妹背山婦女庭訓」みたいに荒唐無稽でスペクタクルで楽しかったのに、明治以降バカにされてたのです(*T^T)グスン
しかも今回は、初演の演出に戻してということだったのですが、今見ても古さは全くなくて、ストーリー、スピード、スペクタクルを存分に楽しむことができました。
ストーリーはほぼ「古事記」準拠です。
父子の相剋が底流にあるのも「古事記」と一緒で、
わたしは猿翁さんが息子の香川照之さんをずっと拒否してきたということを知っているので、(ここの詳細はググって下さい。)
ヤマトタケルを拒否し続ける帝を香川照之(市川中車)さんが演じておられるのが、なんともフクザツ~な気分になるのですが(´-ω-`)
そこに大碓命、小碓命の母の死後、皇后になった大后オオキサキが我が子の根子ネコ命を帝位につけようとして、ヤマトタケルを追い出そうと画策するような話も入ります。
「日本書紀」ではヤマトタケルの死後に、稲日大郎姫が亡くなるのですが、そこは改変することでストーリーは分かりやすくなりますね。
で、ヤマトタケルを演じるのは香川照之さんの息子さんの市川團子ダンコさん、
四代目猿之助さんの襲名披露では7歳で、ヤマトタケルの息子ワカタケルのお役でしたが、
今回はまだ大学生の身で、よくヤマトタケルを演じきったと、感動しました。
序盤に小碓命が双子の兄大碓命を諌めにいってもみ合う内に、過って殺してしまう場面は、大碓命と小碓命の目まぐるしい早変わりで、小碓命で台詞を言い、ひとしきりもみ合ったら大碓命になってるというのを繰り返しますからたいへん💦
その第一部のクライマックスは、熊襲館に踊り女として潜入、踊ったあとに引き抜きで小碓命となって大立ち回り、
第二部は、東征の出発からですが、一辺が身長ほどの大旗を振りながらの焼津の火難の立ち回りから、走水での弟橘媛の入水に到る悲痛な場面まで、
第三部はミヤズヒメとの婚礼から、伊吹山での山神と姥神との死闘で、ずーっと立ち回りの連続ですから、よくこなせるなと感心します。
それで最後は独白と白鳥になっての宙乗りまで、息つく暇もありません。
しかも、初演の頃の猿翁さんのお話では
出来上がった梅原猛さんの脚本は、なんと4時間以上あったようでw
(梅原猛さんの本をよく読んでたので、それはすごくワカる~分厚いw)
猿翁さんはそれを削るのにたいへん苦心されたとお話しされていました。
それで初演はすごーく早口だった記憶があるのですが、とにかく台詞も膨大なのです。
團子さんも、いわば父親の因縁で歌舞伎界に引きずり込まれたような形だったのに、後ろ楯となるはずの猿之助さんの事件のこともあって、将来的にどうなるのか実はすごく心配していたのです💦
これからだとあと40年くらいはヤマトタケルを演じることができるので、まだまだ素人のわたしにはわからない未熟さはあるのでしょうが、ご自分なりのヤマトタケルを作っていってほしいと思います。
初演の猿翁さんは、もうベテランであったわけですが、それでも熊襲のところに踊り女として現れた16歳のヤマトタケルはとても可愛かったです。
コケティッシュなお色気までありさすが❗だと思ったものでした。
今回の團子さんは、コケティッシュという感じはなかったけど、なんせ若いので可愛さとか一途さとかは、ぜんぜん心配いらない。一生懸命さがすごく伝わります。
むしろ正妃、兄橘エタチバナ媛を都に残しながら、双子の妹弟橘媛(これも中村壱太郎カズタロウさんの二役)を愛し、
そのあとミヤズヒメの「わたしを一番愛して」という要望にホイホイ答えちゃうのも、團子さんの若さに溢れる瞳を見ると、なんとも納得してしまうんですよねw
脳筋であんまり考えてない感じの「古事記」の小碓命にはぴったりだったです。(誉めてます💦)
この瞳を見ると(×10のオペラグラス持ってるのでw)、ヤマトタケルの魅力は、怒りたい時は怒り、泣きたい時は泣き、というその若さにあるというのが、本当によく分かります。
16歳で熊襲に行き、帰って間無しで東国に追いやられる。そして途中で亡くなるという一生は、「日本書紀」の30歳でも長過ぎるので、大学生の團子さんの歳がぴったりなんだろうな、と思いました。
それと改めて思ったのは梅原猛さんの脚本が、古代のことを本当によくわかっておられる、ということでした。
一番すごいと思ったのは弟橘媛の入水のところなのですが、
占いによって嵐を鎮めるのはヤマトタケルの最も大切なものを海の神に差し出すこと、つまり弟橘媛を差し出すのだと占い師に言われたヤマトタケルは、当然拒否しますが、
弟橘媛は自ら出てきて、タケルに
「わたしは大后になりたかったが、今のままでは大后になれない。」といいます。双子の姉兄橘媛がタケルの正妃になり、皇子を生んでいたのです。
「だから私は海の大后になる。そのために畳を八重に敷いて大后の座をつくって欲しい。」と言いますが、それはあくまで詭弁でタケルは承知しません。
しかし弟橘媛は、
「ここは海の上だ。海の上では海の大后の命令をききなさい。」といい、雷鳴に怯える周りの人もその勢いにのまれて、畳を準備するのです。
ここはヤマトタケルがおめおめと愛する后を失う場面ですから、たいへん処理が難しいのですが、「海の大后」という言葉の使い方で、みんな弟橘媛の言葉を聞いてしまう。
弟橘媛が、ただ「あなたのために死にます。」といっても、ドラマにはならないけど(「日本書紀」はこれ)
弟橘媛が海の女神である本質を踏まえての命令は、(もちろん裏にはタケルへの愛が見えるだけに)たいへん切なくも説得力がありました。
初演も見てるし、そもそもヤマトタケルにはめちゃくちゃ詳しいわたしですが、
ここはさすがに泣けました(´;ω;`)
他にも梅原猛さんは、
征服されるがわの熊襲や蝦夷の立場を重視し、
自由な暮らしをしているのに、ヤマトは「米と鉄で支配してくる」などとヤマトを非難させます。
一方でそれを聞いたヤマトタケルが
「ヤマトは嘘ばかりだ。」と批判しながらも、熊襲や蝦夷を
「古いものを大切にするのはいいが新しいものを取り入れない国はダメだ。」と指摘ところは、より深い見方をしています。
だからヤマトタケルは梅原さんであり猿翁さんだということでしょうね。当時の歌舞伎界の古い因習や歴史の見方を打破したお二人のための言葉がこれです。
また大碓命が略奪する兄媛、弟媛をタジマモリが常世でもうけた兄橘媛と弟橘媛としたのも、梅原さんのアイデアです。
素晴らしい設定や展開だなと思います。
しかしながら、基本的に「古事記」に沿ったストーリーでこんなに泣ける(*T^T)なんて、
「古事記」の作者ってすごくないですか⁉️
わたしはやはり「古事記」の作者は天才だと思う。
「源氏物語」の300年も前に、こんな物語を作れるなんて❗と思うわけです。
わたしはミヤズヒメの歌から、「古事記」の作者は柿本人麻呂だという見方にたどり着きましたが、
梅原さんも、万葉仮名のご研究から、「古事記」の作者が柿本人麻呂ではないかと指摘されておられます。
「古事記」を読み込まれて、この脚本を書かれた梅原さんが、柿本人麻呂に注目されておられるのは、心強いことだと思います。
と、またヤマトタケルの検証に戻ってしまいましたね(;^_^A
初演に比べると今回は若い役者さんが多いせいか、セリフ回しなどはちょっと宝塚っぽい?感じでした。
スーパー歌舞伎だから、そもそもが歌舞伎っぽい溜めた話し方はしないし、現代語なのでわかりやすいという点ではおすすめです。
イヤホンガイド(レンタルすると芝居の進行に合わせて解説してくれる優れもの)などは全く要りません。
このイヤホンガイド、トイレで立ち話されているかたの会話を小耳に挟んだけど、幕間は「古事記」の解説らしいです。このブログを読まれてる方は要らないですね( ・∀・)ウン❗
だから歌舞伎って見たことない方も、気軽に見に行っていただけると思います。
若手なので通常より安めだし(*⌒∇⌒*)
(わたしは生協のチケットなので半額よりもちょっと上ぐらいのお値段で見ましたよ。団体割引になるんです。)
今回はこれで終わりのようですが、再演もあると思いますので、機会がありましたら、ご覧くださいませ。
「ヤマトタケル」は最後は、大后も根子命も亡くなって、帝も考えを改めて、
タケルの従者たちも褒美に与り、
兄橘媛が生んだワカタケルが日嗣の皇子になります。
こちらも古代史の方は、ヤマトタケルの皇子仲哀天皇がいよいよ熊襲征討に出かけるのですが……
「日本書紀」の方もどうぞよろしくお願いいたします。
それではまたのご訪問をお待ちしております。
ご訪問ありがとうございます。
今回から仲哀天皇の巻に入るのですが、いろいろありすぎ~Σ(Д゚;/)/
短いのですが丁寧に見ていこうと思います。
足仲彦タラシナカツヒコ天皇は日本武尊の第二子である。
母の皇后は、垂仁天皇の娘である両道入姫フタジノイリビメ命という。
わっ❗( ̄▽ ̄;)
ここだけで問題山積ー💦
まずはヤマトタケルの正妃である両道入姫命が垂仁天皇の皇女だとここで初めて出てきます。
それまではどこの誰かわからなかったのです(,,・д・)
「古事記」では石衝別イワツクワケ王の妹の石衝姫命の「亦の名」で出てきます
「日本書紀」(景行紀)では4人の子の母ですが、
第一子の稲依別イナヨリワケ王は、ヤマトタケルの総本社というべき、滋賀県の建部大社の創祀者で、「古事記」では安国造の娘布多遅比売フタジヒメの子であるとされ、
建部大社でも稲依別王を若宮神社、布多遅比売命をその母、藤宮神社として祀っています。
ここはもちろん近江(滋賀県)の犬上君氏や建部君氏の祖神として創祀された神社なので、祖神である稲依別王と母神を祀るのは当然なのですが、
神社側としては、正史「日本書紀」に反して、布多遅比売命が稲依別王の母であるという伝承を堅持しているということです。(他は弟彦公のように「日本書紀」のみの登場人物も祀られているにも関わらずです❗)
また両道入姫命の所生の皇子は、
稲依別王(「記」では布多遅比売の子)
仲哀天皇
稚武王(「記」では弟橘比売の子)
布忍ヌノシ入姫(景行皇女に淳熨斗ヌノシ皇女)