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今回から「三韓征伐」ですが、イメージ先行のところなので、じっくり本文に向き合いましょう(*´・ω・`)b


秋9月10日、諸国に命令して船舶を集め練兵したが、その時は兵士が集まりにくかった。
皇后は、
「これはきっと神の御心であろう。」とおっしゃって、大三輪神社を立て、刀と矛を奉られると、兵士が自然に集まった。

大己貴神社


この三輪町もそうですが、この辺りの地名と大和の地名が一致してることは、安本美典さんたちも指摘されていますが、(朝倉もそう)

ここから大和に人の移住があったとしても時代が特定できないので、(安本さんのいう)「神武東遷」の証拠とはならないという反論があります。

確かに九州から大和に移動するのはこの後もあります。


そこで吾瓮海人烏摩呂アヘノアマオマロいう者に、西の海に出て、国があるかどうかを調査させた。
(烏摩呂は)戻って、
「国は見えません。」と申し上げた。

また、磯鹿シカ=志賀島の海人アマ、名は草クサという者をを遣わして視察させた。
(草は)何日か経って還ってきて、
「西北方に山があり、雲が横に連なっています。おそらく国があるのでしょう。」と申し上げた。

ここで吉日を占い、出発には日にちがあった。
その時、皇后は自ら斧鉞オノマサカリ(指揮権を示す)をとって、三軍に号令して、
「金鼓の音が乱れ、軍の旗が錯綜するときは、軍の形が整わず、財を貪り、欲が出て私情にかられるようであれば、必ずや敵に捕えられるだろう。
もし敵が少なくとも侮ってはならない。敵が多くても恐れてはならない。
そして婦女を強姦するのを許すな。自ら服従する者を殺すな。
戦いに勝てば必ず褒賞があるだろう。逃走すればおのずと罪になろう。」とおっしゃった。

すでに神に教えられたことがあって、
「和魂ニギミタマは王の身体に付いてその命を守り、荒魂アラミタマは先鋒として軍船を導くであろう。」とも仰せになった。
そして神の教えを頂いて、拝礼された。

そこで依網吾彦男垂見ヨサミノアビコオタルミ?を、祭祀の神主とした。

なんか頼りないヤツもいましたが、なんとなく古代の出兵のようすがよく分かる~(^^)
戸籍を作り、税制などと一緒に徴兵制度が整えば、兵も集めやすいのでしょうが、このころは周辺の豪族たちが動いてくれないとどーにも(;^_^A

この大三輪神社(大己貴神社)の祭神はオオナムチ神、つまり大国主命です。国津神系の豪族、あるいは出雲系の豪族に協力を仰いだということでしょうか?

高天原=邪馬台国とすれば、それに隷属していた国津神を解放したことになるのか???

といっても神功皇后伝説には天照大神もよく出るので、「邪馬台国から分派した三輪王権」のイメージは色濃く引き継いでいます。

このあたりは神功皇后の多面性(ぶっちゃけヤマトタケルと同じく、何人かの人格が合わさっている?)ということだと思います。(これについては番外編で✋)

さて、祭主の依網ヨサミというのは大阪市の南の方、住吉区から今の大和川(江戸時代に付け替え)の南部の松原市や堺市の一部を含む地域で、吾彦アビコというのは姓カバネです。今は我孫子アビコという地名が残っています。

大阪市の住吉区と言えば、住吉大社(摂津国一之宮)がありますが、そこに祀られているのが、この前出ていらした
表筒男、中筒男、底筒男の住吉三神ですから、ここは住吉大社関係でしょうか?

住吉三神は天照大神と共に日向の橘の小門オトで生まれていますから、九州生まれです。後に神功皇后と共に畿内に入るので、依網吾彦も九州の出身かとも思える記述です。

こうやって見ると神功皇后の業績は、かなり色々な要素が重層的になっているようです。(特に九州の神様や豪族が大和に移動していた形跡もあり、さっきの地名の移動もこの時かもしれません。この後もちょくちょく出てきます。)


時に、このころはたまたま皇后の臨月にあたっていた。
皇后はそこで石をとって御腰に挿し挟み、祈って、
「事が成り終って還る日に、ここでお産まれください。」とおっしゃった。
その石は今、伊都の県アガタ(糸島市)の道のほとりにある。

えーと💦だいたい学術書なんかでも社伝でも腰や袖に挟んでと書いてあったのですが、
「日本書紀」には「挿」の縦棒が突き抜けない字で、「さしはさみて」と訓が付いているので、
生まれてこないように産道に栓をしたってこと⁉️(@_@)

そりゃあ、書けんわね(って書いてるw)
でもその方が断然リアリティーはある


すでに、さっそくと荒魂アラミタマを招いて軍勢の先鋒とし、和魂ニギミタマを請うて御船の鎮守となさった。

冬10月3日、(皇后は)和珥津ワニツ(対馬上県郡鰐浦)から出発された。

ともあれ、いよいよ三韓征伐になります❗(o´∀`)o

その時は、飛廉=風の神は風を起こし、陽侯=波の神は波を挙げて、海の中の大きな魚はすべて浮かんで、船を助けた。
つまり大いに順風が吹き、帆船は波のまにまに進み、舵や櫂の苦労もなく、新羅シラギに到った。

その時に、波が船を乗せたまま、新羅の国の中にまで満ち、(日本軍は)天津神国津神がことごとくお助け下さっていると知った。

新羅の王は怖れ戦慄して、なすすべもなかった。そこで皆を集め、
「新羅の建国以来、いまだに海水が国の中にまで上ってきたとは聞いたことがない。まさか天運が尽きて、国が海となるのではないか?」と言った。

その言葉もまだ終らないうちに、軍船は海に満ち、 旗は日に輝く。鼓の音や笛を吹く音は山川の全てに響いた。
新羅の王は遥かに眺めて、
思いの外の兵が、まさに我が国を滅ぼそうとしていると、恐れて正気を失ったヽ(´Д`;≡;´Д`)丿

ようやく落ち着いて(;´A`)
「私は東に神の国があり、日本といい、またそこには聖王があり、天皇という、と聞いた。きっとその国の神兵であろう。どうして兵を挙げて戦うことはできようか?」と言った。
そして白旗をあげて降伏し、白い緩クミを首にかけて自ら捕われた。

地図や戸籍は封印して、御船の前に差出し、そこで土下座して
「今後は永久に服従し、馬飼となりましよう。 そして船便を絶やさず、春秋には馬用のブラシや、鞭を献上します。また海路遠くといえども、毎年男女の手に成る貢ぎ物を献上しましよう。」と言い、そして重ねて誓って、
「東に昇る日が西から出たり、また阿利那礼アリナレ河=新羅慶州の閼川?の水が逆さに流れ、河の石が天に上って星となったりすること=絶対無いことを除いて、
春秋の朝貢を欠けたり、馬のブラシや鞭の献上を怠れば、天津神国津神、共に私を罰してください。」と申し上げた。

その時には、新羅王を殺そうという者もあったが、皇后は、
「そもそも神の教えによって、まさに金銀の国を授かるのである。また全軍に『降伏を申し出ている者を殺してはならぬ』と号令している。
今はすでに宝の国を得て、また人も自ら従っているのに、殺すのは良くない。」
と仰せになり、
王のの縛を解いて馬飼とされた。

そしてついにその国の中に入り、宝物の倉を封じ、地図や戸籍、文書をを没収した。

そこで皇后が持たれた矛を、新羅王の門にたて、後世への印となさった。
それでその矛は、今も新羅王の門に立っている。

と、ここまではかなり神話的な伝承ですが、以下は「三国史記、新羅本紀」に記された史実と一致します。

新羅王の波沙寝錦ハサムキン=新羅の伝説的な王婆娑尼師今は、微叱己知波珍干岐ミシコチハトリカンキを=第15代奈勿王の子を人質とし、 金、銀、彩色、綾、羅(薄織り)、固織りの絹を多くの船に載せて、日本軍に従わせた。

この微叱己知波珍干岐の入貢は、
「三国史記」では390年、
「三国遺事」では402年となっていますが、
高句麗の「広開土王碑」(好太王碑)では、391年に倭が海を渡って攻めてきたとあり、(ただし広開土王に蹴散らされた、とあります。)
この辺りの年代が特定できます。

それ故、新羅王は常に多くの船に積んだ貢ぎ物で、日本に朝貢しているのである。

高麗(高句麗)、百済クダラ二国の王は、新羅が地図や戸籍も差出して、日本に降ったと聞いて、密かにその勢力を視察したところ、勝てそうにもないと分かって、自ら陣営の外に出て地に頭を下げ、
「今後は永く西蕃セイバン=中華思想でいう西の野蛮人と称して、朝貢を絶やしません。」と申し上げた。
それによって内官家屯倉ウチツミヤケを定めた。これがいわゆる三韓である。
皇后は新羅から還られた。

12月14日、応神天皇を筑紫で産まれた。そのため当時の人は、そのお産みになった所を名づけて宇瀰ウミ(福岡県宇美町)といった。

2月5日に仲哀天皇が亡くなって、ちょうど十月十日という(^^;)
まあ、産まれないように処置していたから、妊娠はもうちょっと前ということですね。

三韓征伐といっても新羅ばかりですが、「広開土王碑」によると

「百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡[海]破百殘■■新羅以爲臣民」
 そもそも百残・新羅は属民であり朝貢していた。しかし倭が辛卯年(391年)に海を渡り、百残・加羅・新羅を破り、臣民としてしまった。(訳:Wikipedia)

とあり、高句麗は負けてませんし、実際に高句麗使が来るのは6世紀です。
しかし、なんで百済に触れないもかも不思議です。

このあたりは次回に検証したいと思います。

またのご訪問をお待ちしております。



※以下は別伝です。読んでおきたいと思われる方はどうぞ


一に云わく(別伝)、仲哀天皇が筑紫の香椎宮においでになった時、神が沙麼サバ県主の祖、内避高国避高松屋種ウツヒコクニヒコマツヤタネに神がかりして、天皇に教えて、
「天孫の尊=天皇よ、もし宝の国を得たく思われるのなら、実際に授けてもよいぞ。」とおっしゃった。
そしてまた、
「琴を持ってきて皇后に差し上げよ」とも言われたので、神の言葉に従って、皇后が琴を弾かれた。その時、神は皇后に神がかりして、
「今、天皇の願われる国は、ちょうど鹿の角のようで、中味のない国である。
今、天皇がお乗りになる船と、穴戸直践立アナトノアタイホムタチが奉った水田、名は大田を供物として、私をよく祀れぱ、美女の眉のようで、金銀の多い、眼が輝く国を天皇に授けよう。」とおっしゃった。
天皇は神に答えて、
「神とはいっても、欺かれておられるのか。どこに国があるのですか?また、私が乗る船を神に奉って、私はどの船に乗るのでしょう。しかもまだ、どの神ということも分りません。願わくはその名を承りたいものです。」と仰せになった。

神は名を告げて、「表筒雄、仲筒雄、底筒雄である。」とこのような三神の名を名乗り、重ねて
我が名は向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰ムカヒツオモオソホフイツノミタマハヤサノボリ尊である。」とおっしゃった。
その時天皇は皇后に
「聞きにくいことを言われる婦人だ。どうして速狭騰というのだ?」と言われた。
そこで天皇に神は
「なんじ天皇よ、これを信じないならば、 その国は絶対得られないであろう。ただし、今の皇后の孕まれる皇子は、きっとそれを得られるであろう。」とおっしゃった。
この夜、天皇は急病によって亡くなられた。
こうしてその後、皇后は神の教えのままにお祭りされた。
そして皇后は男装をして新羅をお討ちになった。
その時に神は官軍にこれを導かれた。
船をのせた波は、遠く新羅国の中まで満ち寄せた。新羅王、宇留助富利智干ウルソホリチカは、皇后を出迎えて跪いて、王船に対して地に頭をつけて
「手前どもは今より後、日本国にまします神の御子に、内官家ウチツミヤケとして、絶えることなく朝貢いたします。」と申し上げた。

一に云わく(別伝)、新羅王を捕虜にして海辺に行き、膝の筋を抜いて、石の上に腹ばわせた。
しばらくして、斬って砂の中に埋めた。
そして一人の男を残して、新羅における日本の監督者として帰された。
その後、新羅王の妻が、夫の屍を埋めた場所が分からないので、密かにその監督者を誘惑する心を持ち、その監督者に
「そなた、王の屍を埋めたところを教えてくれれば、必ず厚く報いましょう。また、私はそなたの妻になりましょう。」と言った。

男は嘘を信用して、密かに屍を埋めたところを告げると、王の妻と新羅の家臣は、謀って監督者の男を殺した。さらに、王の屍を取り出して別の場所に葬った。
そのときに、監督者の男の屍をとって、王の墓の土の底に埋め、王の棺を挙げてその上に下ろして、
「尊い者と卑しい者の順番は、まさにこのようなことだ。」といった。
天皇はこれを聞いて重ねてお怒りになり、大兵を送って新羅を滅ぼそうとされた。これをもって軍船は海に満ちて新羅に至った。
このとき、新羅の家臣たちは大いに怖れ、皆で謀って王の妻を殺して罪を謝った。

(ここの天皇は誰を指すか不明)






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さて、北部九州の制圧を成し遂げた神功皇后の行動を、順次見ていきましょう


夏4月3日、(皇后は)北方の火前=肥前ヒゼン国(佐賀県、長崎県)の松浦県マツノアガタに到って、玉島タマシマ里の小川のほとりでお食事をされた。


ここで、皇后は針を曲げて釣針をつくり、ご飯粒を餌にして、裳の糸を抜きとって釣糸にし、河の中の石の上に登っ て、釣針を投げて誓約ウケイをして、

「朕(私)は西の財宝の国を求めようと思います。もし事を成すことができるなら、河の魚よ、釣針を飲みなさい。」とおっしゃった。

そうして竿をあげると、そこで鮎を得た。

その時皇后は、

「珍しい魚ですね。」とおっしゃった。それで当時の人は、そこを名づけて梅豆羅国メズラノクニといった。

今、松浦マツラというのは、訛ったのである。

これ以来その国の女の人は、四月の上旬になる度に、釣針を投げて年魚アユをとることが今も絶えない。

ただし、男だけでは釣っても魚を獲ることができない。


松浦は「魏志倭人伝」の「末盧国」と考えられますから、4世紀には松浦であって、メズラではないだろうと思います。


こういう巡幸タイプの神話はtヤマトタケルでも「常陸国風土記」に見られ、原型はその土地の神様の話なので、

オキナガタラシヒメの一部は、北部九州の女神の信仰が入っているように思います。



皇后は神の教えがその通りであることを知られて、さらに天津神国津神の祭祀をして、自ら西方を討とうと思われた。

そこで神田を定めて、耕作された。
その時、那珂ナカ川の水を引いて神田を潤そうと思われ、溝を掘った。
迹驚トドロキ岡まで行くと、大岩が塞がっており、溝を掘って行くことができなかった。
皇后は武内宿禰タケノウチノスクネをお召しになり、剣と鏡を捧げて神祇に祈りをさせられ、溝を通すことを求められた。
するとその時、急に雷が激しく鳴って、その岩を踏み裂いて水を通した。
当時の人は、それを名づけて裂田溝サクタノウナデと言った。

皇后は橿日浦に帰ってきて、髪を解いて海に臨み、
「私は天津神国津神の教えをうけ、皇祖の霊に頼って、青海原を渡って、自ら西方を討とうとしている。ここで頭を海水ですすがせるが、もし霊験があるなら、髪がひとりでに分れて二つになれ。」と仰せになった。
そして海に入ってすすがれると、髪はひとりでに分れた。
皇后はすぐに分れた髪を結いあげて髻ミズラ=男子の髮型にされた。

そして群臣に
「軍を起こし、人々を動かすのは国の大事である。安定と危機も、成功と敗退も、必ずこれにかかる。今征伐のことがあり、その事を群臣たちに委ねると、もし失敗すれば罪は群臣たちにあるということになろうが、これはたいへん辛いことである。
私は女で、また未熟である。けれども、しばらく男の姿を借りて、強いて雄々しい戦略をたてよう。上は天津神国津神の霊威を頂き、下は群臣の助けによって、軍を興して高い波を渡り、船団を整えて財宝の国にに臨もう。
もし事が成れば、群臣は共に功績があり、事が成らなかったら、それは自分ひとりの罪である。 私はすでにこの覚悟をした。それをみなで皆で相談するがよい。」と仰せになった。

群臣はみな、
「皇后は天下のために、国家を安泰にすることを計っておられます。どうして罪が臣下に及ぶことがあるでしょう。慎んで詔ミコトノリを承ります。」と申し上げた。

おぉ❗めちゃかっこいいですねヾ(≧∀≦*)ノ〃
お前たちに頼んだら、敗戦の責任はお前たちにあることになる。
それは辛いので自分が責任をもって軍隊を率いる。
勝ったときはその功績はお前たちもあるが、負けたときは自分一人の責任だ。
なんて、今まで誰も言ってないよね~(*≧∀≦*)

そういう点ではちょっと新しい感覚というか、儒教的なので、後世の潤色ぽいかもしれないですが(^o^;)

こういう人だとみんなついていくわね。

で、今回はあっさりなのですが、次が三韓征伐なので、キリのいいところで終わります。






それとこれは明治になって初めての肖像入り壱圓札に描かれた神功皇后です。一番基盤になるお金の肖像が神功皇后ってすごいですね❗

ただキヨソネ(西郷隆盛の肖像を描いた人)が描いたので、何だか洋風の美人ですw
まあ、「日本書紀」にもお父さんがいぶかしがったとあるので、日本人離れしてたりしてw

ヤマトタケルがお札になったのは、終戦のちょっと前で、ほとんど使われず幻の千圓札といわれているから、えらい違いです(´ー`).。*・゚゚

でも日本の英雄って女装の麗人(ヤマトタケル)と男装の麗人(神功皇后)って、日本特有の好みなのでしょうか?
歌舞伎の美しい女形さんや、宝塚やOSKのかっこいい男役さんが存在するのも、日本固有ですもんね。

それでは次回は三韓征伐、で有名な部分ですが、本当に三韓を征伐したのか?
いろいろ謎が多いところです。

次回もご訪問お待ちしております。



ご訪問ありがとうございます。


なんと7月7日は七夕🌌だというのに「光る君へ」は都知事選で放送休止だったので(^^;)

ここで清少納言をちょっとあげておこうと思います(;^_^A平安時代飢餓状態ですw

皆さん、脳内再生でどうぞ((*_ _)ペコリ


さて中宮定子(高畑充希さん)の職御曹司シキノミゾウシ時代は2年ほど続き、その間一条天皇(塩谷瑛久さん)が内密で内裏に招きいれた20日間ほどを除くと、

前回お話したように、

定子と天皇は会うことはありませんでした。


道長が世のために働く、というドラマだからしょうがないのですが、

伊周、隆家はあんなもんだとしてもw

一条天皇はちょっとかわいそうと言うか……

あそこまで変えないで欲しいなと( ̄▽ ̄;)


清少納言推しとしては、

一条天皇が政治をほっぽって定子と会ってたというのは嘘ですからねーo(* ̄○ ̄)ゝ

と、そこは強調したい❗


一条天皇は、定子は愛しながらも、道長のゴリ押しには、

政治のために己れを通さなかった、バランス感覚を優先した君主でした。(良いか悪いか、正しいか間違ってるかは別ですが💧)


次の三条天皇は、道長のやったことを逆手に取って、ゴリ押しする道長と全面対決するわけですが、

この分ではどれだけひどい君主に描かれるか、かなり心配です💦



まあ、でもそれはそれで、物語としては面白いので、都知事選が8時前に決まったも同然だったので🎊

やってほしかったよーo(T□T)o


ということで、今回から斉信に次いで、よく登場する藤原行成ユキナリ(渡辺大知さん)に注目しましょう❗



時代はまだ職御曹司シキノミゾウシ時代です。


多くの貴族が定子を無視する中、行成は蔵人頭クロウドノトウ(事務官の弁官を兼ねる頭弁トウノベン)として、一条天皇と定子の間を行き来していました。


能吏でもあり、権力におもねらない実直な人柄の行成は、

職御曹司の窓口であった清少納言とはかなり親しく、自室に下がっている時ならまだしも、里に下がっていても、清少納言(FSウイカさん)に取り次ぎを頼んだとかかれています。


その二人の間のエピソードとして有名なのが、

百人一首にも採られている


夜をこめて 鳥の空音は はかるとも

世に逢坂の 関は許さじ


という歌でしょう。


頭弁=行成さまが、私たちのいる職御曹司に参上して、わたしとお話をなさっているうちに、夜もすっかり更けてしまった。


(行成)「明日は主上の御物忌みで、殿上の間に籠もらなければならないから、丑の刻(午前2時)になったらまずいぞ。」

といって、宮中に参上なさった。


翌朝、蔵人所の紙屋紙(事務用の紙)をたくさん使って、

(行成)「後朝キヌギヌの朝は心残りが多い心持ちがいたします。一晩中、昔語りでもしながら夜を明かしたかったのに、鶏の声にせき立てられまして。」と、

たいそう美しく、本当でもないことをたくさんお書きになっている。


まず、主上の御物忌みとは、当時はいろいろ日が悪い、方角が悪いと迷信がありまして、陰陽道などでそれを計算し、外出や仕事をするのを慎んだり、「方違カタタガえ」といって、住居を変えたりしました。


それで安倍晴明(ユースケ・サンタマリアさん)なんかが活躍していたわけですね。


で、天皇にも物忌みの日があるので、その時は宮中に出入りするのは憚られて、だいたい日の変わった後ぐらいには、天皇のおられる清涼殿にある「殿上の間」という詰所に、側近は詰めておかないといけなかったようです。


で、行成は2時までには行かないと!と言って、少納言のところを出たわけです。


当時、男性が女性を訪問して、朝になって帰って行く、一晩恋人と過ごした後の切ない朝を「後朝キヌギヌ」といい、その切なさを和歌などにして、カノジョに贈るわけですが、この場合は当然、雑談をしていて、

「ヤバッ、夜勤の出勤時間だ~💦」と言って出勤しただけなのです。


それにもかかわらず、行成はまるで後朝の文のように、名残惜しさを綿々と連ねて、少納言に届けたのです、事務用の用紙でw


要は、「後朝ごっこ」を仕掛けてきたわけですね❗


ドラマで見ていると渡辺大知さんの行成は真面目でおとなしそうですが、清少納言とこんな遊びをやれる、頭がキレる人だったようです。


お返事に、

(清少納言)「夜更けに鳴いた鶏というのは、『孟嘗君』のと同じ、鳴き真似だったのではありませんか?」

と申し上げたところ、すぐさま、

(行成)「『孟嘗君の鶏の鳴き真似は、函谷関の門をあけて、三千人の食客とともにかろうじて逃げた。』とあるが、

私が越えたとのは逢坂の関ですよ。」

ときたので、


ええとσ(´・д・`)

ここから解説いるなあ💦


中国に司馬遷の書いた「史記」という歴史書がありますよね。古文でなんかやったはずです。

「鴻門之会」とか「四面楚歌」とか記憶にありますよね( ・∀・)


その中に出てくる孟嘗君モウショウクンという人は、斉という国の使いとして、秦の国に行き、捕らえられそうになったのを逃れて、夜半に「函谷関カンコクカン」という関所まできますが、夜なので関所が閉まっています。ヤバイ((( ;゚Д゚)))


そこで一行の中に鳥の鳴き真似の上手い人がいて、鶏の鳴き真似をしたところ、(当時は時計がないので)朝がきたと勘違いした関守が開門し、一行は無事脱出したという故事を踏まえています。


つまり行成が、

「鶏の声に急かされて、早く帰ってしまったから、名残惜しかった。もっとあなたとゆっくり語り合いたかったのに。」

と後朝ぽい手紙を寄越したのに対し、


少納言は

「あらー、鶏がねw……

それにしてはまだ真夜中だったような気がするけど、 あれは「孟嘗君の鶏」ってことねw」と返したのです。 


すると行成は

「孟嘗君の鶏は、夜中に函谷関を開けさせて三千人をかろうじて逃がしたんだよね。 でも、それは中国の関所で、 日本は「逢坂の関」なんだから、あなたと私が「逢う」関でしょ?❤️」と言ったのです。

どこまでも後朝のように振る舞う行成に


(清少納言)

夜をこめて 鶏の虚音は はかるとも

よに逢坂の 関は許さじ

夜更けに鶏の鳴きまねをして朝が来たとだまそうとしても、逢坂の関は優れた関守がいますから、函谷関とは違うのでそんなことでだまされて門を開けることはありません=あなたと結ばれることはありませんよ。

と申し上げた。


すると、またすぐに、

(行成)

逢坂は 人越え易き 関なれば

鶏鳴かぬにも あけて待つとか

逢坂の関は皆が越えやすい関だから、鶏など鳴かなくても、いつも門を開けて待っているとかいう話ですよ


という返歌があります。

清少納言は

「函谷関は鶏の鳴き真似をしたら開くけれど、私は身持ちが固いのよ❗ 」と切り返したのです。


それに行成も

「どなたにもモテモテのあなたですから、逢坂の関は「逢う」だけあって、鶏が鳴かなくても、開いてるんでしょう?」と帰ってきます。

これは少納言が身持ちが悪いというよりは、いろんな人にモテてるじゃありませんか?という褒め言葉です。


 結局、これからどうなったかというと


という手紙のうち、行成様からの最初の一通は僧都の君が、額を床につけて、持っていかれた。


後の二通については、中宮様に差し上げる。中宮様は

「それでも逢坂の歌は、詠みぶりに圧倒されて、返歌をしなかったのは残念ね。」とお笑いになった。


とあります。僧都の君とは定子の弟で、出家した隆円ですが、

和様の書道の名手と言われた行成の書は、当時お手本としてみんな欲しがったのです。


定子の弟君に土下座して頼まれた清少納言は、最初のものは隆円に差し上げてしまいました。要は遊びなので、公開OKなのです。


その後、行成も少納言の手紙を回りに見せています。やはり公開OKで、

「うまく行った歌を見せられるのも甲斐がありますわ。でも私があなたの歌を見せびらかさないのは、同じくらいの思いがあってこそよ。」と、少納言は言ってますが、定子には見せてますねw


その後、例の源経房ツネフサ(道長の妻、明子の弟、源高明の子で、道長の養子になっていた。)とのやり取りで、


「頭弁=行成が先日の手紙で褒めていたよ。自分の想い人が褒められるのは嬉しいね。」というので、少納言も

「今日は嬉しいことが2つありましたわ。1つは頭弁が褒めてくださったこと、もう1つはあなたの想う人に入れていただいたことです。」と答えています。


長徳の初め頃、この人との付き合いが、清少納言を「道長派」だとするイジメに発展したようですが、あの長い里居の時も、経房は清少納言の居場所を知り、また中宮のもとも訪ねていたようなので、非常に信頼をおいている間柄と言えます。


本心なのか、リップサービスか判然としませんが、経房は恋人に近い存在かもしれませんね。


さて行成とはこの後どうなるのでしょう?


職御曹司の中宮定子の生活と共に、二人の関係を見ていきましょう。


次回もまたご訪問くださいませ。







ご訪問ありがとうございます。


この辺りの記事はちょっとなのですが、邪馬台国関連で、長くなってしまいました。


羽白熊鷲についても、記事量はわずかなのですが、場所が場所だけにただの叛乱記事としてすませられないのですが、


次の田油津媛タブラツヒメについては、卑弥呼説、卑弥呼の後裔説がつきまとうので、より詳しく検証してみようと思います。


25日、(皇后は)場所を移して

山門県ヤマトノアガタに行き、土蜘蛛ツチグモである田油津媛タブラツヒメを殺した。


田油津媛の兄、夏羽ナツバが兵を構えて迎えたが、妹が殺されたことを聞いて逃げた。

まず「山門ヤマト」について考えましょう。
だいたい邪馬台国論争自体が、江戸時代の新井白石が巻き起こしたものですが、
「邪馬台国 山門説」を言い出したのも彼です。
そのあと、かの本居宣長が、「天皇家が朝貢するわけない‼️」と国学における国粋思想を振りかざし、
本当は倭の女王は神功皇后だけど、九州の女酋が倭の女王を僭称して朝貢したというよくわからない説を唱えました。

しかしながら邪馬台国の正式な書き方の
「邪馬薹」の薹ト(乙類)と山門の門ト(甲類)は古代の発音が違うという点で批判されていたのですが、大野晋氏や田中卓氏が、甲乙の表記には混乱があるという例も出されて、山門=邪馬台というのもアリな感じにもなっています。

そこに田油津媛タブラツヒメという女酋がいたとなると、これはもう俄然卑弥呼の関係者じゃないか⁉️ということで、
田油津媛はその関係では、わりと有名な人なのです。

しかも田油津媛と兄の夏羽に関しては、驚くべき民間伝承が残っています。

1つ目は、田油津媛のお墓なのですが、

福岡県みやま市瀬高町(旧山門郡)に老松神社という神社があり、そこの境内にある「蜘蛛塚」が田油津媛の墓所だという伝承があるのです。

この蜘蛛塚は大正時代までは「女王塚」「大塚」と呼ばれていたのが、
前方後円墳だったのを削って、道を通した際に、天皇家を憚って「蜘蛛塚」と改称したということなのです。

つまり地元では田油津媛=女王という認識があったということになります。

ただ景行天皇が討伐した葛築目クズチメの墓ともいわれており、
そもそも前方後円墳だったというのが、大和朝廷の影響下にある勢力の墳墓ということになるので、
これが田油津媛のお墓だという確定はできませんが、田油津媛は女王だったというイメージが残っていたということになります。

一方の葛築目もクズチ女ということで女王ですが、「景行紀」には見えません。地域的に熊襲ではないのですが、景行天皇は神夏磯媛カミナツソヒメや速津媛ハヤツヒメの要請で、熊襲以外の土蜘蛛討伐もやっているので、全く作り事でもないように思います。

2つ目は「日本書紀」によると田油津媛が征伐されたと聞いた兄の夏羽が逃げたと書いてありますが、

その先にも伝承が残っています。

夏羽は逃げたといいますが、福岡県田川市の本拠地に戻り、そこで神功皇后の軍に焼き殺されたというのです。

それを伝えているのが、田川市夏吉の若八幡神社なのですが、筑前由紀さんのブログに由緒書きをあげておられるので、お借りいたします。


若八幡神社由緒
人皇第十二代景行天皇の熊襲征伐に際し天皇を周防の佐波(今の防府市)迄出迎え、九州平定に寄与されたのが我が 夏吉地域開発の祖神、神夏磯姫でした。

「榊の枝に八握剣 八咫鏡、八尺瓊をとりかけ、船の舳先に素幡をたて、参向した」と日本書記には記されています。

年代は下がって姫の後裔夏羽は朝廷に恨みを持ち、神功皇后の暗殺を企てた妹、田油津姫を援けんと軍勢を催してかけつける途中で妹の敗戦を知り逃げ帰って館に立て篭もったところを追って来た皇后の軍勢に焼き殺されました。(岩屋須佐社横の洞庭との説もある)それ以来夏羽焼―夏焼と此の村が呼ばれる事になったのです。

後に、夏羽の亡霊の祟りを鎮める為に宇佐より八幡宮が勧請されましたが(光仁年中一一七三 ~四年前)今の大宮司屋敷から現在地に鎮座されたのは慶長十三年二月三日(三七五年前)の事です。現在は仁徳天皇(応神天皇の若宮)を合わせ祭る為に若八幡と、となえますが、これは平清盛が香春岳鬼ヶ城の守護神として平家の氏神、仁徳天皇の神霊を京都の平野神社より香春岳の中腹に祭り、その後いかなる理由でが当社に鎮座されたのです。

江戸時代小笠原藩祖忠真公巡國の折り当社に参詣され困窮のどん底にあった村民を救うため色々の施政をされると共に、不吉な夏焼の村名を夏吉と、改称されました。

村民は以後の繁栄を感謝し、公の逝去の後若八幡宮の相殿に公の神霊をお祭りして来ましたが、亨和元年(一八二年 朝廷に願い出て、輝徳霊神の神号と霊璽とを頂いたのです。
当社の神紋が、小笠原家の家紋と同じ三階菱であるのは以上の理由によります。


まず驚くのは、夏羽が神夏磯媛カミナツソヒメの後裔とされていることです。
景行天皇に救援を依頼した神夏磯媛は、当地の女王の一人でした。

その後裔が今回は誅殺されたということは、
まさに景行天皇と仲哀天皇・神功皇后のと征討の相手が違っているという
あの地図の示す通りです。
何度も出るので小さく💦

ところで今回の舞台を地図に表すと
このようになります。



田油津媛は夏羽の妹ですから、神夏磯媛の後裔ですが、山門郡は田川市からずいぶん離れています。

ということはこの戦が局地的なものではなく、羽白熊鷲のいる朝倉市を中心に軍勢を展開して戦うといった大規模な戦争だったと思えてきます。

夏羽は別方面に出陣していて、田油津媛の救援に間に合わず、また羽白熊鷲の敗死を受けて、本拠に立て籠ったのではないでしょうか?

そして羽白熊鷲のいた朝倉市が邪馬台国なら、邪馬台国はここで滅亡したということになります。


逆に邪馬台国が大和にあったのなら、大和の政権はもっと早い時代にこの辺りを押さえないと危なくてしょうがないでしょう。
大陸と交流する起点となる玄界灘沿岸の、すぐ背後に別の勢力がはびこっているのです。
それなのに、4世紀の中頃にやっとこさ景行天皇や日本武尊が来て、しかももっと南の熊襲だけを征伐し、
この辺はのんびり巡幸しているのです。


もうひとつ、古代の豊トヨの国にあたる福岡県行橋市付近は、景行天皇の行宮があったので、という理由で「京都ミヤコ郡」になったと「日本書紀」にありますが、

安本美典さんは邪馬台国2代目台与の都だったのでは?という見方をされています。
実際、この地域はかつて豊前国の中心地で、国府跡がみやこ町(旧豊津町)で発見されているので、此処こそ「トヨの国」と言えます。

夏羽の本拠夏吉は、そこから内陸に入っていますが、北東にある香春カワラ岳の西側の裾野が京都郡です。
香春岳は古代、銅を産して、東大寺大仏などにも使われたようですが、
青銅の祭祀を行った弥生時代には、重要な鉱山であった可能性があります。

しかも香春神社には豊比咩トヨヒメ命が
祀られています。ここの神様は
辛国息長大目カラクニオキナガオオメ命、
忍骨命、
豊比咩命 で、

正史の「三代実録」には、辛国息長大目命と豊比咩命は同体とされ、
かつては宇佐神宮を押さえて、豊前国一之宮でした。たいへん社格が高いのです。

神夏磯媛は夏羽の滅亡を伝える若八幡神社の地主神です。もともとここの地を治めた神ということです。

彼女は台与の亡きあと、邪馬台国連合の衰退を見ながら、香春岳を守っていたのかも知れませんね。

邪馬台国の葬制や祭祀を受け継ぐ三輪王権には
天皇と別に、豊鍬トヨスキ入姫と豊城トヨキ入彦、倭姫と倭彦のように祭祀と軍事を司る同母のペアがいました。

羽白熊鷲と田油津媛、夏羽もそのような関係ではないでしょうか?

伝承に惹かれて、少し想像の過ぎたところもあるかも知れませんが、
で、これに久住猛雄さんたちの考古学の成果を合わせると、

この時代に大和朝廷が北部九州を初めて手にして、半島との貿易を始めることになった。
その手助けをしたのが宗像ムナカタ氏で、沖ノ島の祭祀が始まる。
こういったことが見えてくるように思います。


邪馬台国の問題は、考古学の成果を比べても、大和と九州の優劣がたいへんつけにくいのです。(まだ何が出るかも分かりませんし)

ただ3世紀は博多湾貿易で北部九州と山陰が交易の担い手で、4世紀後半から大和朝廷が主導権を握るという九州考古学の成果は、「日本書紀」の内容と矛盾しません。

確かに「日本書紀」の内容は、史実とするにはあまりにもファンタジックで、神話的です。
わたしは皇国史観の立場ではないので、「日本書紀」を鵜呑みにすることはできませんがかといって、頭から無視するのもどうかと思います。


さて、年次はしばらく飛ぶのですが、「日本書紀」には次のような記事が載っています。(原文)

卅九年(239)、是年也、太歲己未。魏志云 明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。
(訳:魏志によると明帝の景初3年6月、倭の女王は大夫の難升米等を郡(帯方郡)に遣わし天子への朝獻を求め、太守の劉夏は吏將をつけて都に送った)Wikipediaより、以下訳文も同じ

ええ⁉️これこそよく見る「魏志倭人伝」ですよね?

「神功皇后紀」では、神功皇后が卑弥呼ということになっているのです。

「神功皇后紀」には他に百済の王様も出てきて外交がとても賑やかになるのですが、「日本書紀」を編纂した当時の学者さんは、できるだけ外国の史書と日本の史書を一致させようとしました。
(今では当たり前のようですが、当時の史書としては珍しい態度らしいです。)

それでめちゃめちゃ悩んだのでしょうねー(^^;)
伝説的なオオタラシヒメを女帝扱いにして※(注)、倭の女王として扱ったのです。

※(注)神功皇后は摂政という建前になっていますが、死ぬまで摂政であり続け、死んだときは、子供の応神天皇は70歳でした(○_○)明治までは神功皇后を天皇とする史書もあって、死ぬまで政治を行った点でも、女帝だったと思われます。


卌年(240)。魏志云 正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭国也。
(訳:魏志によると正始元年、建中校尉の梯儁らを遺わして倭國に詔書・印綬を与えた)

卌三年(243)。魏志云 正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。
(訳:魏志によると正始4年、倭王はまた大夫の伊聲耆・掖邪狗たち8人を遣わして朝貢した)

六十六年(266)。是年、晉武帝泰初二年。晉起居注云 武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢獻。
(訳:この年は晋の武帝の泰初(泰始の誤り)2年である。晋の起居注という記録によると泰初2年10月に倭の女王が使者を送り通訳を重ねて朝貢した)


ところが土器や古墳の編年が進むと、神功皇后は4世紀の人物になるのですが、
当時も神功皇后が4世紀の人ということは認識されていたらしく、

半島に倭人が攻めていったのは、北朝鮮に残っている「好太王碑」でも4世紀ですし、百済との外交で出てくるのも4世紀の王様らしいのです。

そこで「日本書紀」の編者は、当時の記録が干支カンシ=えとで書かれているのをいいことに、120年(2回りぶん)繰り上げたのだといわれています。

しかも最後の66年の記事は、卑弥呼の死後で、台与の時代の遣使なのですが( ̄▽ ̄;)

ただね、「日本書紀」の記事はとても真面目に書かれているのです(*´・ω・`)b

これを書いた学者さんは、「魏志倭人伝」を知って、無視する事ができなかったのですね。

「日本書紀」を嘘八百だと切り捨てるのは簡単ですが、嘘のような伝承と事実と、そして政府の方針の間で、学者さんたちが苦労しながら書いている様子が見えるので、「日本書紀」は愛おしいなと思っているのです。

邪馬台国大和説だと、神武東遷も九州征討もなかったことですよね。

それでは「日本書紀」の編者たちに失礼な気がして、どうも九州説に傾いてしまうのかもしれません( ̄∇ ̄*)ゞ

さて、これで邪馬台国が片付いたので( ノ^ω^)ノ
これからはどんどん進みましょう。

次回もぜひご訪問くださいませ。


ご訪問ありがとうございます。

さて、仲哀天皇の急逝で、天皇の位は空位になりました。
そこで皇后気長足姫オキナガタラシヒメ尊が代わりに政務を執ったということで、ここからは「神功皇后紀」になります。

ただし、この年(仲哀天皇9年)は空位のままで、12月に次の応神天皇が生まれて、翌年が神功皇后の摂政元年になります。

気長足姫尊オキナガタラシヒメは、開化天皇の曽孫、気長オキナガ宿禰王の娘である。
母を葛城高額カヅラキノタカヌカ媛という。

神功皇后の出自については、かなりややこしいので、後で別にまとめたいと思います。

仲哀天皇の2年にその皇后となられた。
幼時から聡明で、叡智であらせられた。
容貌もすぐれて美しく、父も不思議に思われる程であった。

(仲哀天皇)9年春2月、
仲哀天皇が筑紫ツクシの橿日カシイ宮で崩御された。
皇后は天皇が神の教えに従わなかったことで、早く亡くなられたことを悲しまれて、
祟るところの神を知って、財宝の国を求めようと思われた。
そこで群臣と百官に命じて、罪を祓い過ちを改め、さらに斎宮(神を祀る宮)を小山田オヤマダの邑に造らせた。

3月1日、皇后は吉日を選んで斎宮に入り、自ら神主となられた。
武内宿禰に命じて琴を弾かせ、中臣ナカトミノ烏賊津使主イカツノオミを呼び出し、審神者サニワ=神託を聞いてその意味を解釈する人とされた。

織物を数多く積んで、琴の頭部と尾部に供え、神に願って
「先の日に天皇に教えられたのはどこの神様でしょうか?願わくばその御名をお知らせください。」と申し上げた。
七日七夜に至って神がようやく答えて、
「神風の伊勢国(三重県)の度会ワタライの県アガタの、五十鈴宫イスズノミヤに坐イマす神、
名は撞賢木ツキサカキ厳之御魂イツノミタマ天疎アマサカル向津ムカツ媛命である。」とおっしゃった。

誰?(?_?)
三重県度会郡の五十鈴宮って、皇大神宮(伊勢内宮)ですけど?天照大神の別名ってことですよね!?
天照大神ですね( ノ;_ _)ノハハーッ!

またお尋ねして
「この神の他に、まだ神がおられますか?」と申し上げると

「形に現れた我は、尾田オダの吾田節アガタフシの淡郡アワノコオリにいる神がいる。」と答えられた。
「まだおられますか?」と聞くと、
「天事代アメニコトシロ虚事代ソラニコトシロ玉籤入彦タマクシイリヒコ厳之事代イツノコトシロ神がいる。と答えられた。
「まだおられますか?」と尋ねると、
「いるかいないか分らない。」との返答だった。

審神者サニワは、
「ここで答えられないで、あとで言われることがありますか?」と尋ねた。
それに答えて、
「日向ヒムカ国の橘の小門オトの水底にいて、海藻のように若々し く生命に満ちている神。名は表筒男ウワツツノオ、中筒男ナカツツノオ、底筒男ソコツツノオの神がいる。」と言われた。

「まだおられますか」と聞くと、
「いるかいないか分らない」と答え、
ついにまだ神があるとは言われなかった。
その神の言葉を聞いて、教えのままに祀った。

そのあとは天照大神の別名(幼名)とも妹とも言われる稚日女ワカヒルメ神、それに大国主命の子、事代主神です。
ここで事代主神が、というのは違和感がありますが、事代コトシロとは言代コトシロなので、御託宣のスポークスマンだということらしいです。

最後の三神は「住吉三神」で、大阪市住吉区の住吉大社(摂津国一之宮)の神様ですが、
黄泉から還ったイザナギ神が、橘の小門で禊ミソギを行った時に、
三貴神(天照大神、月読尊、素戔嗚尊)とともに生まれた神様です。

オリオンの三ツ星ともいわれています。


その後、吉備臣の祖である鴨別カモノワケを遣わして、熊襲の国を討った。
いくらも経たないうちに自然と服従した。

討たなくてよいといわれていたのに、熊襲を討ったということは、やっぱり仲哀天皇は熊襲に討たれたので敵討でしょうか?

続いて「日本書紀」には、次のような物語が載っています。


荷持田ノトリタの村フレ(朝倉市野鳥)に羽白熊鷲ハシロクマワシという者があり、
その人となりは強健で、身体に翼があり、よく飛んで高く翔ることができる。
それで皇命に従わず、常に人民から略奪している。

17日に皇后は熊鷲を討とうとして、橿日宮から松峡マツオ宮(朝倉郡筑前町栗田)に遷られた。
そのとき、旋風がにわかに吹いて、御笠が吹きとばされた。
当時の人は、そこを名づけて御笠ミカサ(三笠郡=太宰府市付近)といった。

羽白熊鷲ってガッチャマンの大鷲のケンみたいなイメージ?って古すぎて分からないですか?w
←これ
失礼しました((*_ _)ペコリ


下の地図の朝倉市野鳥に羽白熊鷲がいました。神功皇后はそこに迫る場所まで出兵したということです。



ところで、邪馬台国九州説の急先鋒、安本美典さんによれば、
弥生時代においては、朝倉市からの鉄製品、銅鏡、絹など「魏志倭人伝」に出てくるものの出土が群を抜いて多いということです。

そこで安本さんは朝倉市(合併前は甘木市)に邪馬台国があったという推定をされています。

また朝倉市には九州最大の弥生時代の環濠集落「平塚川添遺跡」があります。

「日本書紀」は、なんとそこに羽白熊鷲がいたというのです。

女王ではないですが、卑弥呼の頃30ヵ国の連合体であった国々の中心であった地域(邪馬台国)の、後継者の可能性も0ではありません。

そこで少し、当時の日本と東アジアの話をしておきましょう。


九州考古学の久住猛雄さんのご研究によると、卑弥呼が女王になった頃、
北部九州の交易は、

特に三韓は壱岐の原の辻遺跡、
楽浪地域は糸島市の三雲遺跡群がその拠点でした。(楽浪郡は中国=当時は魏が半島北部に置いた郡)

そういう点では卑弥呼が伊都国(糸島市付近)に一大率を置いていたのも納得できます(*´・ω・`)b

ところが3世紀半ばから後半、弥生時代終末期から古墳時代初頭になると、
その隣の博多湾岸やその後背の福岡平野の遺跡群から楽浪土器が確認されるようになり、
また三韓では馬韓諸国(南西部)の土器が主流になって、博多湾にその中心を移すことになります。(博多湾貿易)

その頃から出雲の山持遺跡(島根県出雲市)からも北部九州の土器と共に、馬韓土器や楽浪土器が出るようになるのですが、

博多湾貿易が西新町遺跡(福岡市)に一元化されるようになると、山陰の拠点は古志本郷遺跡に移り、同時に西新町遺跡の山陰系土器の濃度が増すだけでなく、壱岐や半島南部からも山陰系土器が出土するようになり、山陰の勢力が積極的に交易に関わるようになります。

これを聞く限り、神話の高天原と出雲の対立は、北部九州=高天原と考えると、めちゃくちゃ真実味が出てきます。そしてそれは玄界灘沿岸を支配する邪馬台国と山陰の出雲の対立であるとも言えます。
わたしはそれを踏まえて崇神天皇の入婿と出雲征伐は邪馬台国の差し金、四道将軍の派遣は出雲包囲網ではないかと考えたわけです。(もちろん一代で成ったとは思いませんが)

ところが314年に(中国が朝鮮半島においていた)楽浪郡、帯方郡が相次いで高句麗によって滅ぼされると、博多湾貿易は徐々に衰退し、この後4世紀半ばになると、

・西新町遺跡(博多湾岸、奴国?)をはじめとする福岡平野の大集落
・古志本郷遺跡(島根県西出雲)
・纒向遺跡(奈良県)

などが同時に衰退して行きます。
(以上は古代史講義 佐藤信編 ちくま新書
「邪馬台国から古墳の時代へ」吉松大志による)

これがちょうど三輪王権(崇神天皇~景行天皇)の時代になり、
出雲振根の討伐があり、
景行天皇の纒向日代宮を最後に、
大和の王権も纒向に戻ることはなくなります。

細かい動きはともかく、ざっくりした流れは考古学と「日本書紀」は同調しています。

そして大和では、
おそらく三輪王権とは違う王権が誕生したか(巨大古墳も佐紀古墳群に移動)、

三輪王権自体が大きく変容したか、

何らかの変化が起きたと考えられます。

仲哀天皇、神功皇后は、まさにその後の時代になるわけです。


それでは九州の動向はどうであったか、というと、
博多湾貿易の衰退は、北部九州の玄界灘沿岸を押さえていた邪馬台国にとっては、かなりのダメージを受けることになったと思います。

もはや30ヵ国の連合を維持するのも困難になり、場合によっては以前のように内部での抗争も起きたと思われます。

一方、熊襲と思われる狗奴国は、中国江南との関係が指摘されています。
免田式土器と呼ばれる熊本県に集中して出土する土器は、沖縄まで分布が見られ、南西諸島方面の交易があったことを類推させます。
するとこの先、台湾や中国の南部に交易圏が広がったというのも想像できることになります。

それを証明するように、熊本県球磨クマ郡あさぎり町の才園サイゾン古墳(6世紀)からは、
3世紀に中国江南地方で作られたの銘文入画文帯神獣鏡が出土しているのです。

免田式土器と才園古墳(産経新聞Webより)

以前から狗奴国は三国時代の呉(「三國志」の孫権の国)と繋がりがあり、
そのために魏はわざわざ黄幢オウドウ=皇帝の旗を与えて応援したという見方はありましたが、
もしそうなら、狗奴国の方は呉との交易ができなくなったわけではないので、国力的には邪馬台国を上回ってきたのかもしれません。

その頃に景行天皇の熊襲征伐があったということは、これは邪馬台国の要請に応えてということも考えられます。

実際に「日本書紀」には神夏磯媛カムナツソヒメやた速津媛ハヤツヒメのように、周辺の対立する部族の征伐を依頼した人々も出てくるのです。

といっても、邪馬台国が弱体化したなら、景行天皇が邪馬台国に攻め入って滅ぼしてもいいわけですが、そうはならない。
そういう流れから、わたしは纒向に生まれた三輪王権が、邪馬台国を宗主国としていたのでは?と考えます。

崇神天皇が邪馬台国から入婿して出雲包囲網を作ったということを思いついたのは、実は景行天皇の征伐が北部九州を避けている理由を考えていたからなのですが、下の地図を見ると、
絵空事というにはあまりにもリアルに、邪馬台国の一部だと確定できる地域を避けています。

絵空事でこういう風になるのかな?という疑問が沸き上がったのです。

筑紫には入らない景行天皇の遠征


もちろん景行天皇や神功皇后を実在の人物と見るのは無理があります。
特に神功皇后には、母子神の名残が多く残っています。

それについてはまた説明しますが、
本来は4世紀前半に南九州、その後に北部九州と対馬・壱岐を押さえた大和王権の動向は、
4世紀後半から宗像沖ノ島(福岡県宗像市)の祭祀を始めるという、吉松さんの見解と一致します。

そういう点では「日本書紀」の年次が120年繰り上げてあるという(これは神功皇后を卑弥呼に比定したことから起こっています。)ことを前提に、
120年繰り下げた年代で考えると、考古学の流れと「日本書紀」の大和王権の九州進出はほぼ一致します。

羽白熊鷲も、そんな羽のある人間がいるわけなくて、架空の人物と言ってもいいのですが、

4世紀後半に統率する勢力を失った博多湾の国々が大和王権に恭順し、
孤立した福岡県内陸部の国が最後の戦いを大和王権に挑んだ記憶が残っているように、わたしには思えます。

20日、(神功皇后は)層増岐野ソソキノに行き、兵をあげて羽白熊鷲を撃って殺した。
(皇后は)近侍の人に、
「熊鷲を討った。私の心も安らかになった。」とおっしゃった。それで、そこを名づけて安ヤス(夜須郡=朝倉郡北部)という。

羽白熊鷲の塚はずっと放置されてあったらしいのですが、
「あまぎ水の文化村」建設の際に、ふるさとの統治者であった羽白熊鷲を顕彰しようと、敷地内にあった塚をすごく立派に造り直されたとのこと。

天皇絶対主義の戦前では叶わなかったことなので、よかったな~と思います。

画像はアメブロ「筑前由紀のプチトリップ」
(下のリンク)よりお借りしました。

筑前由紀さんのブログは、たまたまこの辺りを調べていてヒットしたのですが、
こちらのブログも読んでいただいてたので、ご連絡を差し上げ、画像の使用やリンクについてご許可いただきました。
神功皇后関係の伝承地などをレポートしておられるので、当分ものすごくお世話になろうと思っております( ̄∇ ̄*)ゞ
みなさんも詳しい伝承などにご興味があれば、ぜひご訪問くださいませ。


さて、安ヤスと言えば、安の河のほとりで八百万神が相談するという話が「天岩戸」の時にありましたが、ここが邪馬台国で、卑弥呼が天照大神ならありそうな話です。

熊襲を破った後に、わざわざ宮(本営)を移して対峙した甘木の英雄羽白熊鷲とは、熊襲(狗奴国)ではないのは明白です。
景行天皇が避けた領域にいた羽白熊鷲こそ、邪馬台国最後の男王だったのではないでしょうか?

次回は田油津媛タブラツヒメの討伐です。ここにも邪馬台国がちらつきます。

次回もぜひご訪問くださいませ。



ご訪問ありがとうございます。6月のお部屋のまとめです。


サークルのテーマが梅雨だったので、まずはそれから(*´▽`)

あら、虹

雨上がりの風情を遠近法を使って作ってみました。


石山寺詣で

フレンドさんのお誕生日部屋ですが、
今年は注目される石山寺詣でのイメージで、湖畔にたたずむ平安女性を作りました。


蓮の池

これはフレームの作り方を紹介したときの見本なので、フレーム以外はアイテムだけで作っています。

紫陽花寺

鎌倉の長谷寺は行ったことはないのですが、紫陽花の間を登っていくイメージがあったのでそういう風に作りました。
ちょっと油絵ぽくなって自分でも意外な雰囲気になりました。


ピグベヤというイベントをされた方がいて、そこに応募させていただきました。

傾斜地の家

二階玄関のトリックを使って、ありそうなおうちにしてみました。



地中海沿岸の家

遠近法、背景の作り方など、けっこう工夫して作りました。
爽やかな雰囲気にしたくて、白と青を基調に、アクセントに黄色を使っています。

6月は忙しくてあまり作ってないのですが、遠近法がけっこう使えるようになってきたかな?
また、いろいろ練習してみたいです。

今回もお付き合いありがとうございました。

次回は、神功皇后に入りますが、いろいろ検証しないと行けないことがたくさんあります。
まずは邪馬台国論になりそうです。

またのご訪問をお待ちしております。



ご訪問ありがとうございます。


前々回「光る君へ」では、まさかの

「斉信(はんにゃ 金田さん)に騙された~」とボヤく道長(柄本佑さん)が出てきてびっくりでしたが、

まあ、斉信がうまく長徳の変を利用してのしあがったのは、史実と考えられるので、そーゆこと

なんですね(o´艸`o)♪


さて、「枕草子」を読む限りでは、

清少納言は斉信に関しては、すごく誉めているのですが、(見た目も、機転の利くところも、自分のいったことをずっと覚えている記憶力も)


定子に「あなたの推しだものねw」と言われるくらいに褒めまくったわりには、

「出世して蔵人頭じゃなくなったらもう会えないから、恋人になろうよ~💕」という斉信のお誘いには、なぜか

「恋人のことを人前で褒めるなんて、カッコ悪いわー」とピシャリと断ってしまいます。


といって、清少納言は恋人を作らないかというと、そんなことはなくて

いろいろな歌集から藤原実方と恋愛関係にあったということが推測できます。


これについては、またお話しするとして

今日は次のエピソードを見てみましょう。


人と物いふことを碁になして、近う語らひなどしつるをば、「手ゆるしてけり」「結(けち)さしつ」などいひ、「男は手受けむ」などいふことを人はえ知らず。この君と心得ていふ……


(人の男女のことをいうのに碁に例えて、攻め手を許してしまった、とかもう手がない、とか、男はハンディをもらってるよみたいにいうのを、他の人は知らなくて斉信さまとはツーカーで話しているの……)


自分のことじゃなくて、人の男女の仲って、要は噂話なんでしょうか?

どうも趣味が悪いけどw人間関係に敏感な斉信らしくもあります(^^;)


こんな話で盛り上がりながら、いざとなったらピシャリとは、確かに斉信もびっくりかw


ここにはもうひとり、宣方ノブカタの中将という、いつも斉信とつるんでいる貴族がでてきます。


源宣方とは源雅信の子、つまりあの倫子さま(黒木華さん)の弟でありまして、右大臣の子というハイソな貴公子ですが、けっこう笑い倒してるので大丈夫かしら?

後年、清少納言が紫式部にめちゃくちゃディスられたのはそのせいだったりしてw


この宣方、斉信の朗詠が素晴らしいと、いつも清少納言が褒めるので、斉信に歌い方を習ってそっくりに歌い、

「え⁉️誰⁉️」と女房らの関心を引きます。


そしてあろうことか、この碁の隠語の意味までも斉信に教えてもらって、清少納言に


「碁盤侍りや。まろと碁うたむとなむ思ふ。手はいかが。ゆるし給はむとする。頭の中将とひとし碁なり。なおぼしわきそ」


(碁盤はありますか? 私と碁を打っていただきたい。手はどうします? 先手を許してくださいます? 頭中将とは同レベルの碁です。分け隔てしないで!)


とお誘いしますが、

少納言に

「誰とでもそんなことしませんよ❗」とピシャリ‼️

斉信はさすがに碁にかこつけて、こんなあけすけには言わないですよね(;^_^A

急にこれを言われたら「は?」ってなるよね💦


しかも宣方はそれをまた斉信に報告w

斉信は喜んだみたいですけどね。

斉信も後で断られるけどねw


雅び度 ↘️↘️↘️


こうして、斉信の方はかっこいいのですが、

長徳の変(996年4月24日)その日に、伊周と隆家が左遷され、順送りで空席になった参議に滑り込み、宰相中将になります。


長徳の変がそもそも、斉信の妹四の君に通っていた花山院を、三の君に通っていた伊周と弟隆家が射たということで、


花山院も僧体で女性のところに通っていたとあっては表沙汰にもできずにいたものを、公にしたのは現場にいた斉信ではないかと言われていて、


それをドラマに取り入れたのが最初のシーンということになります。

もっともドラマではホワイト道長なので、斉信があることないことを言ったことになっちゃったけど、

実際は道長がチャンス❗とばかりに伊周の追い落としを行ったのでしょうね。


さて、それに対して、清少納言が一条天皇に話したということが「枕草子」に書かれています。


(斉信さまが)宰相=参議になられたのを、主上の御前で、

「あの方は詩をとても趣深く吟じられたものを。『蕭會稽之過古廟』なんかも、他の誰が吟じようとなさるでしょう?

しばらくの間だけでも(天皇の秘書の蔵人頭として)主上のお側にお仕えすればいいのに。残念なことですわ。」などと申し上げたら、(天皇は)たいそうお笑いになって、

「そこまで言うのなら、参議にはしないよ!」などとおっしゃるのも面白い。


というのが、宣方の中将の話の中に出てくるのです。


この時期がとても難しくて、

長徳の変の時は、伊周の左遷は当然急に決まって発表されたわけで、斉信の参議任命も公表されたときには決まっていたので、清少納言がこんなことを言う暇はありませんよね。(そもそも女房風情が止められるものでもないし、)


ましてや長徳の変前後は、道長と通じていると誤解されていた少納言は、女房らの無視にあい、長期の里下がりをして、

定子からの内密の手紙を受けて、秋、または翌年春にようやく再出仕を果たすという時期になります。


そしてその間の定子は、職御曹司から里邸の二条宮、さらにその焼亡を受けて、小二条宮(叔父高階明順アキノブ邸)に移り、一条天皇には会うことはありませんでした。


そして長徳3年(997)の4月に伊周らの罪が許されると、定子の謹慎も解けますが、

かといって落飾した后を後宮に入れて良いものかという、公卿の反発も強く、

内裏の外の中宮職の中にある職御曹司に入るのです。


ところで、ドラマでは定子を寵愛するあまり、一条天皇が職御曹司に入り浸っているように描かれていますが、

実際は、定子と一条天皇は、この時は会えなかったと考えられます。

翌年12月にも、長女の脩子内親王の袴着ハカマギ=3歳の祝いが宮中で行われますが、この時も中宮は参内していません。


では、二人はいつ会ったのかというと、

そのあと長保元年(999)1月3日に、

「枕草子」にのみ、中宮の参内が見えます。

これは他の記録には見えないのですが、

「枕草子」に誤りがないことは、

11月7日に敦康親王が生まれることからもわかります。


この日は道長の長女の彰子が入内し、ほとんどの公卿が道長の方に集まるという中での寂しい出産でしたが、


6月14日に内裏が焼亡し、天皇は一条大宮院を「今内裏」として移られると、

さすがに定子も宮中に入り、

「清涼殿」に擬された寝殿の北側の御殿(対の屋)に住まわれることになります。

まさに天皇の「北の方」であることになりますね。


おそらく、清少納言が一条天皇に斉信のことを申し上げたのは、「今内裏」になってからでしょう。

それくらいの時間が経ったからこそ、軽い調子で斉信の昇進について言えたと思いますが、やはりそんなに前のことを言うのは、斉信の昇進がどうしても心にひっかかるものがあったように思います。


斉信の華やかさを、道隆亡きあとの定子の後宮の光源として利用していた清少納言ですが、決してその光に目を眩ませることはなかったのだと思います。



さて、戻って1月3日の定子の参内ですが、赤間恵都子さんの推測によると、

この前段に式部丞忠隆という人物が主上の使いで来ているのですが、この参内こそ一条天皇自らが内密に定子を呼び寄せたのだとされています。


つまりこの日まで、一条天皇と定子は会えなかったのです。


したがってドラマのようなこと

一条天皇が職御曹司に入り浸るとか、

政務を顧みないとか、

道長が抗議のために辞表を出すとか

(病気で辞表は出しています。)

は、一切なかったわけですが、

(たぶん「源氏物語」のオマージュとして桐壺更衣のイメージを定子に重ねているので)

ドラマとしては仕方ないかな~(^^;)


でもちょっと一条天皇(塩野瑛久さん)も定子(高畑充希さん)もかわいそう(;^_^A

お二人があまりに美しいので、「違うぞ」とは突っ込めないんだけど~💦


本当は恋心を耐えに耐えて、3年近い日を過ごした二人なのです。


この辺りのことはまた書くとして、定子が堂々と宮中に住まうのは「今内裏」に来てからなので、

この話はその頃と、わたしは推測します。


Wikipediaより


次からは職御曹司時代に出てくる藤原行成について、お話しすることにいたします。


またのご訪問をお待ちしております。






ご訪問ありがとうございます。


今回から仲哀天皇、並びに奥さんの神功皇后の九州征伐になります。

まずは本文を読んでみましょう。


3日月15日、天皇は南海道(紀伊=和歌山県、淡路=淡路島及び四国全域)を巡察された。

その時は、皇后と百官を(敦賀に)留めおかれて、行幸に従うのは2、3人の高官と、官人数百人として、簡単に出発された。紀伊キイ国に行かれて、徳勒津トコロツ宮(和歌山市新在家)に滞在された。


この時に、熊襲が背いて貢物を献上しなかった。

そこで天皇は熊襲国を討とうとして、徳勒津より発って、船で穴門アナト(山口県下関市)にお出かけになった。

その日に、使いの者を敦賀ツルガに遣わされて、皇后に命じ、

「すぐにそこの港から出発して穴門でお会いしましょう。」と言われた。


夏6月10日、天皇は豊浦津山口県下関市)に泊まった。

皇后は敦賀から出発して、淳田門ヌタノミナト(福井県三方郡)に至り、船上で食事をされた。時に、鯛が沢山船のそばに集まった。

皇后が鯛に酒を注がれると、鯛は酒に酔って浮かんだ。漁師たちは沢山その魚を得て、喜んで

「聖王=神功皇后のくださった魚だ。」と言った

それでそこの魚は6月になると、いつも浮き上って酔ったようになるが、このためである。

夏になると赤潮でも発生するのかな?


秋7月5日、皇后は豊浦津に停泊された。この日に、皇后は如意珠ニョイノタマを海から拾われた。(如意の珠とは仏舎利から出て、何でも願いが叶うという宝珠)


9月、行宮アングウ=仮宮を穴門に建てて住まわれた。これを穴門豊浦宮という。


8年春1月4日、(天皇は)筑紫ツクシ(福岡県)にお出ましになった。

岡県主オカノアガタヌシの先祖の熊鰐ワニが、天皇の行幸を聞いて、立派な賢木サカキを抜き取って、大きな船の舳トモに立て、上枝に白銅の鏡をかけ、 中枝には十握トツカ剣をかけ、下枝には八尺瓊(勾玉)をかけて、周芳スオウの沙麼サバ(山口県防府市佐波)の浦にお迎えに参上した。


御料の魚や塩をとる区域を献上し、

「穴門より向津野大済ムカツノオオワタリ(大分県宇佐市向野)に至るまでを東門ヒンガシノミトとし、名籠屋大済ナゴヤノオオワタリ(福岡県北九州市名籠屋崎)を西門ニシノミトとし、没利モトリ島(山口県下関市六連島)、阿閉アヘ島(藍島)を割いて御化粧料とし、柴シバ島(洞海湾)を割いて御料地とする。逆見サカミの海(北九州市若松区)は塩地として献上します。」と申し上げた。


この「岡」という地は、岡水門オカノミナトという名で、神武天皇がここから出発されています。(福岡県芦屋町)

ここから見るに、関門海峡は岡県主の支配下にあったようで、かなりの豪族だと分かります。


実はここは遠賀川の河口で、ニギハヤヒの東遷以前の物部氏の本拠地だと推測されています。


定説まではなっていませんが、「魏志倭人伝」にいう「不弥国」ではないかという説もあります。



(熊鰐ワニは)さっそく海路の案内をして、山鹿ヤマガ岬から回って岡浦に入った。

しかし港に行くと船が進まなくなった。

(天皇は)熊鰐に

「熊鰐は清らかな心があって参上したと聞くのに、なぜ船が進まないのだろうか?」と問われた。


熊鰐は(;´゚д゚)ゞ

「船が進まないのは私の罪ではありません。この浦の入り口に男女の二神がいます。男神を大倉主オオクラヌシ、女神を菟夫羅媛ツブラヒメといいます。きっとこの神の御心によるのでしょう。」と申し上げた。


天皇はさっそく祈祷をされ、舵取りの倭国の菟田ウダの人、伊賀彦イガヒコを神主として祀らせると船は動いた。

皇后は別の船に乗っておられ、洞クキ海(洞海湾)よりお入りになったが、潮がひいて進むことができなかった。


熊鰐はまた戻って洞海から皇后をお迎えしたが、船が進まないのを見て恐縮し、ただちに魚池、鳥池を作って、魚や鳥をことごとく集めた。

皇后はこの魚や鳥の遊ぶのをご覧になって、怒りの心もようやく解けた。

潮が満ちてから岡津に泊られた。


熊鰐さん、なんかめちゃくちゃたいへんそう💦気を遣うよね~💦


また、筑紫(福岡県)の伊都イト(糸島市)県主の先祖、五十迹手イトデが、

天皇がお越しになるのを聞いて、大きな賢木を引き抜いて、船の舳臚トモに立て、上枝には八尺瓊(勾玉)をかけ、中枝には白銅鏡をかけ、下枝には十握剣をかけ、穴門の引島ヒコシマ(彦島)にお迎えした。

そして

「手前がこの物を奉りますわけは、天皇が八尺瓊の勾っているように、絶妙に天下をお治め頂き、また白銅鏡のように、明瞭に山川や海原をご覧頂き、十握剣とをひっさげて、天下を平定して頂きたいからでございます。」と申し上げた。


なるほどこれが三種の神器の意味でしょうか?

ちなみに彦島は、壇之浦の戦いで平家の本拠地になるところです。


天皇は五十迹手をほめられて、

「伊蘇志イソシ=勤勉である。」とおっしゃった。

当時の人は、五十迹手の本国を名づけて伊蘇イソ国といった。

今、伊都イトというのは、これが訛ったものである。


これはこじつけでしょう。「伊都国」と言えば、あの一大率が置かれ、代々王がいた、というあの伊都国です。

「原の辻・三雲交易」の中心であった場所でもあります。


卑弥呼の時代では、諸国の監察や、貿易の中心であった「伊都国」ですね。


そもそもそこの豪族が「イトデ」と名乗っているので、ここは伊都国だと思われます。


21日、(天皇は)儺県ナノアガタにお着きになり、橿日カシイ宮(香椎宮)に滞在された。


次は「奴国ナコク」に当たるとされる「儺県」、福岡市の博多湾にあった国で、

「博多湾貿易」の中心地でした。


ここで末羅マツラ国以外の、魏使の寄港した北部九州の港湾都市が次々と出てきました。




また、玄界灘側から瀬戸内に入る関門海峡も、仲哀天皇の支配下に入り、大和王権は半島への進出を可能にしたわけです。


思うに、最初に敦賀の気比ケヒに仲哀天皇がいたのも、大陸や半島との交易をにらんでのことだったかも知れないのですが、

瀬戸内海から北部九州の港を押さえる方が、海を渡りやすいということもあり、

北部九州の制圧に乗り出したとも考えられます。


注目していただきたいのは、ここが景行天皇の九州征伐では空白地帯、手付かずであったことです。


景行天皇の九州征伐と仲哀天皇への服属国


しかし、かつてここを支配していた邪馬台国はどうなったんでしょう?


もし大和に邪馬台国があったなら、今さら仲哀天皇に各国の王が服属するのも不思議ですよね?


「日本書紀」は崇神朝以来、

丹波、越、出雲、南九州、南関東、北関東と順序だてて全国平定を記していますが、

それですら物語化されて、誇張があると批判されています。


それなのに3世紀に既に傘下に入っていた北部九州が、4世紀半ばごろと思われる仲哀朝に服属したなどと書くでしょうか?


仮に「日本書紀」がいうように神功皇后が卑弥呼ならそれもあり得ますが、

纒向遺跡と関連付ける現在の大和説には全く符合しません。


けれども北部九州説だと、少なくともこの時代までは、邪馬台国には侵しがたい勢力や権威があり、大和王権には手が出せなかったという説明がつきます。


また沖ノ島の祭祀など、4世紀後半から大和王権が玄界灘の交易を掌握するという、九州考古学の成果とも合致します。


「日本書紀」は天皇の支配を正当化する書物です。ですから内容をそのまま信じる、いわゆる皇国史観については、危険であると考えるべきですが、


その「日本書紀」がわざわざ支配していた地域を、ようやく服属したと書くでしょうか?


天皇家に有利な記事に疑いの目を向けるのは、正しいことだと思いますが、

天皇家に不利な記述まで、嘘っぱちとするべきではないでしょう。


神武天皇ははるか東の大和を目指しましたが、日向に程近い北部九州の中心は無視していました。


景行天皇も九州の中南部は征伐したのに、北部九州には手を出しませんでした。ヤマトタケルも熊襲を暗殺したのみで、南関東の征討に向かいます。


はっきり書かないけれど、明らかに北部九州には侵しがたい勢力があったと思われるのです。


それが玄界灘の交易を押さえていた邪馬台国ではなかったのかというのが、わたしの大きな疑問です。


こういう見方で持って、続きを読んでいきましょう、



秋9月5日、(天皇は)群臣に熊襲を討つことを相談するように命じられた。

その時、神がおられ、皇后に憑依してお教えになり、

「天皇はどうして熊襲が従わないことを憂えられるのか?そこは荒れて瘦せた地だぞ。どうして挙兵して討つに足りよう?この国よりも勝って宝のある国、例えば乙女の眉のように、港のはるか彼方に見える国がある。目も眩むような金、銀、色鮮やかな文物が、その国にはたくさんある。これを栲衾タクブスマ新羅シラギ国という。もし、篤く私を祀れば、刀に血塗ることもなく、その国は必ず服従するであろう。そしてまた熊襲も従うであろう。

天皇の御船、及び穴門直践立アナトノアタイホムタチが献上した名付けて大田という水田、これらのものをもってお供えとなさいませ。」と託宣された。


天皇は神の言葉を聞かれたが、疑いの心がおありになった。そこで、高い丘に登って遥かに大海を眺められたが、広々としていて国も見えなかった。

天皇は神に答えまつりて、

「私が見渡しましたが、海だけがあって国はありません。どうして大空に国がありましようや?いったいどこの神がいたずらに私を欺くのでしよう?

また、我が皇祖、多くの天皇は、あらゆる天津神、国津神をお祀りしてこられました。どうしてまだ祀らずに残っておられる神がありましょうや?」と仰せになった。


神はまた皇后に憑依して、

「私が水に映る影のように、鮮明に上から見おろしている国を、どうして国が無いと言って、我が言葉をディスるのか!?王よ、そう言って最後まで信じないのであれば、そなたその国を得ることはないであろう。ただし、皇后は今、初めて妊娠されている。その御子がそ国を得られるであろう。」と託宣された。


天皇はそれでも信じられず、無理に熊襲を討たれたが、勝てずに帰ることとなられた。


9年春2月5日、天皇は急に病気になられ、翌日に亡くなられた。

時に、年52歳であった。


皆、天皇が神のお言葉を採用されなかったので早く亡くなられたと知った。


一に云わく(別伝)、天皇は自ら熊襲を討伐され、賊の矢に当たって崩御された。



「古事記」では、天皇が琴を弾き、皇后が神憑り中に、疑いの言葉を発し、

促されて嫌々に琴を弾き始めるとまもなく、事切れたということになっています。めっちゃ祟り~((( ;゚Д゚)))


別伝の熊襲に討たれたというのもショッキングな話で、本当らしくもあり、といって仲哀天皇の実在性には疑問も多いので、これには悩まされる研究者も多いでしょうね。


どちらかというと、あんまりいい役回りではない天皇です(^^;)


お父さんのヤマトタケルも不遜な発言で災難を招いていますが(>o<")

似たのかしら?w

でもおっしゃってることは論理的なので、わたしは嫌いじゃないです。リアリストなんでしょうね。



ここで皇后と大臣オオオミの武内宿禰タケシウチノスクネは、天皇の喪を秘して天下に知らされなかった。

皇后は大臣と、中臣ナカトミノ烏賊津イカツノ連ムラジ、大三輪オオミワノ大友主オオトモヌシノ君キミ、物部モノノベノ胆咋イクイノ連、大伴オオトモノ武以タケモツ連に詔して、

「今、天下の人は天皇が亡くなられたことを知らない。もし人民が知ったなら、勤めを果たさないかもしれない。」と言われ、

四人の大夫に命じられ、百官を率いて宮中を守らせた。


密かに天皇のご遺骸を収めて、武内宿禰に従わせ、海路から穴門にお移しした。

そして豊浦宮で、殯を行い灯火を焚かないで弔われた。


22日、大臣、武内宿禰は、穴門から帰って皇后に御報告した。


この年は新羅の役によって、天皇の埋葬は行われなかった。



7世紀になって、斉明天皇が福岡県の朝倉で亡くなられた時は、もしかしたらこんな感じだったのでしょうか?


さて、熊襲を討つなといわれた神功皇后ですが、この後も九州での戦いが続きます。


しかも前線基地は朝倉市、安本美典さんが数々の考古学資料を挙げて、ここが邪馬台国❗と主張されている朝倉市です。


はたしてどんな戦いが繰り広げられるのでしょう?


次回のご訪問もぜひお待ちしております。




ご訪問ありがとうございます。

今月、大阪松竹座で上演中の「ヤマトタケル」を見てきました。



朝ドラの「ブギウギ」でUSKが踊ってた場所ですが、前はオペラ劇場風の洋館だったのが、のちに映画館になり、「宇宙戦艦ヤマト」とか見に行ったこともw


今はUSKならぬOSKも講演するけど、いちおう関西歌舞伎の基幹劇場です。


「ヤマトタケル」を通しで観るのは、実は初演以来、ン十年ぶりです。

その時はまだ宙乗りのできる劇場が大阪になくて、京都の南座でしたが、

卒論を書いて間無しでテンション最高⤴️⤴️な時で、絶対見ないと~と思い行きました(ノ゚Д゚)八(゚Д゚ )ノイエーイ



その後、途中何度か機会はあったんですが、見逃していまして、


猿之助丈の「事件」とかもあって、

今後「ヤマトタケル」は見られないんではないかと思っていた(*T^T)

今回は見られて本当によかった~



ヤマトタケルの市川團子ダンコ丈と
弟橘媛の中村壱太郎カズタロウ丈のパネル


このスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」は、現代にマッチしたストーリー、スピード、スペクタクル(3S)を掲げて、

三代目市川猿之助、つまり昨年亡くなった猿翁さんが、

哲学者で当時古代史界で旋風を巻き起こされていた梅原猛さんに脚本を依頼して作られたもので、

昭和61年(1986)に新橋演舞場で初演、

私は6月の京都南座で観劇しました。


番附(プログラム)を見ますと、梅原猛さんの初演の時の寄稿が再掲されていて、

「ヤマトタケルは猿之助さんであり、私だ。」というお話が載っていましたが、


当時はピンとこなかったのでしょうか?

今聞くと

なるほどね~、二人とも異端児だったからねえ(*-ω-)と同意w

居場所がなくて天翔って行きたかったのね~💦(いえいえ、お二人とも素晴らしい業績を残しておられますよ!)


当時の歌舞伎は、宙乗りなんて品がないみたいな感じだったんです。今みたいに新作歌舞伎でアニメなんかの歌舞伎化がバンバンされるようになったのは、それこそ「ヤマトタケル」の成功があってこそなのですヾ(≧∀≦*)ノ〃

本当は江戸時代の歌舞伎なんて、前にご紹介した「妹背山婦女庭訓」みたいに荒唐無稽でスペクタクルで楽しかったのに、明治以降バカにされてたのです(*T^T)グスン


しかも今回は、初演の演出に戻してということだったのですが、今見ても古さは全くなくて、ストーリー、スピード、スペクタクルを存分に楽しむことができました。



ストーリーはほぼ「古事記」準拠です。

父子の相剋が底流にあるのも「古事記」と一緒で、

わたしは猿翁さんが息子の香川照之さんをずっと拒否してきたということを知っているので、(ここの詳細はググって下さい。)

ヤマトタケルを拒否し続ける帝を香川照之(市川中車)さんが演じておられるのが、なんともフクザツ~な気分になるのですが(´-ω-`)

そこに大碓命、小碓命の母の死後、皇后になった大后オオキサキが我が子の根子ネコ命を帝位につけようとして、ヤマトタケルを追い出そうと画策するような話も入ります。

「日本書紀」ではヤマトタケルの死後に、稲日大郎姫が亡くなるのですが、そこは改変することでストーリーは分かりやすくなりますね。


で、ヤマトタケルを演じるのは香川照之さんの息子さんの市川團子ダンコさん、

四代目猿之助さんの襲名披露では7歳で、ヤマトタケルの息子ワカタケルのお役でしたが、

今回はまだ大学生の身で、よくヤマトタケルを演じきったと、感動しました。


序盤に小碓命が双子の兄大碓命を諌めにいってもみ合う内に、過って殺してしまう場面は、大碓命と小碓命の目まぐるしい早変わりで、小碓命で台詞を言い、ひとしきりもみ合ったら大碓命になってるというのを繰り返しますからたいへん💦


その第一部のクライマックスは、熊襲館に踊り女として潜入、踊ったあとに引き抜きで小碓命となって大立ち回り、


第二部は、東征の出発からですが、一辺が身長ほどの大旗を振りながらの焼津の火難の立ち回りから、走水での弟橘媛の入水に到る悲痛な場面まで、


第三部はミヤズヒメとの婚礼から、伊吹山での山神と姥神との死闘で、ずーっと立ち回りの連続ですから、よくこなせるなと感心します。


それで最後は独白と白鳥になっての宙乗りまで、息つく暇もありません。


しかも、初演の頃の猿翁さんのお話では


出来上がった梅原猛さんの脚本は、なんと4時間以上あったようでw

(梅原猛さんの本をよく読んでたので、それはすごくワカる~分厚いw)

猿翁さんはそれを削るのにたいへん苦心されたとお話しされていました。


それで初演はすごーく早口だった記憶があるのですが、とにかく台詞も膨大なのです。


團子さんも、いわば父親の因縁で歌舞伎界に引きずり込まれたような形だったのに、後ろ楯となるはずの猿之助さんの事件のこともあって、将来的にどうなるのか実はすごく心配していたのです💦


これからだとあと40年くらいはヤマトタケルを演じることができるので、まだまだ素人のわたしにはわからない未熟さはあるのでしょうが、ご自分なりのヤマトタケルを作っていってほしいと思います。


初演の猿翁さんは、もうベテランであったわけですが、それでも熊襲のところに踊り女として現れた16歳のヤマトタケルはとても可愛かったです。

コケティッシュなお色気までありさすが❗だと思ったものでした。


今回の團子さんは、コケティッシュという感じはなかったけど、なんせ若いので可愛さとか一途さとかは、ぜんぜん心配いらない。一生懸命さがすごく伝わります。


むしろ正妃、兄橘エタチバナ媛を都に残しながら、双子の妹弟橘媛(これも中村壱太郎カズタロウさんの二役)を愛し、

そのあとミヤズヒメの「わたしを一番愛して」という要望にホイホイ答えちゃうのも、團子さんの若さに溢れる瞳を見ると、なんとも納得してしまうんですよねw


脳筋であんまり考えてない感じの「古事記」の小碓命にはぴったりだったです。(誉めてます💦)


この瞳を見ると(×10のオペラグラス持ってるのでw)、ヤマトタケルの魅力は、怒りたい時は怒り、泣きたい時は泣き、というその若さにあるというのが、本当によく分かります。


16歳で熊襲に行き、帰って間無しで東国に追いやられる。そして途中で亡くなるという一生は、「日本書紀」の30歳でも長過ぎるので、大学生の團子さんの歳がぴったりなんだろうな、と思いました。


今回 当代市川團子丈

初演 三代目市川猿之助(当代猿翁)丈
画像は共に今公演番附より


それと改めて思ったのは梅原猛さんの脚本が、古代のことを本当によくわかっておられる、ということでした。


一番すごいと思ったのは弟橘媛の入水のところなのですが、

占いによって嵐を鎮めるのはヤマトタケルの最も大切なものを海の神に差し出すこと、つまり弟橘媛を差し出すのだと占い師に言われたヤマトタケルは、当然拒否しますが、

弟橘媛は自ら出てきて、タケルに

「わたしは大后になりたかったが、今のままでは大后になれない。」といいます。双子の姉兄橘媛がタケルの正妃になり、皇子を生んでいたのです。


「だから私は海の大后になる。そのために畳を八重に敷いて大后の座をつくって欲しい。」と言いますが、それはあくまで詭弁でタケルは承知しません。


しかし弟橘媛は、

「ここは海の上だ。海の上では海の大后の命令をききなさい。」といい、雷鳴に怯える周りの人もその勢いにのまれて、畳を準備するのです。


ここはヤマトタケルがおめおめと愛する后を失う場面ですから、たいへん処理が難しいのですが、「海の大后」という言葉の使い方で、みんな弟橘媛の言葉を聞いてしまう。


弟橘媛が、ただ「あなたのために死にます。」といっても、ドラマにはならないけど(「日本書紀」はこれ)

弟橘媛が海の女神である本質を踏まえての命令は、(もちろん裏にはタケルへの愛が見えるだけに)たいへん切なくも説得力がありました。


初演も見てるし、そもそもヤマトタケルにはめちゃくちゃ詳しいわたしですが、

ここはさすがに泣けました(´;ω;`)


他にも梅原猛さんは、

征服されるがわの熊襲や蝦夷の立場を重視し、

自由な暮らしをしているのに、ヤマトは「米と鉄で支配してくる」などとヤマトを非難させます。


一方でそれを聞いたヤマトタケルが

「ヤマトは嘘ばかりだ。」と批判しながらも、熊襲や蝦夷を

「古いものを大切にするのはいいが新しいものを取り入れない国はダメだ。」と指摘ところは、より深い見方をしています。


だからヤマトタケルは梅原さんであり猿翁さんだということでしょうね。当時の歌舞伎界の古い因習や歴史の見方を打破したお二人のための言葉がこれです。


また大碓命が略奪する兄媛、弟媛をタジマモリが常世でもうけた兄橘媛と弟橘媛としたのも、梅原さんのアイデアです。


素晴らしい設定や展開だなと思います。


しかしながら、基本的に「古事記」に沿ったストーリーでこんなに泣ける(*T^T)なんて、

「古事記」の作者ってすごくないですか⁉️


わたしはやはり「古事記」の作者は天才だと思う。

「源氏物語」の300年も前に、こんな物語を作れるなんて❗と思うわけです。


わたしはミヤズヒメの歌から、「古事記」の作者は柿本人麻呂だという見方にたどり着きましたが、

梅原さんも、万葉仮名のご研究から、「古事記」の作者が柿本人麻呂ではないかと指摘されておられます。


「古事記」を読み込まれて、この脚本を書かれた梅原さんが、柿本人麻呂に注目されておられるのは、心強いことだと思います。


と、またヤマトタケルの検証に戻ってしまいましたね(;^_^A



初演に比べると今回は若い役者さんが多いせいか、セリフ回しなどはちょっと宝塚っぽい?感じでした。


スーパー歌舞伎だから、そもそもが歌舞伎っぽい溜めた話し方はしないし、現代語なのでわかりやすいという点ではおすすめです。


イヤホンガイド(レンタルすると芝居の進行に合わせて解説してくれる優れもの)などは全く要りません。


このイヤホンガイド、トイレで立ち話されているかたの会話を小耳に挟んだけど、幕間は「古事記」の解説らしいです。このブログを読まれてる方は要らないですね( ・∀・)ウン❗


だから歌舞伎って見たことない方も、気軽に見に行っていただけると思います。

若手なので通常より安めだし(*⌒∇⌒*)

(わたしは生協のチケットなので半額よりもちょっと上ぐらいのお値段で見ましたよ。団体割引になるんです。)


今回はこれで終わりのようですが、再演もあると思いますので、機会がありましたら、ご覧くださいませ。


「ヤマトタケル」は最後は、大后も根子命も亡くなって、帝も考えを改めて、

タケルの従者たちも褒美に与り、

兄橘媛が生んだワカタケルが日嗣の皇子になります。


こちらも古代史の方は、ヤマトタケルの皇子仲哀天皇がいよいよ熊襲征討に出かけるのですが……


「日本書紀」の方もどうぞよろしくお願いいたします。


それではまたのご訪問をお待ちしております。







ご訪問ありがとうございます。


今回から仲哀天皇の巻に入るのですが、いろいろありすぎ~Σ(Д゚;/)/


短いのですが丁寧に見ていこうと思います。


足仲彦タラシナカツヒコ天皇は日本武尊の第二子である。

母の皇后は、垂仁天皇の娘である両道入姫フタジノイリビメ命という。


わっ❗( ̄▽ ̄;)

ここだけで問題山積ー💦


まずはヤマトタケルの正妃である両道入姫命が垂仁天皇の皇女だとここで初めて出てきます。

それまではどこの誰かわからなかったのです(,,・д・)

「古事記」では石衝別イワツクワケ王の妹の石衝姫命の「亦の名」で出てきます


「日本書紀」(景行紀)では4人の子の母ですが、

第一子の稲依別イナヨリワケ王は、ヤマトタケルの総本社というべき、滋賀県の建部大社の創祀者で、「古事記」では安国造の娘布多遅比売フタジヒメの子であるとされ、

建部大社でも稲依別王を若宮神社、布多遅比売命をその母、藤宮神社として祀っています。


ここはもちろん近江(滋賀県)の犬上君氏や建部君氏の祖神として創祀された神社なので、祖神である稲依別王と母神を祀るのは当然なのですが、


神社側としては、正史「日本書紀」に反して、布多遅比売命が稲依別王の母であるという伝承を堅持しているということです。(他は弟彦公のように「日本書紀」のみの登場人物も祀られているにも関わらずです❗)


また両道入姫命の所生の皇子は、

稲依別王(「記」では布多遅比売の子)

仲哀天皇

稚武王(「記」では弟橘比売の子)

布忍ヌノシ入姫(景行皇女に淳熨斗ヌノシ皇女)

というように、他から持ってきた子供が多く、「古事記」「日本書紀」に共通するのは仲哀天皇だけなのです。

そもそもヤマトタケル自体がいろんな伝承を繋いで作り上げた英雄なのに、
その中でも仲哀天皇は母の出自も不安定で、伝承の母胎が確認できない存在です。

ただ後で述べるように、
「古事記」の倭建ヤマトタケル命系譜では、
景行天皇の3代前になっている
倭建命の后、弟橘比売の子、若建王の子孫の大中比売命を妃にしているので、



本来の仲哀天皇が、倭建命の3代後に設定された景行天皇の皇子小碓命の子であるとすれば、(東征の倭建命と西征の小碓命を別人と考えます。)代数は合います。
両道入姫が小碓命の本来の妃のフタジヒメから分化していることも考慮すると、
東征の倭建命と西征の小碓命が合体した持統朝よりも前、
おそらく天武10年(681)の歴史編纂事業の時には、この系譜が作られていたことは、推察できます。
ですから仲哀天皇は景行天皇の孫として、万世一系の系譜が作られた頃には存在していたはずです。


一方で、その事績は神功皇后とともに北部九州への進出をおこなっているので、
その点では4世紀の大和王権が、半島へ進攻して行く大きな流れに沿ってはいます。(4世紀における倭の半島進出は「好太王碑」で確認できます。)

ですから全く非実在とは言えず、
仲哀天皇、神功皇后の子は応神天皇、あの河内(大阪府南東部)の地に、巨大な墳丘を築いた大王ですから、

そういう点では仲哀天皇は「倭の五王」に先立つ血統の大王と思われます。


天皇は容姿端正で身丈は十尺(3m)あった。
成務天皇48年に立太子して皇太子となられた。時に、年31。
成務天皇は男皇子がおられないので、跡継ぎとされた。

φ(゜゜;)\(--;)オイオイ

日本武尊は景行天皇40年に亡くなっています。成務天皇48年に31歳なら成務18年生まれぢゃねーかい?
この注ですが、仲哀天皇の崩年は52歳ですが、それだと成務17年生まれ、どっちにしろヤマトタケルの死後、37、8年経ってる( ・∀・)
まさに語るに落ちたってことですね。


60年、(成務)天皇が崩御された。
翌年秋9月6日、大和(奈良県)の狭城盾列陵サキノタタナミノミササギに葬った。
(仲哀天皇)元年春1月11日、太子は皇位につかれた。
秋9月1日、母の皇后を尊んで皇太后と呼ばれた。

母の皇后は日本武尊妃の両道入姫ですから本来は皇太妃のはずで、これは日本武尊を天皇扱いする「記紀」共通の姿勢、ヤマトタケルがもとは天皇だったと言われる論拠ですが、もしかすると文武天皇の早世後に、皇太子であった草壁皇子の妃、阿閉皇女が元明天皇として即位するときに、皇后しか天皇になれないという慣例があったため、皇太后にいったんなってたとかあったのかもしれません。

冬11月1日、(天皇は)群臣に詔して、
「私はまだ二十歳になる前に、父の王ミコ=日本武尊は既に亡くなっていた。またその神霊は白鳥となって天に上られ、それをお偲びしない日は一日もなかった。今回は白鳥を捕って陵の周濠に飼おう。そしてその鳥を見ながら、父を偲ぶ心を慰めようと思う。」とおっしゃった。
そこで諸国に命令して白鳥を献上させた。

ここは「古事記」にありません。なんかムリクリ出してきた話っぽい?
まあ、諸国にはめんどくさい命令です。

閏年11月4日、越国コシノクニが白鳥四羽を献上した。そこで鳥を献上する使いが、宇治ウジ川のほとりに泊まった。
その時、蘆髪蒲見別アシカミノカマミワケ王がその白鳥を見て、
「どちらに持っていく白鳥か?」と問われ、越の人は
「天皇が父の王を恋しく思われて、飼いならそうとしておられるので、献上します。」と答えた。

蒲見別カマミワケ王は越の人に、
「白鳥と言っても、焼いたら黒鳥になるだろう」と言われて、無理矢理に白鳥を奪って、持っていってしまった。

越の人は天皇に登城し助けを要請した。
天皇は蒲見別王が、 父の皇子に対して無礼なことを憎まれ、即刻兵を遣わして王を誅殺された。蒲見別王は天皇の異母弟である。
当時の人は言った。
「父は天であり、兄=仲哀天皇は天皇である。天をあなどり君に背いたならば、どうして罪を免れるだろう?」
是の年、太歳は壬申ミズノエサルである。

ここの蘆髪蒲見別王は、「古事記」の倭建命の子、足鏡別アシカガミワケ王だと思われます。母は山代之玖玖麻毛理比売ヤマシロノククマモリヒメといい、京都府南部の山城国にあったククマ=栗隈クリクマ郷の女性だと思われます。~モリというのはタジマモリに見られる古い姓カバネのようです。

ここは宇治市にあたる場所なので、この叛乱が宇治川のほとりで起きたこととも矛盾はなく、蘆髪蒲見別王=足鏡別王ということで良いのですが、

実はこの宇治川や木津川のいわゆる「淀川水系」は、和珥ワニ氏による「庶兄の叛乱の鎮圧伝承」の舞台で、これも似たところはあるのですが、和珥氏は登場しませんし、「庶弟」であるところが違います。
けれどもヤマトタケルの子は
稲依別王の子孫、犬上君
若建王の子孫、香坂王、忍熊王
が、神功皇后と和珥氏によって滅ぼされているので、
何かしら関係ありそうに思います。

詳しくはこちらの記事をご覧ください。

2年春1月11日、気長足姫オキナガタラシヒメ尊を立てて皇后とした。
これより先に叔父である彦人大兄ヒコヒトノオオエの娘である大中媛オオナカツヒメを妃とされた。
麛坂カゴサカ皇子、忍熊オシクマ皇子を生んだ。
次に、来熊田造ククマタノミヤツコの祖である大酒主オオサカヌシの娘、 弟オト媛を娶とって誉屋別ホムヤワケ皇子を生んだ。

2月6日、敦賀ツルガ(福井県敦賀市)にお出ましになった。
行宮カリミヤを立ててお住まいになった。
これを笥飯宮ケヒという。
その月に淡路(兵庫県淡路島)の屯倉ミヤケを定められた。

上の系図にありましたが、
仲哀天皇(タラシナカツヒコ)は
オキナガタラシヒメとオオナカツヒメを娶り、それぞれの子が皇位争いで戦います。

そして勝者オキナガタラシヒメ(神功皇后)の子の応神天皇から、大阪府南部に巨大古墳を築く「河内王朝」の時代になります。

そうするとこれは2つの王統の戦いかもしれないという見方は、古くからあるのですが、

タラシナカツヒコという名前は

オキナガタラシヒメ
     ┣━━━応神天皇
タラシナカツヒコ
     ┣━━━麛坂皇子、忍熊皇子
オオナカツヒメ

という2人の妃の名前をミックスしていると考えられ、やはり万世一系の皇統譜が作られるときの0造作ともいえるでしょう。

まあ、こういう風に仲哀天皇はめちゃくちゃ分かりにくいのです(;^_^A

だいたいがヤマトタケルの子供というのがなんとも~💦

ところがやっていることはわりと歴史に沿っているので、むしろ系譜は忘れてそっちに注目する方がいいようです。

そうするとなんと❗邪馬台国の滅亡⁉️(@ ̄□ ̄@;)!!みたいなことも見えてきます。

さて、ややこしい話が続きますので、
ちょうどヤマトタケルも出てきているので、
次回はスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」の鑑賞記です。

~6月23日(日)大阪松竹座で上演中です❗

しばしこういうのは忘れて、スペクタクルな世界をお楽しみ下さいませ。