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今回から仲哀天皇、並びに奥さんの神功皇后の九州征伐になります。

まずは本文を読んでみましょう。


3日月15日、天皇は南海道(紀伊=和歌山県、淡路=淡路島及び四国全域)を巡察された。

その時は、皇后と百官を(敦賀に)留めおかれて、行幸に従うのは2、3人の高官と、官人数百人として、簡単に出発された。紀伊キイ国に行かれて、徳勒津トコロツ宮(和歌山市新在家)に滞在された。


この時に、熊襲が背いて貢物を献上しなかった。

そこで天皇は熊襲国を討とうとして、徳勒津より発って、船で穴門アナト(山口県下関市)にお出かけになった。

その日に、使いの者を敦賀ツルガに遣わされて、皇后に命じ、

「すぐにそこの港から出発して穴門でお会いしましょう。」と言われた。


夏6月10日、天皇は豊浦津山口県下関市)に泊まった。

皇后は敦賀から出発して、淳田門ヌタノミナト(福井県三方郡)に至り、船上で食事をされた。時に、鯛が沢山船のそばに集まった。

皇后が鯛に酒を注がれると、鯛は酒に酔って浮かんだ。漁師たちは沢山その魚を得て、喜んで

「聖王=神功皇后のくださった魚だ。」と言った

それでそこの魚は6月になると、いつも浮き上って酔ったようになるが、このためである。

夏になると赤潮でも発生するのかな?


秋7月5日、皇后は豊浦津に停泊された。この日に、皇后は如意珠ニョイノタマを海から拾われた。(如意の珠とは仏舎利から出て、何でも願いが叶うという宝珠)


9月、行宮アングウ=仮宮を穴門に建てて住まわれた。これを穴門豊浦宮という。


8年春1月4日、(天皇は)筑紫ツクシ(福岡県)にお出ましになった。

岡県主オカノアガタヌシの先祖の熊鰐ワニが、天皇の行幸を聞いて、立派な賢木サカキを抜き取って、大きな船の舳トモに立て、上枝に白銅の鏡をかけ、 中枝には十握トツカ剣をかけ、下枝には八尺瓊(勾玉)をかけて、周芳スオウの沙麼サバ(山口県防府市佐波)の浦にお迎えに参上した。


御料の魚や塩をとる区域を献上し、

「穴門より向津野大済ムカツノオオワタリ(大分県宇佐市向野)に至るまでを東門ヒンガシノミトとし、名籠屋大済ナゴヤノオオワタリ(福岡県北九州市名籠屋崎)を西門ニシノミトとし、没利モトリ島(山口県下関市六連島)、阿閉アヘ島(藍島)を割いて御化粧料とし、柴シバ島(洞海湾)を割いて御料地とする。逆見サカミの海(北九州市若松区)は塩地として献上します。」と申し上げた。


この「岡」という地は、岡水門オカノミナトという名で、神武天皇がここから出発されています。(福岡県芦屋町)

ここから見るに、関門海峡は岡県主の支配下にあったようで、かなりの豪族だと分かります。


実はここは遠賀川の河口で、ニギハヤヒの東遷以前の物部氏の本拠地だと推測されています。


定説まではなっていませんが、「魏志倭人伝」にいう「不弥国」ではないかという説もあります。



(熊鰐ワニは)さっそく海路の案内をして、山鹿ヤマガ岬から回って岡浦に入った。

しかし港に行くと船が進まなくなった。

(天皇は)熊鰐に

「熊鰐は清らかな心があって参上したと聞くのに、なぜ船が進まないのだろうか?」と問われた。


熊鰐は(;´゚д゚)ゞ

「船が進まないのは私の罪ではありません。この浦の入り口に男女の二神がいます。男神を大倉主オオクラヌシ、女神を菟夫羅媛ツブラヒメといいます。きっとこの神の御心によるのでしょう。」と申し上げた。


天皇はさっそく祈祷をされ、舵取りの倭国の菟田ウダの人、伊賀彦イガヒコを神主として祀らせると船は動いた。

皇后は別の船に乗っておられ、洞クキ海(洞海湾)よりお入りになったが、潮がひいて進むことができなかった。


熊鰐はまた戻って洞海から皇后をお迎えしたが、船が進まないのを見て恐縮し、ただちに魚池、鳥池を作って、魚や鳥をことごとく集めた。

皇后はこの魚や鳥の遊ぶのをご覧になって、怒りの心もようやく解けた。

潮が満ちてから岡津に泊られた。


熊鰐さん、なんかめちゃくちゃたいへんそう💦気を遣うよね~💦


また、筑紫(福岡県)の伊都イト(糸島市)県主の先祖、五十迹手イトデが、

天皇がお越しになるのを聞いて、大きな賢木を引き抜いて、船の舳臚トモに立て、上枝には八尺瓊(勾玉)をかけ、中枝には白銅鏡をかけ、下枝には十握剣をかけ、穴門の引島ヒコシマ(彦島)にお迎えした。

そして

「手前がこの物を奉りますわけは、天皇が八尺瓊の勾っているように、絶妙に天下をお治め頂き、また白銅鏡のように、明瞭に山川や海原をご覧頂き、十握剣とをひっさげて、天下を平定して頂きたいからでございます。」と申し上げた。


なるほどこれが三種の神器の意味でしょうか?

ちなみに彦島は、壇之浦の戦いで平家の本拠地になるところです。


天皇は五十迹手をほめられて、

「伊蘇志イソシ=勤勉である。」とおっしゃった。

当時の人は、五十迹手の本国を名づけて伊蘇イソ国といった。

今、伊都イトというのは、これが訛ったものである。


これはこじつけでしょう。「伊都国」と言えば、あの一大率が置かれ、代々王がいた、というあの伊都国です。

「原の辻・三雲交易」の中心であった場所でもあります。


卑弥呼の時代では、諸国の監察や、貿易の中心であった「伊都国」ですね。


そもそもそこの豪族が「イトデ」と名乗っているので、ここは伊都国だと思われます。


21日、(天皇は)儺県ナノアガタにお着きになり、橿日カシイ宮(香椎宮)に滞在された。


次は「奴国ナコク」に当たるとされる「儺県」、福岡市の博多湾にあった国で、

「博多湾貿易」の中心地でした。


ここで末羅マツラ国以外の、魏使の寄港した北部九州の港湾都市が次々と出てきました。




また、玄界灘側から瀬戸内に入る関門海峡も、仲哀天皇の支配下に入り、大和王権は半島への進出を可能にしたわけです。


思うに、最初に敦賀の気比ケヒに仲哀天皇がいたのも、大陸や半島との交易をにらんでのことだったかも知れないのですが、

瀬戸内海から北部九州の港を押さえる方が、海を渡りやすいということもあり、

北部九州の制圧に乗り出したとも考えられます。


注目していただきたいのは、ここが景行天皇の九州征伐では空白地帯、手付かずであったことです。


景行天皇の九州征伐と仲哀天皇への服属国


しかし、かつてここを支配していた邪馬台国はどうなったんでしょう?


もし大和に邪馬台国があったなら、今さら仲哀天皇に各国の王が服属するのも不思議ですよね?


「日本書紀」は崇神朝以来、

丹波、越、出雲、南九州、南関東、北関東と順序だてて全国平定を記していますが、

それですら物語化されて、誇張があると批判されています。


それなのに3世紀に既に傘下に入っていた北部九州が、4世紀半ばごろと思われる仲哀朝に服属したなどと書くでしょうか?


仮に「日本書紀」がいうように神功皇后が卑弥呼ならそれもあり得ますが、

纒向遺跡と関連付ける現在の大和説には全く符合しません。


けれども北部九州説だと、少なくともこの時代までは、邪馬台国には侵しがたい勢力や権威があり、大和王権には手が出せなかったという説明がつきます。


また沖ノ島の祭祀など、4世紀後半から大和王権が玄界灘の交易を掌握するという、九州考古学の成果とも合致します。


「日本書紀」は天皇の支配を正当化する書物です。ですから内容をそのまま信じる、いわゆる皇国史観については、危険であると考えるべきですが、


その「日本書紀」がわざわざ支配していた地域を、ようやく服属したと書くでしょうか?


天皇家に有利な記事に疑いの目を向けるのは、正しいことだと思いますが、

天皇家に不利な記述まで、嘘っぱちとするべきではないでしょう。


神武天皇ははるか東の大和を目指しましたが、日向に程近い北部九州の中心は無視していました。


景行天皇も九州の中南部は征伐したのに、北部九州には手を出しませんでした。ヤマトタケルも熊襲を暗殺したのみで、南関東の征討に向かいます。


はっきり書かないけれど、明らかに北部九州には侵しがたい勢力があったと思われるのです。


それが玄界灘の交易を押さえていた邪馬台国ではなかったのかというのが、わたしの大きな疑問です。


こういう見方で持って、続きを読んでいきましょう、



秋9月5日、(天皇は)群臣に熊襲を討つことを相談するように命じられた。

その時、神がおられ、皇后に憑依してお教えになり、

「天皇はどうして熊襲が従わないことを憂えられるのか?そこは荒れて瘦せた地だぞ。どうして挙兵して討つに足りよう?この国よりも勝って宝のある国、例えば乙女の眉のように、港のはるか彼方に見える国がある。目も眩むような金、銀、色鮮やかな文物が、その国にはたくさんある。これを栲衾タクブスマ新羅シラギ国という。もし、篤く私を祀れば、刀に血塗ることもなく、その国は必ず服従するであろう。そしてまた熊襲も従うであろう。

天皇の御船、及び穴門直践立アナトノアタイホムタチが献上した名付けて大田という水田、これらのものをもってお供えとなさいませ。」と託宣された。


天皇は神の言葉を聞かれたが、疑いの心がおありになった。そこで、高い丘に登って遥かに大海を眺められたが、広々としていて国も見えなかった。

天皇は神に答えまつりて、

「私が見渡しましたが、海だけがあって国はありません。どうして大空に国がありましようや?いったいどこの神がいたずらに私を欺くのでしよう?

また、我が皇祖、多くの天皇は、あらゆる天津神、国津神をお祀りしてこられました。どうしてまだ祀らずに残っておられる神がありましょうや?」と仰せになった。


神はまた皇后に憑依して、

「私が水に映る影のように、鮮明に上から見おろしている国を、どうして国が無いと言って、我が言葉をディスるのか!?王よ、そう言って最後まで信じないのであれば、そなたその国を得ることはないであろう。ただし、皇后は今、初めて妊娠されている。その御子がそ国を得られるであろう。」と託宣された。


天皇はそれでも信じられず、無理に熊襲を討たれたが、勝てずに帰ることとなられた。


9年春2月5日、天皇は急に病気になられ、翌日に亡くなられた。

時に、年52歳であった。


皆、天皇が神のお言葉を採用されなかったので早く亡くなられたと知った。


一に云わく(別伝)、天皇は自ら熊襲を討伐され、賊の矢に当たって崩御された。



「古事記」では、天皇が琴を弾き、皇后が神憑り中に、疑いの言葉を発し、

促されて嫌々に琴を弾き始めるとまもなく、事切れたということになっています。めっちゃ祟り~((( ;゚Д゚)))


別伝の熊襲に討たれたというのもショッキングな話で、本当らしくもあり、といって仲哀天皇の実在性には疑問も多いので、これには悩まされる研究者も多いでしょうね。


どちらかというと、あんまりいい役回りではない天皇です(^^;)


お父さんのヤマトタケルも不遜な発言で災難を招いていますが(>o<")

似たのかしら?w

でもおっしゃってることは論理的なので、わたしは嫌いじゃないです。リアリストなんでしょうね。



ここで皇后と大臣オオオミの武内宿禰タケシウチノスクネは、天皇の喪を秘して天下に知らされなかった。

皇后は大臣と、中臣ナカトミノ烏賊津イカツノ連ムラジ、大三輪オオミワノ大友主オオトモヌシノ君キミ、物部モノノベノ胆咋イクイノ連、大伴オオトモノ武以タケモツ連に詔して、

「今、天下の人は天皇が亡くなられたことを知らない。もし人民が知ったなら、勤めを果たさないかもしれない。」と言われ、

四人の大夫に命じられ、百官を率いて宮中を守らせた。


密かに天皇のご遺骸を収めて、武内宿禰に従わせ、海路から穴門にお移しした。

そして豊浦宮で、殯を行い灯火を焚かないで弔われた。


22日、大臣、武内宿禰は、穴門から帰って皇后に御報告した。


この年は新羅の役によって、天皇の埋葬は行われなかった。



7世紀になって、斉明天皇が福岡県の朝倉で亡くなられた時は、もしかしたらこんな感じだったのでしょうか?


さて、熊襲を討つなといわれた神功皇后ですが、この後も九州での戦いが続きます。


しかも前線基地は朝倉市、安本美典さんが数々の考古学資料を挙げて、ここが邪馬台国❗と主張されている朝倉市です。


はたしてどんな戦いが繰り広げられるのでしょう?


次回のご訪問もぜひお待ちしております。