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前々回「光る君へ」では、まさかの
「斉信(はんにゃ 金田さん)に騙された~」とボヤく道長(柄本佑さん)が出てきてびっくりでしたが、
まあ、斉信がうまく長徳の変を利用してのしあがったのは、史実と考えられるので、そーゆこと
なんですね(o´艸`o)♪
さて、「枕草子」を読む限りでは、
清少納言は斉信に関しては、すごく誉めているのですが、(見た目も、機転の利くところも、自分のいったことをずっと覚えている記憶力も)
定子に「あなたの推しだものねw」と言われるくらいに褒めまくったわりには、
「出世して蔵人頭じゃなくなったらもう会えないから、恋人になろうよ~💕」という斉信のお誘いには、なぜか
「恋人のことを人前で褒めるなんて、カッコ悪いわー」とピシャリと断ってしまいます。
といって、清少納言は恋人を作らないかというと、そんなことはなくて
いろいろな歌集から藤原実方と恋愛関係にあったということが推測できます。
これについては、またお話しするとして
今日は次のエピソードを見てみましょう。
人と物いふことを碁になして、近う語らひなどしつるをば、「手ゆるしてけり」「結(けち)さしつ」などいひ、「男は手受けむ」などいふことを人はえ知らず。この君と心得ていふ……
(人の男女のことをいうのに碁に例えて、攻め手を許してしまった、とかもう手がない、とか、男はハンディをもらってるよみたいにいうのを、他の人は知らなくて斉信さまとはツーカーで話しているの……)
自分のことじゃなくて、人の男女の仲って、要は噂話なんでしょうか?
どうも趣味が悪いけどw人間関係に敏感な斉信らしくもあります(^^;)
こんな話で盛り上がりながら、いざとなったらピシャリとは、確かに斉信もびっくりかw
ここにはもうひとり、宣方ノブカタの中将という、いつも斉信とつるんでいる貴族がでてきます。
源宣方とは源雅信の子、つまりあの倫子さま(黒木華さん)の弟でありまして、右大臣の子というハイソな貴公子ですが、けっこう笑い倒してるので大丈夫かしら?
後年、清少納言が紫式部にめちゃくちゃディスられたのはそのせいだったりしてw
この宣方、斉信の朗詠が素晴らしいと、いつも清少納言が褒めるので、斉信に歌い方を習ってそっくりに歌い、
「え⁉️誰⁉️」と女房らの関心を引きます。
そしてあろうことか、この碁の隠語の意味までも斉信に教えてもらって、清少納言に
「碁盤侍りや。まろと碁うたむとなむ思ふ。手はいかが。ゆるし給はむとする。頭の中将とひとし碁なり。なおぼしわきそ」
(碁盤はありますか? 私と碁を打っていただきたい。手はどうします? 先手を許してくださいます? 頭中将とは同レベルの碁です。分け隔てしないで!)
とお誘いしますが、
少納言に
「誰とでもそんなことしませんよ❗」とピシャリ‼️
斉信はさすがに碁にかこつけて、こんなあけすけには言わないですよね(;^_^A
急にこれを言われたら「は?」ってなるよね💦
しかも宣方はそれをまた斉信に報告w
斉信は喜んだみたいですけどね。
斉信も後で断られるけどねw
雅び度 0 ↘️↘️↘️
こうして、斉信の方はかっこいいのですが、
長徳の変(996年4月24日)その日に、伊周と隆家が左遷され、順送りで空席になった参議に滑り込み、宰相中将になります。
長徳の変がそもそも、斉信の妹四の君に通っていた花山院を、三の君に通っていた伊周と弟隆家が射たということで、
花山院も僧体で女性のところに通っていたとあっては表沙汰にもできずにいたものを、公にしたのは現場にいた斉信ではないかと言われていて、
それをドラマに取り入れたのが最初のシーンということになります。
もっともドラマではホワイト道長なので、斉信があることないことを言ったことになっちゃったけど、
実際は道長がチャンス❗とばかりに伊周の追い落としを行ったのでしょうね。
さて、それに対して、清少納言が一条天皇に話したということが「枕草子」に書かれています。
(斉信さまが)宰相=参議になられたのを、主上の御前で、
「あの方は詩をとても趣深く吟じられたものを。『蕭會稽之過古廟』なんかも、他の誰が吟じようとなさるでしょう?
しばらくの間だけでも(天皇の秘書の蔵人頭として)主上のお側にお仕えすればいいのに。残念なことですわ。」などと申し上げたら、(天皇は)たいそうお笑いになって、
「そこまで言うのなら、参議にはしないよ!」などとおっしゃるのも面白い。
というのが、宣方の中将の話の中に出てくるのです。
この時期がとても難しくて、
長徳の変の時は、伊周の左遷は当然急に決まって発表されたわけで、斉信の参議任命も公表されたときには決まっていたので、清少納言がこんなことを言う暇はありませんよね。(そもそも女房風情が止められるものでもないし、)
ましてや長徳の変前後は、道長と通じていると誤解されていた少納言は、女房らの無視にあい、長期の里下がりをして、
定子からの内密の手紙を受けて、秋、または翌年春にようやく再出仕を果たすという時期になります。
そしてその間の定子は、職御曹司から里邸の二条宮、さらにその焼亡を受けて、小二条宮(叔父高階明順アキノブ邸)に移り、一条天皇には会うことはありませんでした。
そして長徳3年(997)の4月に伊周らの罪が許されると、定子の謹慎も解けますが、
かといって落飾した后を後宮に入れて良いものかという、公卿の反発も強く、
内裏の外の中宮職の中にある職御曹司に入るのです。
ところで、ドラマでは定子を寵愛するあまり、一条天皇が職御曹司に入り浸っているように描かれていますが、
実際は、定子と一条天皇は、この時は会えなかったと考えられます。
翌年12月にも、長女の脩子内親王の袴着ハカマギ=3歳の祝いが宮中で行われますが、この時も中宮は参内していません。
では、二人はいつ会ったのかというと、
そのあと長保元年(999)1月3日に、
「枕草子」にのみ、中宮の参内が見えます。
これは他の記録には見えないのですが、
「枕草子」に誤りがないことは、
11月7日に敦康親王が生まれることからもわかります。
この日は道長の長女の彰子が入内し、ほとんどの公卿が道長の方に集まるという中での寂しい出産でしたが、
6月14日に内裏が焼亡し、天皇は一条大宮院を「今内裏」として移られると、
さすがに定子も宮中に入り、
「清涼殿」に擬された寝殿の北側の御殿(対の屋)に住まわれることになります。
まさに天皇の「北の方」であることになりますね。
おそらく、清少納言が一条天皇に斉信のことを申し上げたのは、「今内裏」になってからでしょう。
それくらいの時間が経ったからこそ、軽い調子で斉信の昇進について言えたと思いますが、やはりそんなに前のことを言うのは、斉信の昇進がどうしても心にひっかかるものがあったように思います。
斉信の華やかさを、道隆亡きあとの定子の後宮の光源として利用していた清少納言ですが、決してその光に目を眩ませることはなかったのだと思います。
さて、戻って1月3日の定子の参内ですが、赤間恵都子さんの推測によると、
この前段に式部丞忠隆という人物が主上の使いで来ているのですが、この参内こそ一条天皇自らが内密に定子を呼び寄せたのだとされています。
つまりこの日まで、一条天皇と定子は会えなかったのです。
したがってドラマのようなこと
一条天皇が職御曹司に入り浸るとか、
政務を顧みないとか、
道長が抗議のために辞表を出すとか
(病気で辞表は出しています。)
は、一切なかったわけですが、
(たぶん「源氏物語」のオマージュとして桐壺更衣のイメージを定子に重ねているので)
ドラマとしては仕方ないかな~(^^;)
でもちょっと一条天皇(塩野瑛久さん)も定子(高畑充希さん)もかわいそう(;^_^A
お二人があまりに美しいので、「違うぞ」とは突っ込めないんだけど~💦
本当は恋心を耐えに耐えて、3年近い日を過ごした二人なのです。
この辺りのことはまた書くとして、定子が堂々と宮中に住まうのは「今内裏」に来てからなので、
この話はその頃と、わたしは推測します。
次からは職御曹司時代に出てくる藤原行成について、お話しすることにいたします。
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