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この辺りの記事はちょっとなのですが、邪馬台国関連で、長くなってしまいました。


羽白熊鷲についても、記事量はわずかなのですが、場所が場所だけにただの叛乱記事としてすませられないのですが、


次の田油津媛タブラツヒメについては、卑弥呼説、卑弥呼の後裔説がつきまとうので、より詳しく検証してみようと思います。


25日、(皇后は)場所を移して

山門県ヤマトノアガタに行き、土蜘蛛ツチグモである田油津媛タブラツヒメを殺した。


田油津媛の兄、夏羽ナツバが兵を構えて迎えたが、妹が殺されたことを聞いて逃げた。

まず「山門ヤマト」について考えましょう。
だいたい邪馬台国論争自体が、江戸時代の新井白石が巻き起こしたものですが、
「邪馬台国 山門説」を言い出したのも彼です。
そのあと、かの本居宣長が、「天皇家が朝貢するわけない‼️」と国学における国粋思想を振りかざし、
本当は倭の女王は神功皇后だけど、九州の女酋が倭の女王を僭称して朝貢したというよくわからない説を唱えました。

しかしながら邪馬台国の正式な書き方の
「邪馬薹」の薹ト(乙類)と山門の門ト(甲類)は古代の発音が違うという点で批判されていたのですが、大野晋氏や田中卓氏が、甲乙の表記には混乱があるという例も出されて、山門=邪馬台というのもアリな感じにもなっています。

そこに田油津媛タブラツヒメという女酋がいたとなると、これはもう俄然卑弥呼の関係者じゃないか⁉️ということで、
田油津媛はその関係では、わりと有名な人なのです。

しかも田油津媛と兄の夏羽に関しては、驚くべき民間伝承が残っています。

1つ目は、田油津媛のお墓なのですが、

福岡県みやま市瀬高町(旧山門郡)に老松神社という神社があり、そこの境内にある「蜘蛛塚」が田油津媛の墓所だという伝承があるのです。

この蜘蛛塚は大正時代までは「女王塚」「大塚」と呼ばれていたのが、
前方後円墳だったのを削って、道を通した際に、天皇家を憚って「蜘蛛塚」と改称したということなのです。

つまり地元では田油津媛=女王という認識があったということになります。

ただ景行天皇が討伐した葛築目クズチメの墓ともいわれており、
そもそも前方後円墳だったというのが、大和朝廷の影響下にある勢力の墳墓ということになるので、
これが田油津媛のお墓だという確定はできませんが、田油津媛は女王だったというイメージが残っていたということになります。

一方の葛築目もクズチ女ということで女王ですが、「景行紀」には見えません。地域的に熊襲ではないのですが、景行天皇は神夏磯媛カミナツソヒメや速津媛ハヤツヒメの要請で、熊襲以外の土蜘蛛討伐もやっているので、全く作り事でもないように思います。

2つ目は「日本書紀」によると田油津媛が征伐されたと聞いた兄の夏羽が逃げたと書いてありますが、

その先にも伝承が残っています。

夏羽は逃げたといいますが、福岡県田川市の本拠地に戻り、そこで神功皇后の軍に焼き殺されたというのです。

それを伝えているのが、田川市夏吉の若八幡神社なのですが、筑前由紀さんのブログに由緒書きをあげておられるので、お借りいたします。


若八幡神社由緒
人皇第十二代景行天皇の熊襲征伐に際し天皇を周防の佐波(今の防府市)迄出迎え、九州平定に寄与されたのが我が 夏吉地域開発の祖神、神夏磯姫でした。

「榊の枝に八握剣 八咫鏡、八尺瓊をとりかけ、船の舳先に素幡をたて、参向した」と日本書記には記されています。

年代は下がって姫の後裔夏羽は朝廷に恨みを持ち、神功皇后の暗殺を企てた妹、田油津姫を援けんと軍勢を催してかけつける途中で妹の敗戦を知り逃げ帰って館に立て篭もったところを追って来た皇后の軍勢に焼き殺されました。(岩屋須佐社横の洞庭との説もある)それ以来夏羽焼―夏焼と此の村が呼ばれる事になったのです。

後に、夏羽の亡霊の祟りを鎮める為に宇佐より八幡宮が勧請されましたが(光仁年中一一七三 ~四年前)今の大宮司屋敷から現在地に鎮座されたのは慶長十三年二月三日(三七五年前)の事です。現在は仁徳天皇(応神天皇の若宮)を合わせ祭る為に若八幡と、となえますが、これは平清盛が香春岳鬼ヶ城の守護神として平家の氏神、仁徳天皇の神霊を京都の平野神社より香春岳の中腹に祭り、その後いかなる理由でが当社に鎮座されたのです。

江戸時代小笠原藩祖忠真公巡國の折り当社に参詣され困窮のどん底にあった村民を救うため色々の施政をされると共に、不吉な夏焼の村名を夏吉と、改称されました。

村民は以後の繁栄を感謝し、公の逝去の後若八幡宮の相殿に公の神霊をお祭りして来ましたが、亨和元年(一八二年 朝廷に願い出て、輝徳霊神の神号と霊璽とを頂いたのです。
当社の神紋が、小笠原家の家紋と同じ三階菱であるのは以上の理由によります。


まず驚くのは、夏羽が神夏磯媛カミナツソヒメの後裔とされていることです。
景行天皇に救援を依頼した神夏磯媛は、当地の女王の一人でした。

その後裔が今回は誅殺されたということは、
まさに景行天皇と仲哀天皇・神功皇后のと征討の相手が違っているという
あの地図の示す通りです。
何度も出るので小さく💦

ところで今回の舞台を地図に表すと
このようになります。



田油津媛は夏羽の妹ですから、神夏磯媛の後裔ですが、山門郡は田川市からずいぶん離れています。

ということはこの戦が局地的なものではなく、羽白熊鷲のいる朝倉市を中心に軍勢を展開して戦うといった大規模な戦争だったと思えてきます。

夏羽は別方面に出陣していて、田油津媛の救援に間に合わず、また羽白熊鷲の敗死を受けて、本拠に立て籠ったのではないでしょうか?

そして羽白熊鷲のいた朝倉市が邪馬台国なら、邪馬台国はここで滅亡したということになります。


逆に邪馬台国が大和にあったのなら、大和の政権はもっと早い時代にこの辺りを押さえないと危なくてしょうがないでしょう。
大陸と交流する起点となる玄界灘沿岸の、すぐ背後に別の勢力がはびこっているのです。
それなのに、4世紀の中頃にやっとこさ景行天皇や日本武尊が来て、しかももっと南の熊襲だけを征伐し、
この辺はのんびり巡幸しているのです。


もうひとつ、古代の豊トヨの国にあたる福岡県行橋市付近は、景行天皇の行宮があったので、という理由で「京都ミヤコ郡」になったと「日本書紀」にありますが、

安本美典さんは邪馬台国2代目台与の都だったのでは?という見方をされています。
実際、この地域はかつて豊前国の中心地で、国府跡がみやこ町(旧豊津町)で発見されているので、此処こそ「トヨの国」と言えます。

夏羽の本拠夏吉は、そこから内陸に入っていますが、北東にある香春カワラ岳の西側の裾野が京都郡です。
香春岳は古代、銅を産して、東大寺大仏などにも使われたようですが、
青銅の祭祀を行った弥生時代には、重要な鉱山であった可能性があります。

しかも香春神社には豊比咩トヨヒメ命が
祀られています。ここの神様は
辛国息長大目カラクニオキナガオオメ命、
忍骨命、
豊比咩命 で、

正史の「三代実録」には、辛国息長大目命と豊比咩命は同体とされ、
かつては宇佐神宮を押さえて、豊前国一之宮でした。たいへん社格が高いのです。

神夏磯媛は夏羽の滅亡を伝える若八幡神社の地主神です。もともとここの地を治めた神ということです。

彼女は台与の亡きあと、邪馬台国連合の衰退を見ながら、香春岳を守っていたのかも知れませんね。

邪馬台国の葬制や祭祀を受け継ぐ三輪王権には
天皇と別に、豊鍬トヨスキ入姫と豊城トヨキ入彦、倭姫と倭彦のように祭祀と軍事を司る同母のペアがいました。

羽白熊鷲と田油津媛、夏羽もそのような関係ではないでしょうか?

伝承に惹かれて、少し想像の過ぎたところもあるかも知れませんが、
で、これに久住猛雄さんたちの考古学の成果を合わせると、

この時代に大和朝廷が北部九州を初めて手にして、半島との貿易を始めることになった。
その手助けをしたのが宗像ムナカタ氏で、沖ノ島の祭祀が始まる。
こういったことが見えてくるように思います。


邪馬台国の問題は、考古学の成果を比べても、大和と九州の優劣がたいへんつけにくいのです。(まだ何が出るかも分かりませんし)

ただ3世紀は博多湾貿易で北部九州と山陰が交易の担い手で、4世紀後半から大和朝廷が主導権を握るという九州考古学の成果は、「日本書紀」の内容と矛盾しません。

確かに「日本書紀」の内容は、史実とするにはあまりにもファンタジックで、神話的です。
わたしは皇国史観の立場ではないので、「日本書紀」を鵜呑みにすることはできませんがかといって、頭から無視するのもどうかと思います。


さて、年次はしばらく飛ぶのですが、「日本書紀」には次のような記事が載っています。(原文)

卅九年(239)、是年也、太歲己未。魏志云 明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。
(訳:魏志によると明帝の景初3年6月、倭の女王は大夫の難升米等を郡(帯方郡)に遣わし天子への朝獻を求め、太守の劉夏は吏將をつけて都に送った)Wikipediaより、以下訳文も同じ

ええ⁉️これこそよく見る「魏志倭人伝」ですよね?

「神功皇后紀」では、神功皇后が卑弥呼ということになっているのです。

「神功皇后紀」には他に百済の王様も出てきて外交がとても賑やかになるのですが、「日本書紀」を編纂した当時の学者さんは、できるだけ外国の史書と日本の史書を一致させようとしました。
(今では当たり前のようですが、当時の史書としては珍しい態度らしいです。)

それでめちゃめちゃ悩んだのでしょうねー(^^;)
伝説的なオオタラシヒメを女帝扱いにして※(注)、倭の女王として扱ったのです。

※(注)神功皇后は摂政という建前になっていますが、死ぬまで摂政であり続け、死んだときは、子供の応神天皇は70歳でした(○_○)明治までは神功皇后を天皇とする史書もあって、死ぬまで政治を行った点でも、女帝だったと思われます。


卌年(240)。魏志云 正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭国也。
(訳:魏志によると正始元年、建中校尉の梯儁らを遺わして倭國に詔書・印綬を与えた)

卌三年(243)。魏志云 正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。
(訳:魏志によると正始4年、倭王はまた大夫の伊聲耆・掖邪狗たち8人を遣わして朝貢した)

六十六年(266)。是年、晉武帝泰初二年。晉起居注云 武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢獻。
(訳:この年は晋の武帝の泰初(泰始の誤り)2年である。晋の起居注という記録によると泰初2年10月に倭の女王が使者を送り通訳を重ねて朝貢した)


ところが土器や古墳の編年が進むと、神功皇后は4世紀の人物になるのですが、
当時も神功皇后が4世紀の人ということは認識されていたらしく、

半島に倭人が攻めていったのは、北朝鮮に残っている「好太王碑」でも4世紀ですし、百済との外交で出てくるのも4世紀の王様らしいのです。

そこで「日本書紀」の編者は、当時の記録が干支カンシ=えとで書かれているのをいいことに、120年(2回りぶん)繰り上げたのだといわれています。

しかも最後の66年の記事は、卑弥呼の死後で、台与の時代の遣使なのですが( ̄▽ ̄;)

ただね、「日本書紀」の記事はとても真面目に書かれているのです(*´・ω・`)b

これを書いた学者さんは、「魏志倭人伝」を知って、無視する事ができなかったのですね。

「日本書紀」を嘘八百だと切り捨てるのは簡単ですが、嘘のような伝承と事実と、そして政府の方針の間で、学者さんたちが苦労しながら書いている様子が見えるので、「日本書紀」は愛おしいなと思っているのです。

邪馬台国大和説だと、神武東遷も九州征討もなかったことですよね。

それでは「日本書紀」の編者たちに失礼な気がして、どうも九州説に傾いてしまうのかもしれません( ̄∇ ̄*)ゞ

さて、これで邪馬台国が片付いたので( ノ^ω^)ノ
これからはどんどん進みましょう。

次回もぜひご訪問くださいませ。