LEDサインメーカーの域を超えろ!快適創造プロデューサー高倉博のブログ -239ページ目

レガーロのアパレル時代

「レガーロ」とは、イタリア語で「贈り物」の意味です。
綴りは、ご覧の通り「REGALO」。


この社名でTシャツ加工業としてスタートしました。
1998年のことでした。


いわゆる「109ブランド」であるBEAMSやSHIPSのTシャツを作り、次第に勢いに乗っていきました。


20代の終わりから30にかけての頃で、僕自身が109ブランドを楽しんでいました。

こうしたらかっこいい、こういうのがあったらかわいいんじゃないか、とアイデアやデザインも現場での打ち合わせでどんどん生まれてきたのです。


そこへ、浜崎あゆみのオリジナル・ブランド「マテリアル・ガール」の仕事が入ってきました。

彼女の絶頂期の3年間、このブランドとコンサートのTシャツはレガーロが手がけました。
僕もこの時期、Tシャツ加工業者として、トップまでいけたと思います。



そして、僕は32歳になりました。
なんとなく、109ブランドに興味がわかなくなっている自分に気がつきました。


109ブランド世代は15歳から20歳くらいまでです。
きょう、あした、のサイクルで、かっこいいと思うものが移っていきます。


そのとんがった現場を楽しんでいた僕の感性や体が、いつの間にかシンプルでオーソドックスなものを求めるようになっていたのです。

年齢や人生の経験がうながす自然な変化ですね。


僕より年上の先輩業者を見ると、若作りしていて、格好も言動もどこか苦しそう。


対象への興味、わくわくした楽しさがないと、テクニックだけで仕事をすることになります。
僕にはそれはできないと思いました。

先輩との創業から独立まで

25歳の僕。
父の会社を辞めて、取引先の先輩と二人で、Tシャツの加工業を始めました。


先輩は、当初、僕が2000万円売り上げたら特別賞与を出すといってくれました。
その言葉を励みに、営業をし、どんどん自分の顧客を開拓していったのです。


目標の2000万円を達成したとき、先輩から賞与は出ませんでした。
それでもがんばって、倍の4000万円に達したのですが、やはり賞与はなかったんです。


僕は、高い額のボーナスを期待していたわけではありませんでした。
先輩の要求水準を超える実績を上げて、経営に参画したかったのです。


年末に、僕は先輩に話をしたい、と切り出しました。
来年の年俸を決めるため、1日だけ、お金の話をさせてください、
お金のことを根に持たずに、すっきりと新しい年を迎えたいからと。


しかし、話し合いは不調に終わりました。
先輩には、僕を経営に参画させる気持ちがないこともわかりました。


2年間、仕事を学ばせてくれた先輩への感謝をもって、僕は独立することを決めました。


そして「レガーロ」を自ら創業したのでした。
僕は28歳になっていました。


LEDの「レガーロ」になってからのご縁の方には意外に思われるかも知れませんが、このような経緯で、レガーロはTシャツ加工業として始まったのです。

青春前期後期、そして巣立ち

さて、つくばエキスポで、ハガキを書いた後の僕は、どうなっていったでしょうか。


中3のとき、突如として日大三高に入りたい、と燃えはじめ、しゃかりきになって受験勉強をして、見事合格しました。


しかし、入ってからは部活のバレーボールに打ち込みすぎてしまい、日大への推薦は取れず、ビジネス系の専門学校に進みました。


ここで簿記や販売の基礎を学び、卒業後、父の会社に就職。
社内で、父の公の顔を見るのは照れくさいものでした。


それに、同僚や上司も「専務の息子」としてしか僕を見てくれません。
「専務の息子」と書いてある楯が四方八方から迫り、僕を閉じ込めようとしているように感じられました。


そのプレッシャーをなんとかはね返そうと反発し、結果を出してやる、と心で叫んで、じっさい結果を出しました。
社内でいちばんの数字を挙げたのです。
いま振り返っても、努力は十分していたと思います。


しかし、5年経ったとき、このなかにいたんじゃだめだ、と落ち込みました。
このままでは、親父のすねをかじって終わってしまう、と。
すっかり自信をなくした感じでした。
会社を辞めたい、自分でなにかしたい、と思うようになりました。


そんなときです。
取引先の先輩が、Tシャツの加工業を始めたくて若い子を探しているんだけど、誰かいない?と僕に聞いてきたのです。


僕でどうですか、と聞き返すと、先輩は驚きました。
ここを辞めてうちへくるっていうのかい、本気か、と。


本気です、と答えて会社を辞め、二人で創業しました。
そのとき僕は25歳。
父の元を離れて、独立独歩のはじめの一歩を踏み出したのでした。