幸せな顔をした人のいない競馬場 -7ページ目

幸せな顔をした人のいない競馬場

~でもあなたはしあわせでありますように~

王様ゲームの本質は王様はさびしいから云々というところでかなりひいた。

人間に関する洞察がまるでなし。

それでもいいんだろうけど、満足度は低い。
現在事務所には所長と僕ともうひとり弁理士がいる。

そのもうひとりの弁理士が退職することになった(驚いた)。

ここではAとしておこう。

上に気に入られて評価され給料も多くもらっている、という人はけっこう存在するはずで、Aもそうだ(所長の子供と出身校が同じ)。

Aの実力でほかにいっても今みたいな給料はもらえまいに、退職金(気に入られているためかどうやらそこそこもらえるらしい)と事務所の存続年数を秤の一方にのせた模様。

子飼いの所員に手を噛まれても、

「彼にもいろいろ事情があるから」

という所長だが、ま、いい。

事務所的には、これでかなり身軽になったはず。

事務所はそんなに長く続かないだろうが(それでもAがいなくなることで寿命はのびると思う。ちなみに所長は僕に、もちこたえるようにすると言ってた。)、そして所長になにかあったら僕が事務所の仕事をかかえこまなくてはならない、というリスクを背負うことになったが、その一方で、たとえば事務所が閉鎖される場合、今の最大のクライアントは僕が引き継ぐことになる可能性が高い。

独立も視野に入れてこれからのこと(もちろん何年先になるかわからないし、今後どう転ぶかも知れないが)を考えることになりそう。

去年の今頃は、事務所がこんなにほころぶなんて誰も思ってはいなかったろう。

なにが起こるかわからないね。

もちろんこの先僕自身になにが起きるかだってわからない。

不確定な未来に、継続幻想を抱きながら備える。

これがアリさんの生き方。

不確定な未来に継続幻想を抱きながら、現在の快楽をむさぼる。

これがキリギリスさんの生き方。

僕は、人生という虚無の中に、そのどちらでもない姿勢で立っていたい。
井上陽水の『九段』で一番印象に残った曲は「ビルの最上階」です。

歌詞を口ずさむ歌で、この楽曲におけるメロディは重要性はあまり高くないと思います(怒られそうだが…)。

15階建てのビルの14階から下に、各フロアの人間模様を歌っていくのですが、最後は15階に戻るはずで、それが包括的な主張になるんだろーなー、と考えながら聴くことになります。

「15階だてのビルの最上階は今もなおミステリー
誰が住んでいるのか何をしているのか知る人はいない
楽観的に見ても悲観的にも
不可解な空白が青空に浮かんだまま」

井上陽水らしいと思うとともに、うまいなぁ、と舌を巻きました。
『三谷幸喜のありふれた生活』の続きが『怒涛の厄年』です。

2001年9月から2002年12月までの連載がまとめられたエッセイ集。

『三谷幸喜のありふれた生活』の中で三谷さんは、エッセイみたいな文章を書くのは素人、という趣旨を記していて、確かにそう感じられるところもあったのですが、『怒涛の厄年』ではそういうところは一切感じさせません。

さすが、です。

このエッセイ集でも、「妻」に対する愛情が一番印象深いのですが、、、この後の思いは『三谷幸喜のありふれた生活』を読み終えたときと同じです。

本とはまったく関係のないことなんですが、、、

Sunkist のシトラスバーストのタブレットを食べた後、ミネラルウォーターを飲むと、不二家のレモンスカッシュと似た味がするんだよ、と言ったとき、シトラスとレモンなんだから違うに決まってるだろ? と返す人がいたとしますね(架空の話です)、僕はこういう人が駄目なんですよ。

「似た」といっていて「同じ」といってないんだから「違う」というのは基本的に否定の理由にならないんですけど、それ以前に、こういう人は頭も心も、構造ががさつなんじゃないか、と思って距離をおいてしまうんですね。

よく見かけるところでは、女の人が不快の表現として「信じられな~~~い」と口にしますが、あれについても同様です。

さて、僕は今日井上陽水のCDと一緒に本を一冊借りてきたんですが、その本は『怒涛の厄年』で「妻」が、三谷さんの薦めで読んだと紹介されていた本なんですよぉ。

僕が読んでいるこの一行を小林聡美さんも読んだんだぁぁぁ、と(そりゃそうでしょ、読んだと紹介された本を借りたんだから…。)ちょっと感激しながら読んでます。(こんなこと初めてです。)

読み終えたら、感想書きます。
二三日前に、

日が短くなったな~、

と思った。

今日は夕食のために学校にいった。

ちかごろ昼を学校で食べることが多い、と少し前の記事に書いたが、今日は夕食だ。

中央食堂は21時まで営業している。

僕がいたころはこんなに遅くまでやってなかったと記憶するが。

雰囲気は昔とまったく同じだ。

時は移っても全体としての人間はかわらないらしい。

苦手な時間と場所ってある。

少なくともブルーになる時間と場所ってのはある。

僕にとっては、このキャンパス、日が落ちて間もない時刻、または、17時にもならないのに空がまっくらな季節。

まだ8月だから18時台の空はうっすらと明るい。

木と、レンガづくりの建物の直方体の輪郭が、その薄明るい空を画する。

この眺めが駄目なんだ。

本気になれるものがなくて、胸の中にどうしようもない空白を抱えて、両手で体をささえ地面に向かって叫び続けていた(あくまでイメージ)頃を思い出す。

でも、今だってそうだ。

本気になれなくて、心の空白をもてあましている。

ぜーーーーーんぜん、進歩してない。

ま、組織の中で圧迫されて精神がひずんだサラリーマンになってない、ということで、幸せっちゃあ幸せなんですが。(仕事は、順調です。)

今日中央食堂で食べたC定食(520円)は、エビカツチリソース、えーと、あれなんだっけ、大根のなんといったっけ、と、豚汁、ライス、それから僕はそれをもずくだと思ってC定食に決めたというのに、もずくではなくて、コーヒーゼリーだったよ。

カウンターの中のおばちゃんに言われて、はじめて知った。

井上陽水の声が聴きたくなって、学校の近くの天神図書室でCDを借りてきた。

湯島天神の社殿の、もう閉まった扉に頭を下げてきた。
ステレオポニーのアルバム『ハイド.ランジアが咲いている』を聴いたんだけど、なんかこのグループの歌って可愛いんだよね。

はじまる前にはなにを喋ろうかと悩み、終わった後にはなんであんなこと喋ったんだと悔やむのがスピーチだとすれば、このアルバムはつくられる前からある程度の形を備え、つくられた後は意図しなかった効果さえ含んでしまった、そんな幸せな姿に見える(当事者にとってはぜんぜんそんなことはないんだろうけど)。

『幸せの丘で暮らしたい』という曲に、

子供のころに描いていた理想は小さな丘の上で暮らすこと
小鳥のさえずりを聴いて眠っていたいけど・・・

という歌詞がある。

僕はたとえば大都市の巨大な集合住宅に生まれなかったことを幸せに思っているし、昨夏のブログ記事にも書いたが、穏やかで、でももちろんそれだけであるはずはない、自然の中で育ったことを最上級の幸運だと考えているけど、小さな丘の上の家よりも、巨大な集合住宅の一室の方が、一人でいられる場合だってあるし、現在の僕は、どっちかというとそんな生活を望んでいる(しかし隠居するのなら海のそばだ(笑))。

『ハイド.ランジアが咲いている』は、そんな他愛もない連想がつぎつぎとわいてくる、やっぱり幸せなアルバムです。

それから、



と思われるかもしれないんだけど、僕はステレオポニーは吉田拓郎と似てると感じるんだよね。

まっすぐさ、とか、かっこいいのにどこか垢抜けないところ(芋くささではなくて)、とか、それ、ちょっとちがうだろ? とつっこみたくなるところとか。

時代の違いとか、男と女の違いとか、そういったものを捨象すると、同じ方向に歩いてる気がするなぁ。

(誰の賛同も得られそうにない感想だ…。)
『戦国武将の死亡診断書』は、戦国武将の死因を現代医学の知識をつかって解き明かそう、という書物です。

加藤清正
結城秀康
黒田如水
前田利長
浅野幸長

さてこの5人、『戦国武将の死亡診断書』によるとどんな死因が疑われているでしょう?

歴史に登場したのは15世紀、日本にも短期間のうちにもたらされた当時最新(?)のビョーキなんですが、、、

黒田如水の死因がこれって、、、

意外でした。

梅毒

です。

加藤清正、結城秀康、浅野幸長あたりはイメージ通りなんですがね。


『1973年のピンボール』ってどんな小説?

と聞かれたら、説明するのはかなり難しい。

村上春樹の小説はメタファーが多用されている、とは聞いたことがあり、この本も含め僕は村上春樹の小説は3冊しか読んでないけど、そうみたいだ、とは思う。

僕は昔から文学における象徴主義がキライで、だから村上春樹の作風はあまり好みではないけど、象徴主義よりははるかに好きだ。

『風の歌を聴け』の感想に、僕は、読んでも読まなくてもいい小説だと思った、人生が生きても生きなくてもいいのと同じ意味で、と記したが、それはこの本にもあてはまる。

「ただそれだけのことだ。」

と村上春樹は(僕が読んだ範囲で)よく書く。

そして僕は、小説の中で使用されるこの物言いが好きではない。

「それだけのこと」なら、書く必要なんてないのだから。

パルコ劇場でコメディの舞台を観終えた客が、渋谷駅につく頃には、おかしかった、という記憶だけで、ストーリーを思い出せない、そんな喜劇を書きたい、と三谷幸喜が言っていたが、それ風に表現すると、『1973年のピンボール』は、読み終えた後、ゴミ出しから戻ったときには、なんとなくこんな気分が表現されていた、という記憶だけが残り、登場人物の言動をすっかり忘れている小説だ。

村上春樹は、たぶんそんな小説を書きたいと思い、そして成功している。

少年のときに抱いた妄想にストーリーをつけて映像化した作品。

少なからぬ少年向け人気アニメはこういってもいいと思います。

『イヴの時間』もしかり。

精神年齢の高い女の人がでてきて少年が成長するとか、ある考えを否定する人間が、実は昔その考えをもっていたゆえに傷ついてその考えを捨てた、とか(愛ゆえに愛を捨てた男、サウザー、みたいな(笑))、そういうモチーフや手法も変わりなし。

でもそれはそれでいいと思うんですよね。

実際、『イヴの時間』を観て感動したし。

そこにいてよかった、と思える場所が、世間一般の大人にどれくらいあるか?

でも少年は、心の中に、そんな場所を、容易に想像することができる。

少年という存在の、馬鹿で、偉いところだと思います。
おもしろかった。

想像してたのよりはるかにおもしろかった。

この映画を観たいと思ったきっかけについても書く気だったけど、あまりのおもしろさに、いろいろ書く気がなくなった。

おもしろすぎ、超おすすめ。

遊女がおどるシーンもとてもよかった。