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幸せな顔をした人のいない競馬場

~でもあなたはしあわせでありますように~

今朝からプリンター君の調子がよろしくなく、ディスプレイに「オペレーターエラー」と表示されるだけで、印刷しようとしてもぜんぜん動いてくれなかったんですよ (ノ_-。)

リセットボタンを押しても電源を切っても回復の兆しはなく、困った末、クリーニングをしてその確認をすれば、印刷の仕方を思い出してくれるのではないか、と考え、実行したら、一度めは印刷に入ろうとしてくれて、やったーーーーっ、と歓喜していたら、やっぱり途中で「オペレーターエラー」になってしまい、しかしこれは復活間近じゃん、ともう一度クリーニング→確認を行ったら、

動いた~~~~ キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!

文書の印刷もうまくいって一安心 o(^▽^)o

パソコンとその周辺機器は、不調が僕の生活に露骨にひびくんだよねー。

パソコンについてもこれまでなんどもWindowsが起動しなくなる不具合に見舞われたけど、Go Back で時間を戻してしのいできたんですよ。

だから個人的にGo Back はオススメです。

ところで、かなり恥ずかしい話ですが、ちかごろなんとなく腹がでてきたみたいで (゚_゚i)

腹筋とかしても効果なし。

それで昨日はじめて、中澤裕子さん(それにしても、彼女、なんで急にこんなにふけたの?)が宣伝しているDHCのプロテイン ダイエットを試してみたわけですよ。

そしたらさぁ、なんで一日だけなのに、腹の体積が小さくなる?

僕はまじ驚いた、と同時にびびった。

飲み続けていいんでしょうか、これ。
かんづめのヤングコーンしか見たことなかったのだ。

が今日、生のヤングコーンをいただいたのである。

高いものではなくて9本200円なんだそうだ。

で、皮、というのか? をむいてみたら、

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うぉぉぉ!

食べるところ少ないとは聞いてたけど。

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これだけ取り出すのに、

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皮が山盛り。

塩茹でにして、バジル&チーズのドレッシングで食べてみたら、、、

ふっくらした食感でとてもおいしい。

くさみもない。

コーンのかおりがする(あたりまえか)。

かんづめのコーンと塩茹でしたコーンの味の関係に似てると思った。

ぜいたくを味わった気分 (=⌒▽⌒=)
金王八幡宮はWINS渋谷のすぐ近くだ。

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由緒ある神社で御鎮座920年らしい。

渋谷金王丸常光は後の土佐坊昌俊で、源義朝、頼朝に仕えた武将。

17歳のとき保元の乱に出陣する際、自ら彫り、形見として母に残した木像が保存されているそう。

ビルを背にして建つ神社、僕は好きです。

今日はじめてゆく美容外科が渋谷にあるのだ。

それで久しぶりに渋谷をあちこち歩き回った。

美容外科ではまたもレーザー脱毛。

そんなにレーザーあてるの好きか?

と思う方もいらっしゃるでしょうが、1回あててすべて脱毛できるわけではないので、けっこう時間がかかるわけですよ。

お洒落は我慢、美容は忍耐、それは男とて同じなのでございます。

今、浮舟の弟は、顔の脱毛をしてるわけですが、べつにそんなことしなくたっていいんじゃない? と思う人も少なくないと思います。

なんで脱毛するかというと、まず僕は自分のためにお金を使うタイプなんですね。

自分のための時間もお金で買うものだと思ってるし。

つぎに顔がきれいになるじゃないですか、文句なく。

芸能人は脱毛してるじゃん、脱毛すれば見てくれがよくなるってことですよ。

人の価値は外見で決まるものではありません、それに僕は、内面はわかりにくく、人は人を外見で判断する、だから脱毛する、というわけでもありません。

僕は外見をみがく何倍も頭の中や心の修養はしています。

ぜんぜん満足していないけど、相対的に自信がないといえば、これははっきりと嘘になります。

だから少しは外面にもカネを使うか、という発想なのです。

あとはね、父の死顔にね、のびたひげが数本あったんですよ。

あれ、死後にのびるってこと、あるんじゃないかな?

父の死顔はきれいでした、ひげも見苦しいものではありませんでした、ただ僕は、父の死顔で一番印象に残っているのがひげで、そこにやりきれない哀しみを感じたんですよ。

それで僕は、僕がいつどういう死に方をするかわからないけど、もし病死したりして顔が残るんだったら、僕の縁者に、僕が父の顔に感じた哀しみを、味あわせたくなくてね、で、なんかヘンな気もするけどレーザー脱毛なんです(笑)。

死に様や死顔は生き様のひとつだと、僕は思います。

ところで、今日の施術者にも言われたけど、僕にレーザーをあてる人は決まって、痛みに強いですね、と言います。

今日は、

大丈夫ですよね? あんまり普通にしてるんで悶絶しているのかと…。

と言われました。

痛みにたえられず、ちょっと休ませてください、という人もけっこういるそうです。

僕は子供の頃から我慢強いんです、我慢しすぎて身体に問題が起きたこともあるんですが。

多分身体の痛みにも心の痛みにも強い方だと思います。

今日の渋谷はなかなか暑かったです。

人も多かったですが、GWのせいか普段の休日よりは少なかったように思います。

僕が10代の最後を遊んですごしたこの街は、あの頃より僕にとって騒がしい街ではありません。

坂が多くて、いい街です。
アメ横の東京靴流通センターで、この時期に? と思われるかもしれないがブーツ(レインブーツではない。)を買った後、上野駅を素通りして入谷、鶯谷方面を歩いた。

細い道、知らない道を選んで、だからどこに行くかわからなかったんだけど、途中鬼子母神に頭をさげ、根岸の表示を目にしたから、駅でいうと、入谷を通って鶯谷に向かったことになるのだ。

その先も分かれたら細い道、という方針でふらふらしていたら、竜泉に着いてしまった。

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満開のつつじが、一般のお宅の玄関脇に咲いていた。

こんなお金の使い方、いいな、と思った。

目的や義務を離れ、地図をもたずに歩くのは、すばらしい。

今という時間、この場所という空間(位置)と、自分とが、分かちがたく結びついていることがよくわかる。今、ここを離れて、自分が存在しないことがよくわかる。

時間が空間と結びついている、というアインシュタインの思考は、その点だけにしぼれば、哲学的に当然のことではあるのだ。

しかし僕は時間というものが不思議でならない。

一葉記念館に寄った。

人は生きて死ぬ、ということをあらためて、強く感じた。

女として生を受けたひとりの人間の、足跡と思いを、見せてもらった。

胸にあついものがこみあげてきた。

とてもいい施設だったが、残念だったのは、1階に展示されていた人形を製作したらしいおじさんが、入館者相手に説明をしまくっていて、一葉についてのビデオの音声がまるで聞き取れなかったことだ。

一葉の生涯を説明したおよそ15分のビデオ上映の間、ずっと話し続けたのにはさすがに閉口したよ。

『たけくらべ』を思い出したから、一葉記念館を出た後は、意図的に吉原に向かった。

僕は手に東京靴流通センターの派手なオレンジ色のビニール袋をさげている。

だから呼び込みに声をかけられることはないかな、と思っていたが、

2万5000円で遊んでいただけますが。

とか、

写真だけでもご覧になりませんか?

とビシバシ声をかけられた。

デニムに黒っぽいジャケットだったから、オレンジ色のビニール袋をもっていても、遊びにきた、と思われたのかもしれない。

実際、正午をすぎたくらいの時間だったのに、店に入る人をけっこう見た。

それにしても写真だけ見て帰る人いるのかな?

浅草で買い物をした。

浅草寺の近くで、江戸糸あやつり人形のパフォーマンスをやっていた。

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生き物は心をもっている。

昨日、オルフェーヴルが走らなかったのも、彼に心があるためだ。

いとおしいね。

なお、僕がいとおしいなどと書くのは、オルフェーヴルが馬券にからまなかったため、トーセンジョーダンの複勝が400円もついたからではないです(笑)。

パドックでは、オルフェーヴル、あれ? という感じだったし、ウインバリアシオンもよく見えなかったけど、トーセンジョーダンは◎だったからね。

いいな、と思ってモニターを確認したら、ちょうどトーセンジョーダンのオッズが下がり、ウインバリアシオンのオッズが高くなったところだった。

パドック見て誰かカネ入れたかな?

と思ったよ。

記憶に新しいところでは去年の安田記念、パドック◎のスマイルジャックの複勝がすごい勢いで売れたよね。

GⅠで短時間にあんなにオッズが動いた例を、僕はほかに知らないな。

書き忘れるところだった。

たけのこご飯に、少し刺激がほしい、と思ったとき、梅塩はいいね、すごくあう。
G.W.初日の今日、ちょっと浅草に寄ったら、WINSで、おばさんがスキンヘッドおじさんに、

おかえりなさい、

と声をかけていた。

オフホワイトの僧衣みたいなのを着た推定64歳2ヶ月のおじさんはなにも返さなかったが、見ると、手に馬券が握られていた。

枠連1点で勝負していた。

リハビリにしても少額だったのが残念。

明日の天皇賞は、普通に走ればオルフェーヴルでどうにもならない、とほとんどの人が思ってる、その通りになるのではないだろうか。

相手は、、、個人的には、オルフェーヴルといえば、、、ウインバリアシオンかな。

でもこれでは1人気と2人気だな。
まー、国民の多くは黒だと思ってるはずで。

でも小沢氏の無罪判決は、裁判に対する国民の信頼を維持するものだと思う。

当たり前だが、刑事裁判は、guilty or not guilty でなければならず、決して innocent or not innocent であってはならない。

灰色が黒にされる国は、白が黒とされてしまう国にほかならない。

今回の裁判はきちんとしたものだったと僕は思う。
「浮舟の弟センセイの原稿は本当に修正するところがないんですよ」

と有力発明者さんに言ってもらえ、知財室の管理をしている方からも、

「浮舟の弟センセイは知財室でも・・」

と評価してもらえるのはうれしい。

僕はしばらくこの会社さんの担当をはずれ他社さんの仕事をしていたのだが、今年に入ってまたこの会社さんの仕事を集中的にやるようになった。

それから何ヶ月もたたないうちに認めてもらえたのは、サラリーマンとしてはやっぱりありがたいのだ。

弁理士としての仕事は僕にとって、どんなときでも精神を流れる時間の中心ではない。

それは今後、引退するまでかわらないだろう。

他人の発明を文章化することが、僕の精神時間の中心になりうるはずはないのだ。

そういう意味では申し訳ないのだが、だからといって僕は仕事をないがしろにしているわけではなく、間に合わない可能性があると感じればはやいうちから休日に出るし、忙しいときには電車の中でも、食事をしながらも、シャワーを浴びながらも請求項を考える。

僕は仕事に対してはまじめなのだ。

ただ、たとえば自分の頭が最も働く時間は間毎日必ず自分自身のために使う、というような生活を維持させてはもらっている。

年度末の出願ラッシュが終わった後、今日は二度めの打ち合わせ。

件数こそ少ないが、というか、そのためもあり、今日も濃密な打ち合わせができたと思う。

打ち合わせの帰りには、昨日おいしさに感動したこごめ大福を買いに行った。

昨日食べたのはよもぎ入りの緑色の大福だったが、今日はよもぎの入っていない白色のこごめ大福もあわせて買ってきた。

他人の評価は、それがよいものであれば、ありがたく受け取っておけばいいと思う。

悪いものであっても、気に病むことはないとも思う。

僕は事務所に時期的に新しく入って、さっさと資格をとったり、残業をしなかったりしたから、ずいぶん悪い評価もされた。

明細書が下手だと言われたこともあったが、馬鹿か、お前、自分の明細書がどれほどうまいと思ってるんだ? と、腹の中では上司に対してあきれていた。

他人を正しく評価するには、評価する能力が必要なんだぜ、と、なんでそんな当たり前のことを忘れて恥ずかしくもなくそんな口がきけるんだ? と思ったこともあった。

ただ上司の評価とは関係のないところで、僕は自分の仕事のだめなところを自覚していたし、内容こそ違え、自分の至らなさの自覚は、現在でもずっと続いている。

きっと上司が言った中には、正しいことも少なからずあったのだろう。

仕事上至らない箇所は、少しずつ、なんといっても僕の精神時間の中心を占める事柄ではないのだから、少しずつ、修正してはいるつもりだ。

課題は尽きないが、課題を尽きさせることを目指して努力することでもないかな、と傲慢にも思っている。

会社での評価、というものを、無視できるサラリーマンは少ないと思う。

ただね、いびつな空間ではいびつな評価しかされないよ。

黒を白とする場所で、白が黒とされないはずもないよ。

だから、わが道を行けばいいんだ、と、僕はそう思うんだ。

意固地に突き進むのではなく、柔軟に、軽やかに、わが道を歩け。

神さまはあなたの道を照らしてはくれない、なぜなんだ、と不満を漏らすくらいなら、うまいものを食って寝ろ。

明日がいい日である可能性は低い、だって人生心地よいことより不快なことがはるかに多いんだから。

安易な慰めを自分に与えるくらいなら、自分を傷つけてでも力をつけろ。

自分が認められる自分であれば、他人の評価は、どーだっていいんだよ。

だろ?

自分で認められるお前になったら、俺が五つ星の評価をしてやる、でもそのときは俺の評価もどーでもよくなってるんだ、すばらしいじゃないか。
今日は僕にとって決して明るいニュースばかりの一日ではなかったんだけど、そのかわり、なのか、神さまは、僕にお気に入りを二つも与えてくれた。

一つめは「こごめ大福」。

はじめて食べたけど、これは今まで食べた最もおいしい大福だった。

僕は大福という菓子があまり好きではなかったんだが、これはまじうまい。

よもぎの香る餅に上品な餡が包まれていて、驚きのおいしさだった。

江戸の名残を伝える銘菓らしい。

これを食うために明日も生きよう、と思えるおいしさだわ。

二つめは「ステレオポニー」。

昨秋、ステレオポニーの泪のムコウって曲、いいかも、というメールをもらっていて、ふぅん、じゃあ、そのうち聴いてみるか、と思い、半年以上経った今日聴いたわけだが、曲もいいけど、ステレオポニーって、かわいくてかっこよくて、好みだ。

SCANDALのドラマーも好みだが、全体として、僕はSCANDALよりステレオポニーだな。

ステレオポニーのボーカルは僕の従妹に僕の鼻をくっつけて若くしたらこうなる、という顔立ちで、親近感もある。

彼女たちの歌を聴いてると元気がでるよ。

神さま、ありがとう ヾ(@°▽°@)ノ
今日は浅草を歩きたくなって仕事後ひさしぶりに訪れた。

雷門から入りたい、そんな気分。

心に隙間があるのかな?

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仲見世を進んでゆく途中で、急に斜行するおじさんが…。

他人に迷惑をかけてないので失格でも降着でもない。

ただ僕のケータイカメラの視界に入ってきたので後姿がブログにアップされることになった。

$幸せな顔をした人のいない競馬場

明日は泣き相撲が行われるらしい。

混むだろうな。

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浅草寺。

美しい。

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ぼくはこういう場所では、自分のことも家族のことも祈らない。

むかしはそうでもなかったんだが。

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五重塔、桜も終わりだ。

・・・

この街の自由な雰囲気は相変わらずで、デカ目プリクラで撮影するおじいさんや、猫耳をつけているホームレスのおばあさん(←これは自由とはちょっと違うものかもね…)がいて、変な人も多い。

浅草では、

日本的でないものも多いのになんとなく日本的になってしまい、

新しいものも多いのになんとなく古く感じられ、

庶民的でないものも多いのになんとなく庶民的に思えてしまう。

おかしな絵も多いし、おかしな名前の店も多いのに、おかしさがそのまま受け入れられて違和感がない。

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(おかしな絵の一例:花やしきの看板)

自由な感じがするのはなぜだろう?

多数派が存在しないことは理由のひとつではないか、と思った。

日本人、外国人問わず観光客の多い街だから、我が物顔で群れている連中は他の街にくらべて少ないと思う。

もっとも人間はどの街にいても人間で、僕はあまり好きではないんだけど。

目立つ多数派が存在しないためか、民主主義的な雰囲気もある。

多数決で意思決定をするのが民主主義なんだから、多数派の存在しない民主主義ってのは、ちょっとヘンではあるんだが。

僕はいい気分になって、浅草を後にした。

ありがと。元気がでた ヾ(@^▽^@)ノ
前々回の記事で、辻邦生の小説にある、人生は虚無の中に立つ力業、という表現について書いたけど、それから想像される辻邦生の像について、誤解を与えているかもしれないので、補足しておきますね。

僕は辻邦生に会ったことないですけど、彼のファンです。

好きな作家は数多くいるけれど、辻邦生は僕にとって特別の存在です。

1999年7の月、彼が死んだとき、僕はこう思った。

ノストラダムスの予言は、僕にとって一部あたったんだな。

彼の死を伝える翌日の新聞記事の、なんと小さかったことか。

僕は悲しくなるとともに、新聞って馬鹿だな、と思った。

そして小説を書きたい、と思いはじめていた僕は、傲慢にもこんなふうに考えて悲しみもした。

僕の書いた小説を辻邦生に読んでもらうことは、できないんだ…。

うーん、お馬鹿。

辻邦生みたいに頭がよければ、とその後僕はなんどもなんども悩んだよ。

人には才能というものがあり、がんばればなんでもできる、というのは嘘で、自分のもっている才能で、でも僕自身の時間や経験は僕固有のものであって、僕にしか与えられない材料なのだから、そのあたりに希望をもって書いてみるか、と今でも考えてはいるけれど、いやまぁ、辻邦生と比較するのもおこがましいが、才能の、天地ほどの差はどーにもならん。

辻邦生ほど、今、地上に生きていることの歓喜について、折に触れ書いている作家を僕は知らない。

そしてそれが心から共感できるものなんだ。

理性的で、特定の宗教の色に染まらず、この人の文章に触れていると、知性と感情はこんなに近い位置にあるのか、と驚かされる。

辻邦生は、人生に対する虚無と、今(=永遠に通じている生の瞬間)を生きていることの至福、豊かで美しいものに満ちている地上にいることの感動を、自分の中に、彼らしい高踏的な精神態度で、保持している。

深い心の闇をもちながら、それを微塵も感じさせない明るさがある。

だから、人生を虚無の中に立つ力業といった辻邦生とその作品群を、陰気だとか、深刻だとか、誤解しないでくださいね。

まぁ、なんでもいいから一冊読んでもらえるとわかると思いますが。

この人は、数百年後の世界でも、文学史に燦然と輝いているはずの巨人なんですよ。

現在の評価は不当に低いと僕には思えるけど、未来では、現在より高く、正しく評価されていると思います。

以上、好きな人のことについて書くっていいね(笑)。