前々回の記事で、辻邦生の小説にある、人生は虚無の中に立つ力業、という表現について書いたけど、それから想像される辻邦生の像について、誤解を与えているかもしれないので、補足しておきますね。
僕は辻邦生に会ったことないですけど、彼のファンです。
好きな作家は数多くいるけれど、辻邦生は僕にとって特別の存在です。
1999年7の月、彼が死んだとき、僕はこう思った。
ノストラダムスの予言は、僕にとって一部あたったんだな。
彼の死を伝える翌日の新聞記事の、なんと小さかったことか。
僕は悲しくなるとともに、新聞って馬鹿だな、と思った。
そして小説を書きたい、と思いはじめていた僕は、傲慢にもこんなふうに考えて悲しみもした。
僕の書いた小説を辻邦生に読んでもらうことは、できないんだ…。
うーん、お馬鹿。
辻邦生みたいに頭がよければ、とその後僕はなんどもなんども悩んだよ。
人には才能というものがあり、がんばればなんでもできる、というのは嘘で、自分のもっている才能で、でも僕自身の時間や経験は僕固有のものであって、僕にしか与えられない材料なのだから、そのあたりに希望をもって書いてみるか、と今でも考えてはいるけれど、いやまぁ、辻邦生と比較するのもおこがましいが、才能の、天地ほどの差はどーにもならん。
辻邦生ほど、今、地上に生きていることの歓喜について、折に触れ書いている作家を僕は知らない。
そしてそれが心から共感できるものなんだ。
理性的で、特定の宗教の色に染まらず、この人の文章に触れていると、知性と感情はこんなに近い位置にあるのか、と驚かされる。
辻邦生は、人生に対する虚無と、今(=永遠に通じている生の瞬間)を生きていることの至福、豊かで美しいものに満ちている地上にいることの感動を、自分の中に、彼らしい高踏的な精神態度で、保持している。
深い心の闇をもちながら、それを微塵も感じさせない明るさがある。
だから、人生を虚無の中に立つ力業といった辻邦生とその作品群を、陰気だとか、深刻だとか、誤解しないでくださいね。
まぁ、なんでもいいから一冊読んでもらえるとわかると思いますが。
この人は、数百年後の世界でも、文学史に燦然と輝いているはずの巨人なんですよ。
現在の評価は不当に低いと僕には思えるけど、未来では、現在より高く、正しく評価されていると思います。
以上、好きな人のことについて書くっていいね(笑)。