思っても思っても、命は所詮小さい。
背後を振り返ったら目の前に『コテージの扉があった』。
僕はまた慌てて後ろを振り返るが『太陽が眩しく照らすどこまでも広がる草原』があるだけだった。
動悸が早まる。冷や汗が指先から手に伝わる。
なんだ。なんだこれは。僕はさっきまで公園のそばで彩夏と話していたはず……。
この感覚。どこかに放り出され、そこに閉じ込められるような感覚。
あの駅であったのとまったく同じだ。
つばを飲み込みと周囲を観察する。草原はどこまでも広がっていて、遥か彼方に雄大な山々が頂に雪を擁しているのが見てとれた。草花は風に流れ、その上を蝶が待っている。どこからか野鳥の鳴き声も聞こえてくる。
「ここは……」
どこだ、なんて今更な疑問。今は夜の筈だし、トーラスの外延部頂上にこんな草原地帯があるわけがない。
立体映像? 赤外線シールド? 可視光線偏光? それとも幻覚? でも手じかにあった扉に触ってみると直に触角が伝わってくるし、手を握り締めても痛みがある。
僕は躊躇するように何度かその景色とコテージの間を視線を行き来させ、その扉の取っ手を取り、引いた。軋んだ音とともに扉が開き、薄暗い室内が見える。
なんだか――このコテージの中に入らなければならないようなそんな気持ちに僕は押されていた。
室内全体は一言でいえば乱雑だった。そして絵の具特有が発する油の匂いが鼻につく。
二階はなく、一階のみ。土足専用らしく下駄箱もなし。僕はそのまま警戒しながら進む。
廊下が目の前にあり、途中で左右に二つ。そして突き当たりを抜けると二十畳ぐらいのかなりの広い空間にでた。
床には描き損じたスケッチブックに、クロッキー帳や美術に関する書籍に雑誌、新聞紙など雑多に飛びすぎたものが転がっている。室内にはカンバスを立てるイーゼルが乱立している。だいたい十はあるだろうか。
右には流し台があり、もっと最奥には仮眠用のベッドも見え、中は一見アトリエのようにも見えた。
「おや」
僕は室内の中央まで進んで、その声に足を止めた。澄んだ声で自分の意思を相手によく伝わせるような、だが、どこか幼さが残るような音域だった。どこまでも威圧的で、不器用に優しさがある年相応な彩夏の声とは明らかに違う。
「ここに来るのはもっと後だと思っていたんだけどね」
左手に巨大なイーゼルとカルトンに挟まれた所に大きな窓があり、外からの陽光を緩やかに反射したレースの白いカーテンが儚げに揺れてる。
その窓辺にカンバスに向かって筆を握り、木製の椅子に座っている少女がいた。
白い学制服のような十字架がデザインされたブラウスに胸元をあけて赤いネクタイを緩めている。下はデザインに凝ったフリルのスカートだけど、雰囲気に合っていなくて、だけどでもなんだか似合っているような気がした。
少女は彩夏と同じくらいか、でも二十歳以上かと言われればそうかもしれない。見た目は少女だが年齢が判別出来ない。薄い茶髪を彩夏とは違くポニーテイルにして白い肌の上にある薄墨の瞳を僕に向けていた。
「ようこそ時津彫。私は立花弥生。君の上司みたいなものだ」
*
彼女、立花弥生は半袖のブラウスから伸びる細い腕をしならせて窓辺に立てたイーゼルに載っているカンバスに向かって色を重ねていた。僕は素人だからよくわからないが、彼女はエプロンなど一切していないのでやはり女学生に見える。窓から入る揺れる光が彼女に陰影を作り出していた。
薄い茶髪が窓から入る風に揺れ、カルトンの上に筆を滑らせるそれも揺れる。
少し言葉を交わしただけで立花さん―上司と聞いて呼び捨ては出来ない性格なので―は黙って絵を描いているだけだった。もちろん初めは僕から質問はするつもりだったけれど。
「あの、あなたは誰なんですか?」
そう言うと彼女は薄っすら笑んだ。
「可笑しな事を聞くな。さっき言ったじゃないか。私は、」
「そうじゃなくて。あなたの素性です。あと、その……『これは』あなたの仕業なんでしょう?」
この草原。そこに立つ絵を描くための小屋。異次元のようだ。
「短気だな。いや、疲れているのか。少し落ち着け。元々君がここに来て私と話すこと自体、私が望んでいたことではないんだから。だからまぁ私としては適当に話して君にはさっさと退場して頂きたい」
そう穏やかに言うと、一度、僕をその薄い色素の目を僕に向ける。
「私は、この法化制圧部第五区の客員顧問だ。そしてここは『私が作った世界』だよ。もっと言うと彼らと限りなく同化し、それに成功したものだけが出来る世界。そこに君がインターフィア(干渉)してきた、というわけだ。言ってみれば、まぁ、人の家にまさに、土足で上がられたようなものだ」
そして自分の言った冗談が面白かったのか少し含み笑いをする。
なんなんだこの人。ていうかインターフィア?
「インターって、干渉のことですか? 干渉って……。俺はまだそんな武力を扱うことは出来ませんよ」
「君……可笑しなこと言うな。干渉は彼らとわかりあうために意識を繋ぐ現象であって決して武力ではないぞ」
僕は嘆息して頭を振る。言っていることが理解できない。かみ合っていないわけじゃない。僕の理解が追いついていないだけだ。
「えっと……、その『彼ら』って誰ですか?」
彩夏が教えてくれなかったことを僕はもう一度聞いた。返答してくれるかどうかを除いて。
一瞬、立花さんは人形のような無表情で沈黙してしまった。
立花さんは筆をとめ、僕を何も言わず見つめてきた。そこにはなんの感情も浮かんでいない。
すると美麗な顔を皮肉を言うように歪め、
「彩夏には教えて貰っていないのか?」
僕は少し返答に躊躇したが思ったことをそのままに言う。
「教えて貰ってないですよ。だから聞いているんです。まだ早いとか、俺が優しいから現状分かった上で使ってほしいだの言われて」
「ふーん…………」
なにがふーん、なのか、立花は筆を一旦止め、少し思案するような様子をみせた。
「とすると。なるほどなるほど。そういうことか。この干渉は彩夏の仕業か。武力云々もそういう『勘違い』か。そうか。じゃあ、私は私の役割をしなければな。でも肝心の本人がいないな……。なんだ時津彫、彩夏と痴話喧嘩でもしたか?」
「してませんよ!」
少し当たってるような気もするけど。ここの人って誰でもこうなのか? 説明もなにもしないで勝手に納得して、どんどん先に話を進めていく。僕はいつも置いてきっぱなしだ。
「そうなると……、私は何歳に見える?」
「何歳って……」
薄茶色の綺麗な髪に、整った顔立ち。身長も彩夏ぐらいあるがどこと無くまだ幼さが残る雰囲気。
「二十代前半ぐらいには見えますね」
そう言うと立花さんは物凄く驚いた顔をし、そしてすぐに意地の悪そうな笑顔に変わった。
「そうか、君には『そう見えているようになっている』か。確かにあの頃はまだ若かったな」
「あの、話が見えないんですけど」
ふぅ、と立花さんが一つため息。
「私たちに干渉、まぁ魔技だったかなんだったか呼称は忘れたが、それをしてくるものは特定の人物と繋がる。しかし『それを終えた者』と繋がる時、その人物の人生の一編と出会うことになる」
「人生……」
ああ、と立花さんが筆を揺らす。
「夢、といってもいいかもしれないな。その者がそうであってほしかった夢。まぁつまり君は私の夢の一部を垣間見ているということになる。途方もない話だがな」
「えっと、はい」
終えた者。隠喩をもった言葉に戸惑うがその者の夢のようなものと繋がる、もしくは繋がっている状態といわれてもピンとこない。実際、空気も感じるし、陽光は温かく、この物質も確かに感じるのだから。
もう一度ため息を立花さんはため息を漏らすと「ふむ、話が逸れた」と呟き、
「じゃあ」
そう言って僕に筆を突き刺すように向けた。
「君に、少し話しと、頼みをしよう」
僕は眉を顰め、思わずすぐにでも飛び出せるように両足に力を溜めた。彼女のその仕草だけでかなりの威圧感を感じたからだ。殺意でも敵意でもない。ただの――威嚇。
「そう構えるなよ。私は何もしないし、何も聞かない。さっきも言ったようにさっさと話を終わらせたい」
そう言って立花さんは身体の向きを変え、ずっと加えている箸のような極細の筆をカルトンにかけた紙に滑らせる。青い色がそこに現れ、そしてまた別の色と混ざり合い消えていく。彼女はなにかガラスの細工でも扱うかのような手で真剣に筆を滑らし続ける。
「クリスや蓮杖、そして特に彩夏になにを聞かれたかわからないが、あいつらのいっていることは気にすることでもないさ。人にはそれぞれの個性があるっていうが、それは個性を本人が自覚しているかしていないかで決まる。あいつらはそれを自覚している」
立花さんが首を動かすと、茶髪の長髪に彩光から飛び降りて来た焼けるような夏の日差しが映えた。
「何の話ですか」
「自分が自分を信じられるかってこと、さ」
彼女は最後の一筆だったらしく、僕に顔を向けたままその筆を引いて横にあるパレットに放るように置いてしまった。
「もっとざっくり言って自分のやりたいことしっかり持ってる奴ってことかな。特に時津彫はそのへんが欠落しているっていうか、まぁそんな感じがしたんだよ。欠落しているからこそ、損得考えずに何かに打ち込める姿勢があるのだろう」
僕は嘆息をして塗りこめられた陽光から影の位置へと移動した。それは言ってみれば自己犠牲だ。彩夏とまったく。そう。
「なんだか言ってることが彩夏たちと同じような感じなんですが……」
それを聞くと彼女はようやく胸に畳んでいた細い右足を伸ばすと立ち上がり、どこが可笑しかったのか含み笑いをしながら伸びをする。ブラウスにフリルのスカートを着た彼女は、長身ということもありその容姿よりも数段若く見える。
そして。薄墨の瞳を僕に向けて言う。
「彼女達と私は違うだろう。彩夏達は曲がりなりにも科学者だ。それが科学者じゃなくても超能力者でもいいだろ。一般人と専門家。言うことは違うに決まってるじゃないか。それが普通だ」
さも当然のことのように言う。
本当に超然とそんなことを言われるとそうなのかもしれないという気がしてくるが、あんな何もないところから物が出たり火が出たり、そんなものを目の当たりにさせられたらこのトーラスという巨大なコミュニティのどこに普通なんていう言葉があるのだろうかと疑問を持たざるをえない。
でも。理論とその個人が持つ意見が違うのは当然じゃないのか。立花さんはまるで彩夏達が別の何かのように言っているような気がした。
「大体、立花さんは指揮官と聞きましたが、」
「客員、顧問、だよ。この第五地区のね」
律儀に訂正してくるのは狙っているのか。彼女は腰に手を当てたりしながらなぜかストレッチをし始める。か細い腕が首に回った。
「肩書きとか階級なんてどうでもいいです。彩夏が言うには本当にないらしいですし、それで立花さんは何が聞きたいんですが」
なにって、と彼女はアキレス腱を伸ばし始める。
「正確にはそうさせられている、だがな。――君がここで暮らすに当たって他の仲間と早く打ち解けれるように大よそ把握しておきたくてね。あ、いや、確認、かな」
そこでなんとなく彼女の意図に気づいた。この部屋に立ち込める絵の具や油、乾いた木の匂いがいきなり現実味を帯びて嗅覚を支配する。
なんとなく気づいてのは彼女の黒い瞳が肉食獣のようなざりざりとした雰囲気を持ったからだ。
「時津彫は、ここに来た理由は、『誰かを殺しに来た』そうだろう?」
僕は答えられない。足が自然、一歩下がる。
「もっと言うと、『その誰か殺すために探している』そうだろう?」
僕は循環していないこの部屋の空気に眩暈を覚えた気がした。積み上げられた画板に床に置きっぱなしのカルトン。
この人は――この人は彩夏が分かっていること以上に僕のことを知っている。
なぜ? なぜそんなに僕のことを知っている? それ以上に。なぜこんな質問をするんだ。
僕がそれをしようとしても、きっと失敗すると分かっていても、だろうか。でもそんなことだったら、彩夏達も、いや彩夏もわかっているんじゃないのか。
そんなことより、と、いつのまにか立花さんは腰に手を当てながら右手をイーゼルの端におき、悲しそうな、だが嬉しそうな顔を僕に向けていた。
「このトーラスというものは深い。中にあるものが光にしろ闇にしろ、約三百年という大戦後にできた巨大な闇は大きく、とても深い。むしろオセアニア大戦後に意図的に構築されたものだといってもいい。誰だって思う、なぜこうなったのか。どうしてこうなってしまったのか。そんなことばかり考えてだが、何もしない。だから、行動しようとしている君に一つ期待してるっていうのも、ある」
僕は乾いた喉を動かし、黒のペンキに群青をまぜたかのような彼女に言う。
「あなたは……どこまで知っているんですか」
彼女は答えなかった。今度は明らかに薄く笑い、両腕を胸の前で組んでいる。僕も元から答えなど期待していない。ただ聞かずに入られなかった。
「オセアニア連邦と日本国、いや、この世界のティーア系はいったいどんな戦争をしているんですか、人ではないものを使って。転写体、素体を『使用』して」
「連邦ねぇ…………」
立花さんは長身を折り曲げ、木の色が映えるような影の中に立っている椅子に座り陽光を浴びる。
そう言えば、というかそれならばこれは彩夏の仕業なのか? ということは彩夏は僕に立花さんを会わせたかった?
――時津彫さんが自ら火中の栗を拾うというなら止めませんし――余計なお節介を――
そう、言っていた。成実は。あの時の成実は、『僕と立花さんが会わないように妨害しようとしていた』? 彩夏は成実を立ち去るように仕向けてまで僕を彼女に会わせたかった。
なぜ彩夏は僕と立花さんを会わせようとした? それに成実はなぜそれを妨害しようとした?
わからない。推測と思考が泥のように僕の胸で渦巻く。
そんな様子を凪いだ表情で立花さんは静かに見ていた。
「それは聞かなかったことにしよう。あとここで口外するのもだめだ。あと色々思考しているようだが今は考えるな。そんなことよりも私はもっと期待していることがあるんだ。彩夏のことを頼みたい。あの子はああみて元気一杯だけど、無理をするところがある。それに君と彩夏は無関係ではないしね」
僕の質問を断ち切って話題転換をする彼女の意図を測りかねて僕は眉を顰める。
「彩夏を? 無関係ではない、ってどういうことですか?」
「それはおいおいわかるよ。それよりも彼女は危うい」
立花さんは少し気取った仕草で考えるように茶髪を掻き揚げると、
「蓮桐彩夏は、そう、可愛いんだよ」
「…………」
僕が答えに詰まって一拍ほど間が空いてしまった。だけど彼女はそれが嘘ではなく本当にそう思っているからでた言葉らしく誇らしげに僕を見上げてくる。
「可愛い……、というかそれは容姿が、じゃないですよね? その中身がですか」
「ま、外もかなり可愛いのは認めるけど」
なんだか僕が彩夏を可愛いと思っているようにされてしまった。
「中身が可愛い。そう脆いんだよ。強がってるとか、頑張ってるとか、そういうレヴェルじゃない、そこはもう超えて、あと一歩で崩れるのに一つの信念で踏みとどまっているその可愛さ。可愛いということは弱いということでもあるんだよ。そこが君と彩夏が似ている」
きっと……立花さんはなぜ僕がここにきてなぜ僕がこんなことをしているのか全てわかっているのだろう。だからこんな回りくどいことをしているのだろうと思った。僕を「仲間」に入れるために。目的は違うが彩夏とは違う方法で。だが――そんなことしなくとも初めからそのつもりだった。そのつもりに彩夏にさせられた。
「今は兵法を言った孫子の時代から続いている物量と火力による戦争なんか行われない。一騎当千、まさにそれ。まだ実戦をみてないからわからないだろうが、それが実際に起こっている。その『戦争』というお祭りに集まったのが――ここの連中ってわけ。君も、そうだろう?」
僕は肩を竦めるだけで蛍のように宙を舞うほこりに目を逸らす。集まったかどうかは僕にもわからなかった。
「彩夏は弱い。だが強い。自己臨界性にしてもどこまでもつかどうか。とにかく時津彫、彩夏のこと頼んだよ」
「あの、あなたは」
僕は息を呑んで言う。何を言うか少し迷って。
「可愛いとか脆いとか強いとかそういうんじゃなくて――彩夏は優しすぎる、それに苦しんでいる。そう思わないのですか?」
僕の問いに少し、立花さんは呆れたような表情をしてやはり口角を上げて苦笑しただけだった。
「そうかもしれないな。でも、それは本人に聞くべきことだ。そして、」
そう言うと立花さんの姿の輪郭がぼんやりと発光したように思えた。薄く、青く。
どこから出したのかタバコを一本、容姿に似合わないそれを口に銜えると、発光した手を僕のほうに示す。
「もうさようならの時間だ、時津彫。これ以上自分の家に他人を上がらせておくのは――あまりいい気分じゃないのでね」
――そして、周囲が発光する。視界が遠のく。
僕だけが後ろに逆走しているかのように周囲の景色が立花さんを中心に圧縮し、薄くなり、様々なものが僕の周囲を駆け抜けて言ったような感覚に襲われた。
何かがはじけた気がした。誰かに呼ばれた気がした。ほんの一瞬。
そして徐々に晴れていく風景のそれは、ただの夜景だった。
現れたのは並び立つマンションに車や人々の喧騒が混じる街の中の風景だった。
まるで何かに化かされた、夢から――醒めたようだった。
Anyone can distinguish the reality from a dream, and there is not it.