758冊目『ナイス・レイシズム』(ロビン・ディアンジェロ 明石書店) | 図書礼賛!

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死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

本書は、二〇一八年に出版された744冊目『ホワイト・フラジリティ』の続編である。主にベラル白人のレイシズムを扱ったものだが、述べられている内容としては、前作とそれほど変わりはない。公民権運動によって、米国では、法的に人種間の平等が達成されたが、だからといって、人種間の「実質的」な平等が達成されたかといえば、それは、否である。白人と黒人の経済格差は歴然と存在しているし、産業界、法曹界、アカデミズムの分野でも、白人がその特権を牛耳っているのが実態だ。近年のレイシズム研究では、レイシズムとは、悪意のある排外主義者のみに限定されるわけではなく、こうした人種間の不平等を維持しようという社会的な仕組みこそが差別の温床だ、というのが大方の見方になっている。レイシズムとは構造だ、というのは、そのような意味においてである。

 

レイシズムが社会構造の問題である以上、その社会に住む者は誰もがレイシストだということになる。むしろ、「私はレイシストではない」「全ての人を平等に扱う」と嘯くリベラルな良識派こそ、レイシズムに加担しているとさえ言える。なぜなら、レイシズムの問題を、一部の過激主義者に限定することによって、マジョリティの優位が揺るがない既存の社会構造を維持しているからで、よりたちが悪い。マジョリティのための出来レースが約束されている社会で生きることは、無意識のまま、レイシズムを内面化することになってしまうのだ。そういう意味では、レイシズムの問題に中立はない。イブラム・X・ケンディが言うように、レイシストの反対は、「レイシストではないこと」ではなく、「反レイスシト」でしかありえない。

 

では、われわれにとって、反レイシズムの行動とは、一体、何をすればよいのだろうか。これについては、実に様々な理論や実践があるし、絶対的な唯一の方法というものはないだろう。ロビン・ディアンジェロは、白人自身が、このレイシズムを再生産する社会構造、そして、明白なレイシズムがあることを認めようとしない白人の心の弱さを、しっかり直視し、自己変革するように求めている。これもまた、反レイシズム的行動のひとつの実践であろう。しかしながら、ロビンのこの提言に、私が非常に疑問を感じるのは、レイシズムの解決策を、白人側の自浄作用に求めていることだ。ロビンが言うように、「脆い心を持つ白人」(ホワイト・フラジリティ)が、自らの既得権益を壊しかねない自己変革など、進んで行動するであろうか。むしろ、最近の米国では、白人至上主義の事件が急増中だという(1)。これでは、とても白人の意識改革に解決策を委ねることはできない。

 

レイシズムの中身をもう一度確認しよう。レイシズムとは、悪意を持つ差別主義者による排外主義のみを指すのではなく、人種に基づいた不利益な分配を正当化する社会構造にある。法やエートスや教育が、そうした社会構造を強化するのであるが、ここで私が注目したいのは、言語である。言語もまた、権力関係を示す社会構造である。侵略者は、植民地の土着の言語を許容せず、逆にこれを奪い、宗主国の言語をこそ強制する。そして、今、グローバル化の名のもとに、全世界を覆いつつある英語帝国主義も、そうしたアングルサクソン優位の社会構造を作り上げようという魂胆が見え隠れしている。297冊目『英語を学べばバカになる』の著者薬師院はこう言っている。「アメリカでは、ヨコの関係の中で自分が周囲よりも強くなることだけが、すなわち発展なのである。勝つためだけの議論なら、自分が有利になりさえすればよい。とすると、相手に自分の母語を使わせれば、これほど強いことはない」(114頁)。しかし、悲しいかな。現在の日本は、「名誉白人」の称号でも得たいかのように、この英語帝国主義を喜んで受け入れしまっている。教育、テスト改革、スキルアップのあらゆる分野に、英語が登場する。我々がすべきなのは、英語の相対化であり、多言語に開かれた社会構造を作り出すことである。一見、迂遠なようだが、これはレイシズムへの強烈なカウンターになる。


(1)米で白人至上主義の事件が記録的件数に、前年から40%急増(Forbes JAPAN) - Yahoo!ニュース