744冊目『ホワイト・フラジリティ』(ロビン・ディアンジェロ 明石書店) | 図書礼賛!

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死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

著者は、白人女性は、黒人の前で泣いてはいけないという。一九五五年、ミシシッピ州で、アフリカ系アメリカ人のティル少年が白人女性に色目を使ったとの理由で、白人女性の夫と彼の異母兄が、ティル少年をリンチにし、殴り殺した。なんともおぞましい事件だが、なんと裁判では、夫と異母兄は無罪になった。公民権運動以前の米国社会では、白人女性に苦痛を与えたという理由だけで黒人男性が殺されていたのだ。しかも暴行犯の白人はお咎めなしだ。こうした黒人差別の歴史を目を向けさえすれば、白人女性は、黒人の前で無邪気に泣くことはできなくなる、と著者はいう。米国に根深い黒人差別の歴史に思いを馳せるとしても、これは奇妙な論理だと言わねばならない。公民権運動以降も続く白人優位社会をメスを入れることは必要だが、白人は白人だというだけで内発的な衝動でさえも規制されなければならないのだろうか。

 

二〇二〇年にミネソタ州で黒人男性が白人警官に殺害された事件を受けて、ブラック・ライブズ・マター運動が全米に広がった。本書は、人種差別の問題がいまだに米国にいたるところに巣食っていることがあぶり出されたタイムリーな時期に世に出され、瞬く間にベストセラーとなった。本書は、白人がレイシズムに向き合うことのできない心の弱さに深く入り込みながら、白人の無意識的に潜むレイシズムを抉り出している。近年のレイシズム研究では、レイシズムは、悪意ある過激主義者だけが抱く特異な排外思想ではなく、特定の人種に有利になるように周到に作り上げられた社会構造の問題であるという見解が一般的である。しかし、多くの白人は、公民権運動以降の米国にはレイシズムはない。クー・クラックス・クランなどの過激は白人至上主義を謳う団体は存在するが、多くの一般白人はレイシズムとは無関係だと思っている。しかし、社会を見渡してみれば、富の上位者は白人だらけだし、産業界、メディア、アカデミズム、軍事においても、白人の勢力が幅を利かせているのが実情だ。

 

レイシズムとは人種差別のことだが、そもそも差別とは何なのか。ここで、堀田義太郎による差別の定義を引いておきたい。私には、この「差別」の定義が、もっとも本質に迫ったものに思われる。

差別とは、社会的にさまざまな文脈で不利益または劣等処遇の理由にされている。または歴史的にその理由にされてきた特徴や属性に基づいて、対象となる人々を他の人々と区別し、その人々を不利に扱う行為、または劣位化する行為である」(第五章「差別とは何か」『レイシズムを考える』共和国)

「歴史的に」とあるのが重要である。レイシズムとは、特定の人種が有利になるように社会を編成していく力学のことであるから、「歴史的」という観点は欠かせない。だから、より正確に言えば、レイシズムは「歴史的な構造」の問題だと言うべきであろう。その観点で見た場合、一七九〇年の米連邦議会において市民権取得の申請条件を「自由な白人のみ」と定めた帰化法を成立させたことの意味は大きい。アメリカは、建国の起原そのものがレイシズムであったことになる(監訳者解説)。

 

米国でベストセラーとなった本書だが、当然ながら、反発もまた強い。私もまた、本書が強く主張するレイシズムは構造的差別であるという結論に全面的に賛成するものであるが、冒頭でも紹介したとおり、白人女性は泣いてはいけないという内発的な衝動でさえ規制がかけられるような反レイシズムの主張がどれだけ説得力を持つのか甚だ疑問だというふうにも感じている。さらに言えば、白人が優位に進めてきた歴史的清算を白人側がどこまで徹底的に行うのかという点も、大いに気にかかるところである。レイシズムが歴史的な構造である以上、法や条例といった社会制度だけでなく、文化、言語、習慣にもそのレイシズムは反映されていることになる。もちろん、宗教もだ。岡田温司の『西洋美術とレイシズム』(569冊目)によれば、キリスト教にもレイシズムの眼差しと無縁ではない。著者は、キリスト教については特に何も述べていないが、レイシズム解消のために米国人のアイデンティティの根幹であるキリスト教に切り込むことなど果たしてできるのだろうか。