569冊目『西洋美術とレイシズム』(岡田温司 ちくまプリマ―新書) | 図書礼賛!

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巨大な方舟を作って大洪水から避難した「ノアの方舟」には後日談がある。大水が引いて、地上に戻ってきたノア一家は、ブドウ栽培に精を出した。ある日、父親ノアがぶどう酒を飲みまくって酔っ払ったはてに全裸のまま寝てしまう。その姿を末っ子のハムが見つけ、セム、ヤペテの二人の兄に知らせる。セム、ヤペテは、着物で父の裸を覆い隠すわけだが、酔いがさめたノアは、ハムに対して「カナンは呪われよ、奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ」と叱責する。酔っ払って醜態をさらしたのはノアなのに、この怒りようは意味不明だが、これが紛れもなく旧約聖書の『創世記』に書かれている内容なのだ。興味深いのは、聖書では、呪われたハムの行きつく先がエジプトであったと書かれていることだ。「ここにはすでに、エジプトとそこから南の土地を、「呪い」のしるしと「奴隷」の運命のもとに置こうとする下心が見え隠れしているように思われる」(12頁)。

 

このハムの悲劇は、多くの西洋画の主題になってきたわけだが、ここには聖書に見られない数々の特色がある。ハムにユダヤ人の象徴である三角帽をあてがっていることや(《教訓化聖書》)、肌が色黒で小鼻が目立ち、縮れ毛(《アルバ聖書》)の姿で描かれている等である。聖書には、肌の色についての記述はないから、ここにレイシズム的な作為を見ることができる。実際、奴隷を運命づけられたハムの物語は、大航海時代以降、黒人奴隷貿易を正当化させる根拠として持ちだされきたという歴史がある。西洋美術は、ひそかにその下支えとなっていたというわけなのだ。「聖書に端を発するレイシズム的な発想は、かくも根強く、ほとんど社会的で文化的な無意識とも呼びうるようなレベルにおいて広く浸透していたと考えられるのである」(29頁)。

 

本書では豊富な西洋画がカラー写真で収められているが、もっとも戦慄するのは「まだらの黒人」の絵だろう。西洋植民地主義のなかで、宗主国に連れ去られた黒人のなかに、白皮症(アルビニズム)の黒人の子供が西洋画家の好奇なまざしを浴びることになる。《ティニーのマドレーヌと母親》、《結婚の仮装行列》、《まだらの黒人》などに、こうした黒人少年の姿が描かれているが、いずれも黒い皮膚が剥がれ落ちるようにして内側の白い皮膚が露わになるという描き方をしている。つまり、黒というのは病的な表皮であり、それが脱皮することによって、正常な人間に近づくというレイシズム的価値観がこれらの作品には共有されているのだ。勿論、ここでの正常な人間とは、白人のことである。「つまり、その黒い皮膚の下から白い肌があらわになったとするなら、人間の肌は本来白いはずで、それが黒くなったとするなら、何らかの悪しき病により、と考えられているのである」(52頁)。

 

本書は、旧約聖書をレイシズム的に読んできたキリスト教絵画を扱ったものである。聖書の記述と西洋美術の二つのテクストをクロスさせながら、聖書の記述にはない作為を析出し、西洋絵画からレイシズム的要素を取り出している。その分析は圧巻である。美術の分野が鑑賞者の感性教育という側面があるのなら、西洋絵画を鑑賞することは無意識的にこのレイシズムを内面化していることになる。この無意識で根強い偏見は、近代的啓蒙によって解消されるどころか、むしろそれを補強さえする。というのも、啓蒙の十八世紀において、ノア以降の聖書の物語はおとぎ話ではなく、科学的な研究によって実証的に明らかにされると理解されてきたからだ(56頁)。レイシズムにおいては科学でさえも利用される。注目したいのはこの先行関係である。感性に巣食うレイシズムがあって、それが学問や科学の体裁をとる以上、有効なカウンターは啓蒙や理性ではなく、共感ということになる。この共感をどのように発動させるかが課題であるが、この論点は、人権文化を提唱したリチャード・ローティが参考になる。これは機会を改めて、また論じたい。