568冊目『レイシズムを考える』(清原悠編 共和国) | 図書礼賛!

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四年ほど前、休日に新宿をブラついていたら、排外主義のデモ行進に遭遇した。ヘイトスピーチが大きな社会問題になっていることは知っていたし、自分なりにこの問題に向き合っていたつもりだったが、実際のヘイトデモの光景を見たのはこれが初めてだった。ヘイトデモを遠目に見ながら、私は率直に怖いと思った。心底恐怖を感じた。彼らのがなり立てる「在日朝鮮人は祖国に帰れ」等のヘイト言説の対象に私は入っていない。それでも、私は圧倒的なヘイトの迫力に圧し潰されそうになった。実際に憎悪が向けられる在日の人々にとっての精神的なダメージは計り知れないものがあるのではないだろうか。この時、私が確信したのは、言葉は間違いなく、ひとつの暴力であるということだ。

 

日本には、ヘイトスピーチもひとつの言論の自由であると考えている人も少なくない。2016年にヘイトスピーチ解消法が可決されたが、世界基準で見ればまだまだ程遠いものだった。たしかに公権力が特定の言論を取り締まるというのは非常に危険な要素を孕む。言説の善悪の基準を国家が掌握してしまうことは、独裁国家のやることだろう。国家権力から言論の自由は絶対に守らなければならない。しかし、ヘイトスピーチは断じて、言論の自由ではない。先ほども述べたように、ヘイト・スピーチは威圧的な言葉によって、人々を精神的に死に追い込む言葉の暴力であるからだ。したがって、社会の成員に危害を加える言葉は法規制の対象になることが正当化される。

 

しかし、ヘイトスピーチに代表されるようなレイシズムの問題が非常に厄介なのは、人は誰しもレイシストの部分があるということだろう。かくいう私も例外ではないし、レイシズムを批判する人だって、レイシストの可能性がある。本書はさまざまな専門的見地から、レイシズムの実相を多角的に捉え、この問題がいかに複雑で根深いものなのかを浮かび上がらせている。マイクロアグレッションという心理学の用語がある。これは、意図の有無にかかわらず、日常のさりげない言葉による侮蔑的、抽象的な言葉による攻撃のことをいう。たとえば、日本生まれ日本育ちの日本語しか話せない在日三世の人に「日本語、上手ですね」という言葉をかけることは、こうしたマイクロアグレッションに当たる。言った当人はとても差別をしている意識はないが、言外のメッセージとはしては、「お前は日本社会の周辺的存在でしかない」という意味合いを含んでいるからである。

 

これは私も実感として分かることである。私は沖縄生まれの日本人であるが、與那覇という珍奇な苗字のせいでいくぶん不快な思いをたびたび経験する。私の胸にかかったネームプレートをまるで珍奇な怪獣を見るようにじろじろ見られたりしたこともある。本人に悪気はないのだろうが、「お前はよそ者」と言われてるような気がして、どうも面白くない。ここで重要なのは、マイクロアグレッションは、当人に差別の意図がない分、ヘイトスピーチに比べるとだいぶ穏和な攻撃である、とはいえないということだ。マイクロアグレッションは、軽微な言葉によるからかいのことではない。場合によっては、ヘイトスピーチに劣らないほどの精神的被害を相手に与えるのである。本書は、精神分析から国籍法、資本主義、ネット文化、環境レイシズム、文学といった多様な観点からレイシズムを捉える。レイシズムは街宣デモをするヘイト集団だけが専有しているものではなく、実は私たちの身の回りの日常に溢れているものなのだ。そうしたヘイトの温床をひとつひとつ潰していくことが大事なのだと思う。