567冊目『漢文スタイル』(齋藤希史 羽鳥書店) | 図書礼賛!

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齋藤希史の『漢文スタイル』を読んだ。齋藤希史という名は、大学受験対策をする国語講師なら知ってる人も多いのではなかろうか。そう、2014年のセンター現代文の第1問「漢文脈と近代日本」の著者である。この本については、私もかつて354冊目『漢文脈と近代日本』(齋藤希史 NHKBooks) で書いたことがあるが、センター試験で出題された箇所はその冒頭部分だ。その内容は、漢文を読むことは単なる語学の習得を超えて、天下国家を論じる士大夫としての思考を身に付けることなのだというのがおおまかな論旨なのだが、この本でも同じテーマを論じた箇所がある。

 

例えば、次のような文である。著者は、本居宣長や湯川秀樹がどのように漢文に接したかという興味深い事例を紹介しつつ、こう述べる。「書くための手本として『文章軌範』や『唐詩選』を読むとき、そこに示されている主体に自らを重ね合わせる作業が必要となり、思考と行動のモデルが探された」(129頁)。漢文の読み書きは、単なる語学学習を越えて、人として生きる教養を指し示すものだったことが書かれている。ところで、本書では、センター試験の文章にはない、次のような問題提起がある。「漢文脈の読み書きによって形成される主体とは何か。近代的個人なるものとそれはどのように異なっているのか重なっているのか。」(131頁)、正直、私の手に余る問題だが、以下、これについて考えてみよう。

 

近代の個人というのは、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」に由来する理性的主体モデルを端緒とする。デカルトは、思考を阻害するものとして身体を物質と捉え、理性的な主体こそが真実に迫ることができると考えた。このような理性的に思惟する主体が近代を作ったと、ひとまず言うことができる。理性的主体は、宗教や伝統などの影響を弱め(世俗化)、自然を対象化し、産業化・都市化を促す一方で、自由や平等といった普遍的な価値観を志向する。普遍性に開かれた理性は、やがて、自分が属す国家を相対化し、国家に対して批判的な視座をもつことにもなるだろう。では、この近代の主体モデルと漢文脈の主体モデルはどう違うのか。

 

近代的主体が国家を相対化する視点を獲得したのに対して、漢文脈の主体は、天下国家を論じる士大夫の思考に同一化する。すると、両者の違いは相対化か同一化かということになるが、しかし、話はそう簡単ではない。中国古典文を読んでいるとすぐに気づくが、その主な価値観は諫言である。儒教的な価値観では、世俗の王よりも道理という価値観の方が優位にある。したがって、道理を把握している士大夫が、王様の言動を戒めるという話型をとるのだ。ちなみ、日本古典ではこの諫言のような思想はほとんどない。漢文脈の主体が持つ価値観も相対化であり、単純に国家に従順になることではない。したがって、我々が考えねばならないのは、近代主体と漢文脈主体がそれぞれ上位に掲げている「理性」と「道理」の方だろう。これらははたして同じものなのか。それとも似て非なるものなのか。この問題はまた機会を改めて書きたい。